【第三巻】第十一章 照合の儀(一)
決戦前日のうちのパーティには、恒例の流れというものがある。
一巻――もとい、一年前の対魔獣戦の前も、王都の決勝の前もそうだった。あいつは飯を大盛りにし、装備を全部並べて点検し、早口になる。俺は買い物が増え、夜が長くなり、口数が減る。互いの前日の癖を、互いにもう指摘しない。指摘しない、という手続きまで含めて、恒例である。
今朝のあいつは、宿の食堂で大盛りの粥を平らげ、剣帯の革を締め直し、それから、王都で表彰式に着た一張羅を衣紋掛けに吊るした。明日の儀式は、クラウン家の当主として臨む。当主の身支度というものを、あいつは誰にも教わらずに、一人で組み立てている。
「なあヨウタ、口上って、要るのかな。『クラウン家当主、ジェスター・クラウンです』……で、足りるか?」
「足りるだろ。名乗りに飾りをつける家風でもあるまい」
「だよな。うちは、名乗りは短くて、歌が長い家だ」
いい要約だったので、帳簿に控えた。名乗りは短く、歌は長く。家訓の候補としては、十一項目の一覧のどれより、様になっている。
穂月十五日の朝、俺は開室前の資料室で、アルヒフと向き合っていた。
「明日の儀式を、狙っている連中がいます」
前置きは、抜いた。抜いても通じる相手だと、この十日で分かっている。
アルヒフは眼鏡を掛け替えもせず、頷いた。
「存じております」
「存じて、いたんですか」
「錠前の歯形。火事の晩の陽動。そして昨日、書架馬車の車輪の轍を、何者かが計測しておりましてな。轍を測る者の用事は一つ。馬車の重さ――つまり、積み荷が動いたかどうかを知ること。鼠の帳面は、なかなか勤勉です。勤勉な帳面の次の頁は、読めますのでな」
書庫の老人は、俺の帳簿の三日先を、紙の癖だけで読んでいた。この人が敵でないことに、俺は毎日一度ずつ感謝している。
「それで、サイキ殿。貴殿の相談は、警告だけではありますまい」
「ええ。――仕掛けを、一つ」
俺は、昨夜組んだ工程の前半を、卓に広げた。
明日の儀式には、照合資料の一式が持ち込まれる。正本か、控えか。連中の狙いがどちらでも、届く場所に「取れる紙」があれば、連中は取りにくる。取りに来た紙が、後で連中の帳簿を狂わせる紙であれば、なおいい。
「控えの写しに、一箇所だけ、本物と違う行を入れたい」
アルヒフの眉が、初めて動いた。
「……偽の記録を、作れと」
「偽の、ではなく。連中にだけ偽になる記録を、です。塗り潰しの頁の整理番号を、一桁だけずらす。本物の照合には司書長どのの正本がある。ずれた番号の写しは、盗んだ者の手の中でだけ、嘘をつく」
沈黙が、机の上に降りた。
記録の人間に、記録を曲げろと頼んでいる。それがどれほどの頼みか、俺は承知の上だった。三十万冊の背表紙を守ってきた老人の職業倫理と、明日の実利と。天秤の揺れる音が、聞こえるようだった。
やがて、アルヒフは眼鏡を外し、丁寧に拭いて、掛け直した。
「――誤記、ということにしましょうかな」
「誤記」
「写字生が、疲れておったのでな。写し間違いは、偶然ゆえ、突き合わせれば正せる。……訂正の日付は、未来にしておきます。事が済んだ日の日付をな」
書庫流の詭弁である。詭弁であるが、帳簿の風味は俺の流儀と同じだった。誤記の訂正予定日を先に決めておく校正など、王国の書庫史に前例はあるまい。前例になっていただければ通ります、と受付の誰かなら言うところだ。敵陣に偽の書状をわざと盗ませて、敵の将を疑心で倒した軍師の話がある。あちらは将軍の首が飛んだ。こちらで飛ぶのは、整理番号の一桁である。軍師より、被害が小さい。
「それと、司書長どの。もう一つ」
「まだありますかな」
「明日の儀式の場に、これを」
俺は、風呂敷の包みを卓に置いた。五冊半の写し――ではない。昨夜のうちにあいつと二人で仕上げた、その目録である。歌帳の写しの存在と冊数、それに、あいつの書き起こしの一覧。現物は別の場所に置く。目録だけを、照合の記録に載せてもらう。
「口伝の聞き書きと、私的な帳面の写し。これを、公式の照合記録に、ですか」
「紙は増やして離す、の応用です。存在が公式記録に載れば、燃やしても消えない。連中が一番嫌うのは、燃やしたのに残ることでしょう」
「……ふむ」
老人の目が、細くなった。細くなった目の奥で、何かが楽しげに動いた。
「サイキ殿。貴殿、書庫に来ませんかな。王都の。本気の勧誘ですが」
「辺境の物価が性に合ってるので」
「惜しい。実に惜しい」
昼、俺たちは渡り鳥亭にドヤールを訪ねた。
依頼の口上は、あいつがやった。明日の昼、照合の儀と同じ刻限に、広場で興行を打ってほしい。名目は、鈴鳴り亭再建の資金集め。木戸銭は全額、店の再建へ。
ドヤールは腕を組んで、聞き終えて、鼻を鳴らした。
「――つまり、だ。明日、貴様らは俺様に、街の人の流れを預けたいわけだ」
察しの良さに、あいつと俺は顔を見合わせた。
「儀式の刻限に興行をぶつけりゃ、野次馬の半分は広場に流れる。儀式の場は身軽になる。何かあっても、広場の客は俺様の声の届く場所にいる。講談師ってのはな、声一つで三百人を座らせたり立たせたりする商売だ。使い方くらい、言われなくても分かる」
「話が早くて助かります!」
「ふん。で、勘定の話だがな」
ドヤールは指を一本立てた。
「木戸銭は全額、店に入れる。俺様の取り分は、なしだ」
「え、それじゃドヤール殿の実入りが」
「馬鹿め。考えてもみろ。俺様は明日、『焼けた店のために一肌脱いだ講談師』になる。この看板の値段が、木戸銭何回ぶんになると思ってる。人情ってのはな、クラウン、帳簿につけると一番利回りのいい商売なんだよ。……と、いうのは建前でな」
声が、少しだけ、素に落ちた。
「あの店の親父には、俺様も王都みやげの一席、聞かせる約束があった。約束の席が燃えたままじゃ、寝覚めが悪い。建て直すぞ、さっさと。以上だ。質問は受けん」
受けんと言った顔が、耳まで赤かった。人情の費用対効果を語る男の決算は、結局いつも、人情のほうに傾く。
夕方、段取りの仕上げに、ゴルドー組の詰め所へ寄った。
明日の巡回の配置を頼み、酔っ払い街道を儀式の刻限だけ二本に増やす算段をつけた。ゴルドーは板図に印を打ちながら、「またこの流れか」という顔をした。頼む側も頼まれる側も、もう手順を覚えてしまっている。うちの街の非常時は、二年で様式美になった。様式美になった非常時というものの是非は、平和になってから考える。帰り際、ゴルドーが俺を呼び止めた。
「おい。例の、渡り鳥亭のほうの妙な静けさな」
「ああ」
「消えたぜ。今朝からだ。若いのが言うには、あの一角の空気が、急に普通に戻ったと」
北東の穴が、消えた。
見張りが、見張りをやめた。やめて、どこへ行った。答えの候補は、一つしかない。
夜、宿の屋根の上で、俺は最後の帳尻を合わせた。
合わせている途中で、隣に鈴の音が一つ、降りた。今夜のトリルは、帽子をかぶっていた。鈴は二つ。芸の顔だった。芸の顔で来た、ということは、湿っぽい話は無しでいこう、という符牒である。
「段取りは」
「表に白光。裏に俺。広場に講談。巡回は二本。紙には仕掛け。……あんたの白紙は、どこで使えばいい」
「あたしはね、明日、儀式の場の一番いい席で、見物してるよ」
「見物」
「王様の目より先に来た目、って言ったろ。あたしの見たものが、そのまま王都への文になる。……だからさ、旦那。あたしの席から見えるものと、見えないものを、よく考えて動くんだね。あたしの帳面は正直だが、帳面ってのは、見えた分しか書けないのさ」
見えた分しか、書けない。
つまり、見えない場所で済ませたことは、載らない。王宮の記録に、俺の裏の工程は、最初から存在しない。三日の白紙の使い道は、白紙のままにしておくこと。それが道化流の貸し方だった。
「――恩に着る」
「およしよ。あたしはただの、口の軽い見物人さ」
鈴を鳴らして、まだら服は夜の屋根を渡っていった。
二つの穴が、明日、同じ場所で開く。
こちらの手札は、表の当主と、裏の帳簿係と、声の届く講談師と、正直で融通の利く帳面書きが二人。それから、誤記一つ。
工程表にない行の書き出しに、俺はペンを置いた。書き出しの一文字目は、もう乾いている。




