【第三巻】第十章 声のない歌(三)
夜、俺は写しの束を風呂敷に包んで、あいつの部屋の戸の前に立った。
今朝、叩けなかった戸である。
叩けなかった理由は、今朝の項で書いた。言葉の在庫が空だったからだ。今夜は、在庫がある。昼のうちに、焼け跡と、病室と、道化の宣戦布告とを回って、仕入れてきた。仕入れの中身は、慰めではない。決断である。慰めの言えない男は、せめて決断を持って戸を叩くしかない。
今夜は、叩いた。
「ヨウタ? 開いてるぞ」
あいつは卓に向かって、何かを書いていた。灯りの輪の中に、書きかけの紙が何枚も散っている。俺が入ると、あいつはペンを置いて、こちらの風呂敷に目を留めた。
「話がある」
「うん。なんか、俺もちょうど、話したかったところだ」
俺は卓の上に、風呂敷を解いた。
五冊半ぶんの紙の束が、灯りの下に出た。インクの染みた俺の指と、頁の隅の通し番号と、綴じ紐の結び目と。十日ぶんの夜なべが、物の形になって、二人の間に置かれた。物の形というのは便利である。言葉で説明する前に、体積が半分を語ってくれる。
「親父さんの帳面の写しだ」
「帳面って、あの、焼けた」
「歌帳。六冊あった。俺はここ十日ばかり、夜中に店へ通って、これを写してた。写し物、と言ったのは、これのことだ」
あいつの目が、束と俺を、二往復した。
「無断で始めた。防災のつもりだった。紙は燃えるからな。……燃えてから分かったが、防災じゃなかった。これは、渡すための写しだった。親父さんの三十年を、次に読む誰かへ渡すための」
「写してたの、か。ずっと」
「ああ」
「夜中に、こつこつ」
「ああ」
あいつは、しばらく黙った。
黙って、それから、束の一番上の一冊に、そっと手を置いた。置いた手つきが、形見の短剣に触れる時の手つきと、同じだった。
「――ありがとう」
声が、少し湿っていた。
「お前が謝る流れかと思ったら、俺が礼を言う流れだった。……そうか。写してたのか。あの店の帳面、生きてるのか。半分以上」
「五冊半だ。六冊目の後ろ半分は、間に合わなかった」
「間に合わなかった、って言うなよ」
あいつは首を振った。
「五冊半、間に合ったんだろ。なあヨウタ、俺さ、昨日からずっと考えてたんだ。燃えたもの、消えたもの、なくなったものの数ばっかり数えてた。でも、さっきまで書いてたのは、そっちじゃない」
あいつは、卓に散った書きかけの紙を、束ねて見せた。
几帳面な字で、上から下まで、びっしりと埋まっていた。
「親父さんが話してくれたこと、俺が覚えてる分、全部書き出してた。愚者の祭りの故事だろ、歌の話だろ、道化の口上の作法だろ。それから、母さんの歌。村の歌。爺さんの謡も、一番と三番なら、俺は全部歌える。……声が出ないなら、親父さんの話した言葉は、聞いた俺たちの中にしかない。なら、俺たちが紙になればいい」
俺たちが、紙になればいい。
話の筋が一周して戻ってきた、と数える癖を、俺はこの瞬間だけ、頭から追い出した。追い出して、ただ、聞いた。
「入れ物は燃えた。でもさ」
あいつは、自分の胸を、拳で軽く叩いた。
「約束は、こっちに移ってた。あの店で聞いた話、全部。あの店で食った飯の数だけ、こっちに移ってた。……約束の入れ物ってのは、建物じゃなくて、たぶん、これのことなんだ」
約束は、入れ物が焼けても、消えない。
聞いた者の中に、残る。
バラッドの夜語りの一行が、十日と一晩を回って、聞いた側の口から、完成して戻ってきた。俺の帳簿はその一行を、教訓の欄ではなく、あいつの言葉の欄に記帳した。そちらのほうが、正しい置き場だと思った。書物を焼く王の時代に、学者が壁の中に書を塗り込めて隠した、という話がある。あいつの隠し場所は壁ではなく、胸だ。壁より、燃えにくい。
「――で、だ。ヨウタ。話ってのは、写しのことだけか?」
「いや」
俺は、居住まいを正した。
ここからが、今夜の本題だった。
「明後日の照合の儀を、狙ってるやつらがいる。火をつけたのと、同じ連中だ」
あいつの背筋が、伸びた。
「正体は、まだ全部は言えない。俺が夜、何をしてきたかも、まだ全部は言えない。だが、これだけは言う。明後日、あの儀式の場で、あいつらは仕上げに来る。紙と人が一箇所に集まる、あの場所でだ。俺は、それを潰しに行く。危ない仕事だ。だから――」
言葉を、一度切った。
二年間、言えなかった形の言葉を、口の中で組み立て直した。
「――第二条だ。手を貸してくれ。二人で分けたい」
あいつの顔が、ゆっくりと、変わっていった。
驚きから、別のものへ。それは、武闘祭の決勝の朝の顔でも、稽古の顔でもなかった。強いて言えば――ずっと待っていた便りが届いた時の、あの顔だった。
言ってしまってから、俺は自分の帳簿の異変に気づいていた。軽いのだ。全部は言っていない。正体も、速さも、二年間の夜の中身も、まだ胸の底に沈めたままだ。沈めたままなのに、「危ない仕事がある。手を貸せ」の一行を口に出しただけで、荷が、目に見えて軽い。言うというのは、こういう作用のある動詞だったのか。三十年黙った男と、二年黙っている男と、黙り方の年季は違えど、この作用を知らずにいたのは、同じだった。
「……お前から第二条を言い出したの、初めてだぞ」
「記録しとけ」
「する! 絶対する! 今夜の日付ごと書いとく!」
あいつは跳ねるように立ち上がり、手を差し出した。
俺はその手を握った。握った瞬間、あいつが勢い余って卓に膝をぶつけ、積んだ写しの束が雪崩を打ち、五冊半ぶんの紙が二人の足元に散った。
「わっ、ごめん! 拾う! 順番あるのかこれ!」
「ある! 隅の番号を見ろ!」
決断の夜の後半は、夜中の紙拾いになった。二人で床に這いつくばって、隅の番号を照らし合わせ、一枚ずつ束に戻していく。様にならないことこの上ないが、まあ、うちのパーティの決起は、いつもだいたい、こういう格好をしている。森の主の頃は城壁の上で銅貨一枚だったし、王都では宿の屋根で杯二つだった。床に紙五冊半というのは、うちの決起の歴史の中では、書類仕事の比率が上がった分だけ、出世と言えなくもない。
「なあ、番号が飛んでるぞ。八十六の次が八十八だ」
「八十七は俺の手の中だ。……焦るな。一枚ずつだ」
「写しの整理まで工程なんだな、お前の仕事は」
「工程のない仕事は、事故と呼ぶんだ」
拾いの終盤で、あいつの手が、ふと止まった。
一枚の頁を、灯りに向けていた。
「なあ、ヨウタ。これ、『クラウンの件、まだ言えず』って」
三冊目の、あの頁だった。
「うちのこと、だよな」
俺は、頷いた。
「親父さんは、お前の家の何かを、ずっと前から知ってる。知ってて、言えないまま、三十年抱えてきた。……声が戻ったら、自分の口で話すつもりでいる。俺はそう聞いてる」
「そっか」
あいつは頁を見つめて、それから、丁寧に束へ戻した。
「――じゃあ俺、二つ待つよ」
「二つ?」
「仮面の人と、親父さんの話と。待つのは得意になった。最近、いい師匠が多いからな」
笑った顔が、灯りの中で、少しだけ大人に見えた。
束を全部積み直してから、俺たちは卓を挟んで、明後日の段取りの入り口だけ組んだ。
「儀式の場では、お前は表にいろ。当主だからな。どのみち衆目の真ん中だ」
「で、お前は裏、か」
「裏が俺の持ち場だ。二人で分ける、ってのは、同じ場所に並ぶって意味じゃない。表と裏を、一つの仕事として分けるって意味だ。……それでいいか」
「いいよ」
あいつは、即答した。即答の速さに、俺のほうが一拍遅れた。
「いいのか。裏の中身、聞かないのか」
「聞かない。第二条には、続きがあるだろ。無茶をしない、異変は隠さず言う。お前は今夜、言った。俺の知ってる限り一番大きいのを、言った。なら、残りは信じる番だ。表は任せろ。俺の持ち場で、俺は誰にも、指一本ふれさせない」
任せろ、が出た。
今夜のは、口癖ではなかった。宣誓だった。
灯りを消して部屋に戻る廊下で、俺は今夜の帳簿を締めた。貸方に、写しの開示と、第二条の初申請。借方に、まだ言えない残り全部。差し引きはまだ大きく借り越しだが、帳簿というものは、動き始めた日から、締め方が変わる。
明後日、照合の儀。
表に白光。裏に俺。読み上げられる二百年と、狙う灰色と、それから――王宮の目が閉じられた、三日の白紙。
工程表にない行の、書き出しの位置は決まった。




