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【第三巻】第十一章 照合の儀(二)


 穂月十六日、昼。照合の儀は、ギルドの大広間で始まった。

 正面に長机。アルヒフと書記が二人。机の上に、照合資料の一式と、革帯で封じた正本の箱。その前に、一張羅のあいつが立つ。腰には剣帯と、鈴の短剣と、バラッドの手鐘。左右に支部長とミエルさん。壁際の席に、来賓と見物人が三十ほど。前列の一番いい席で、まだら服が足を組んでいた。

 広場からは、遠く、張り扇の音が風に乗って届いていた。ドヤールの興行は満員だという。おかげで大広間の見物人は、当初の見込みの半分で済んでいる。演目は「鈴鳴り亭讃歌」――昨夜のうちにドヤールが書き下ろした新作で、焼けた店の三十年を、講談の形で立て直す一席だという。木戸銭の箱は開演前に一杯になり、リリが二つ目の箱を抱えて立ったまま眠っている、との報せだった。あの店の再建の土台は、儀式より先に、広場で組み上がり始めている。

 俺は、いなかった。

 正確には、大広間の天井裏にいた。梁の上、明かり取りの格子の脇。会場全体が見下ろせて、外周の廊下と窓の並びに三歩で届く位置である。写字生の欠勤届は、朝のうちにアルヒフへ出してある。事由の欄には「所用」と書いた。誤記の多い写字生で、申し訳ないと思う。

「――これより、王宮書庫の照合の結果を、関係各位の立ち会いのもとに読み上げます」

 アルヒフの声が、広間に通った。

 書記が頁をめくる。羊皮紙の音。咳払い。椅子の軋み。会場の音の目録を、俺は天井裏で開き、平常値を取った。

「一つ。クラウン家の紋章、通称・鈴の輪の五つ鈴について。王国暦三百年前後の宮中記録、第二百十四架収蔵の該当頁と照合し、輪の径、鈴の数、吊り位置、全て一致。同一の紋と認める」

 会場が、静かにどよめいた。

 あいつは、背筋を伸ばしたまま、微動もしなかった。

「二つ。同頁は、紋を除く全文が塗り潰されている。塗り潰しの墨は宮中の公用墨。実行の時期は、記録の前後関係から、王国暦三百十二年から三百十五年の間と推定される」

 二百年前の、三年幅。

 書庫の照合は、噂の曖昧さを、数字の輪郭に変えていく。会場の三十人が、固唾を呑む音まで、俺の耳は数えていた。数えられるうちは、まだ平常である。

「三つ。フェルマータ村の教区記録、および隣町トレモロの婚姻記録より、クラウン家の家系の連続性を確認。現当主ジェスター・クラウン殿に至るまで、当該の紋の家系と、断絶なく繋がる――」

 読み上げが、そこまで進んだ時だった。

 異変は、三項目めの途中で来た。

 アルヒフの声が、痩せた。

 声量が落ちたのではない。声はそのまま出ている。出ているのに、届く途中で、削がれていく。会場のあちこちで、聞き取ろうと首が前に出た。書記の頁をめくる音が、消えた。椅子の軋みが、消えた。音の目録が、上から順に、白紙になっていく。

 来た。

 位置を探す。音の流れの傾きを、肌で読む。水盤の傾く先――北の壁際、来賓席の外れ。灰色がひとり、目立たない席で、左手を胸に当てて座っていた。それから、もう一つ。廊下側の窓の外、死角に、音の穴がもう一枚。

 二枚同時。本命は会場の中、控えが外。

 俺は梁の上を三歩、音を置かずに走り、明かり取りから外の庇へ抜けた。

 まず、外の一枚から。

 窓の死角の男は、会場に踏み込む機を測っていた。測っている人間は、背後の帳簿が留守になる。庇から逆さに降り、首筋、当て身、浅く。崩れる体を窓枠の内へ引き込み、廊下の物陰に横たえた。夜明けまでの深さである。ここまで、呼吸四つ。

 会場に戻る。天井裏ではもう遅い。俺は廊下の扉の陰まで降りた。

 広間の中は、静寂が満ちつつあった。

 アルヒフの唇が動いている。声は、もうほとんど届かない。会場の全員が、異常に気づき始めていた。気づいて、ざわめこうとして、ざわめきの声すら生まれずに、口だけが動く。三十人の無音の会場。あの火事の夜の、絵の中の景色が、白昼の儀式の場に再現されていく。

 灰色の男が、立ち上がった。

 左手は胸に。右手が、長机の上の紙の束へ、まっすぐに伸びる。歩き方に迷いがない。誰にも聞かれず、誰にも語られず、二百年の答えごと、この儀式を静寂に還す――そういう工程の、仕上げの歩幅だった。

 だが、その工程表には、書いてない行が一つある。

 あいつが、動いた。

 表の当主は、長机の前から半歩も引かなかった。引かずに、腰の鈴の短剣を、鞘ごと抜いて、高く掲げた。

 俺と決めた合図は、「音が死んだら、鳴らせ」。それだけである。理屈は説明しなかった。説明できる種類の理屈でもなかった。あいつは理屈を聞かずに、頷いた。信じる番だ、と言った男は、その言葉どおり、無音の広間のど真ん中で、家宝を空に掲げた。

 鈴が、鳴った。

 ちりん、と。

 静寂の腹の中で、その一音だけが、完全な形で鳴った。

 二年前の夜、静寂の円を歩けた唯一の音。理由は今も分からない。分からないまま、あの澄んだ小さい音は、音を食う術の腹の中で、消化されずに響き渡った。

 そして俺は、賭けの後半の札をめくった。

 消した音は、術者の内に溜まる。あの夜の道標の前で立てた仮説である。溜まったものは、抑えられている間だけ、静かでいる。抑えの利かなくなる瞬間が来るとすれば、それは、器の限界まで飲んだ直後――今日のような、過去最大の領域を張った直後だ。腹一杯の水盤は、指一本の振動で、こぼれる。

 指一本の振動に、俺は、消化されない音を選んだ。

 あの男の内側の音たちは、二年も二百年も、鳴りたくて鳴れずに溜まっている。同族の音が、外で、完全な形で鳴ったら。理屈はそれだけだ。理屈と呼ぶには検証が甘すぎる賭けだが、賭け金を積んだのは俺ではなく、この十日の連中の所業である。

 灰色の男が、止まった。

 止まって、左手で胸を、掴んだ。

 見えたわけではない。だが俺には、聞こえた気がした。あの男の内側で、何かが割れる音が。二百年の道標の声、五十年の謡の二番、看板の墨、レシピの板、酔っ払いの歌、犬の声――飲み込んで、溜めて、抑えつけてきた音たちが、たった一つの澄んだ鈴に共鳴して、いっせいに、内側から鳴り始める音が。

 男の口が、開いた。

 声にならない声が、噴き出しかけた。

 俺は、走った。

 扉の陰から男の背まで、呼吸二つ。音の暴走が男を壊し切る前に、首の付け根、当て身、深く――ただし、浅い場所で止まる深さに。

 男は、崩れた。

 崩れると同時に、広間の静寂が、割れた。

 音が、戻った。ざわめき、悲鳴、椅子の倒れる音、アルヒフの声の後半、そして、掲げられたままの鈴の残響。世界の音が全部いっぺんに戻る瞬間というのは、存外、優しい騒がしさをしている。

 収拾は、速かった。

 速かった理由は、段取りである。ミエルさんが立ち上がり、「ご来賓の中に気分を悪くされた方がいます」と、事実の形をした宣言を打った。事実ではある。崩れた灰色は、誰の目にも、発作で倒れた小柄な来賓に見えた。ゴルドー組の若い衆が二人、担架の手際で男を運び出す。運び先は詰め所の奥の、鍵のかかる部屋である。段取りのうちだ。

 会場のざわめきは、「妙な立ちくらみの流行り」と「それはそれとして読み上げの続き」の二手に割れ、後者が勝った。この街の見物人は、見世物の優先順位を知っている。

 トリルは、一番いい席で、足を組んだままだった。

 組んだ足の先が、俺のいる扉の陰に、一瞬だけ向いた。見えた分しか書けない、と言った道化の目は、たぶん、ちゃんと見えない角度を選んで伏せられていた。あの帳面に、今日の俺は載らない。載らない代わりに、鈴の短剣を掲げた当主の姿は、一番いい席から、余さず記録されたはずだった。それでいい。表の武勲は、表のものだ。

 俺は崩れた男を横たえながら、係の者の顔で懐を検めた。

 得物はない。あるのは、油紙の包みと、折り畳んだ紙が一枚。

 持ち出しの目録だった。几帳面な字で、狙いの紙が並んでいる。正本の箱。控えの写し。聞き取りの記録。そこまでは、読めていた工程だ。

 問題は、最後の一行だった。

 ――歌帳ノ写シ。所在、未確認。引キ続キ探索。

 連中は、写しの存在を、掴んでいた。


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