【第三巻】第十一章 照合の儀(三)
読み上げは、再開された。
椅子は直され、倒れた来賓は運ばれ、会場の帳尻は係の顔をした人々の手で合わされた。再開の前に、アルヒフは一度だけ、長机の上の資料を、端から端まで手で確かめた。数えたのだ。一枚も欠けていないことを。数え終えた指が、机を小さく二度叩いた。書庫流の、安堵の仕草だと思う。
あいつは、その間、長机の前から動かなかった。鈴の短剣は、もう腰に戻っている。掲げた理由を誰かに問われたら、どう答えるのだろうと俺は案じたが、問う者はいなかった。無音の恐慌の中で見たものを、人は上手く言葉にできない。できないものは、問いにもならない。あの家宝の一音は、会場の三十人の記憶の中で、「そういえば、あの時」の棚に、静かに仕舞われていくはずだった。
アルヒフは何事もなかったように頁を戻し、何事もなかったようにするには一段深い声で、続きを読んだ。
「――四つ。塗り潰された頁について、書庫の解読の術を尽くした結果を報告します」
会場が、静まった。今度の静けさは、誰の術でもない。三十人ぶんの、ただの固唾だった。
「墨の下の文字は、大半が判読不能。ただし、頁の冒頭、役職の欄の一語のみ、判読に成功しました」
書記が、一枚の引き伸ばした写しを掲げた。
黒い墨の海の中に、幽霊のように白く浮かんだ、四つの文字。
「――『筆頭道化』」
ひっとうどうけ。
会場の誰かが、間の抜けた声でそのまま復唱した。復唱したくなる気持ちは分かる。二百年封じられた頁から出てきた言葉としては、あまりに、王冠から遠い響きだった。山が唸りをあげて産んだのが鼠一匹だった、という寓話がある。会場の何人かは、あの寓話の観客の顔をしていた。鼠を笑った者は、その鼠が王冠の隣に座る鼠だと、まだ知らない。
俺は、会場の反応を、癖で三つ拾った。
ミエルさんは、帳面の上のペンを、一度だけ止めた。止めて、何かを二重線で消して、書き直した。予想の欄の訂正だと思う。
支部長は、隣の書記に「どうけ、とは、あの、道化か」と小声で確かめていた。確かめられた書記も、頷きながら、自信がなさそうだった。
そして、一番いい席のまだら服は――
動かなかった。
動かなかったが、膝の上の三叉帽の、二つになった鈴を、両手で、包んでいた。鳴らさないための、あの手つき。ただし今日のは、いつもより、深く包まれていた。筆頭道化。あの言葉が誰の職業の、どの席の話なのか、この会場でトリルほど正確に分かる人間は、いない。二百年空いたままの、玉座の階段の下から二段目。あの席の主の家名が、いま、公式に読み上げられたのだ。
「五つ。クラウン家に伝わる短剣について。宮中の器物台帳、王国暦二百九十八年の条に、次の記載があります。『筆頭道化の証、儀礼の短剣一振り。刃を引き、柄頭に鈴を持つ。代替わりの儀にて継承す』。……クラウン殿。その短剣を、拝見できますかな」
あいつは、腰の鈴の短剣を、鞘ごと外して、両手で差し出した。
アルヒフは受け取り、写本用の眼鏡で、刃と、柄と、柄頭の鈴を検めた。長い検分だった。検分の間、会場の三十人と、天井裏に戻った一人が、同じ姿勢で待った。
「――一致します」
老人は、短剣を両手で、あいつに返した。
「以上より、王宮書庫は次のとおり照合の結果を確認します。クラウン家は、王国暦三百十二年前後まで、代々の筆頭宮廷道化を輩出した家系である。現当主、ジェスター・クラウン殿は、その正統の後裔である。……なお、塗り潰しの理由、および同家が宮廷を離れた経緯については、現存の文書からは確認できません。墨の下は、開かずのまま、開かずのままであると、記録します」
会場が、どよめいた。
どよめきの中身は、割れていた。道化、という言葉に肩透かしを食った顔。二百年と筆頭という言葉の重さを測りかねる顔。そして、少数だが、何かに打たれたように黙り込んだ顔。三十人の帳簿が、それぞれの流儀で、二百年の答えを記帳しようとして、記帳しきれずにいた。
あいつが、手を挙げた。
「質問を、許されますか」
「どうぞ、クラウン殿」
「筆頭道化というのは――何をする、役目だったのですか」
アルヒフは、眼鏡を外した。
外して、今度は記録ではなく、記憶で答えた。
「王国の古い礼式書に、一行だけ、ございます。……『王冠の隣に鈴を置く。王が人であることを、忘れさせぬために』」
王冠の隣に、鈴を置く。
王が、人であることを、忘れさせぬために。
会場の音が、すう、と遠くなった。今度は術ではない。俺の耳が、勝手に、その一行のために場所を空けたのだ。
あいつは、しばらく、黙っていた。
黙って、手の中の短剣を見た。それから、顔を上げた。
「――俺は、正直に言うと、英雄の家系だったらいいな、と思ってました」
声は、静かだった。静かなまま、会場の隅々まで届いた。
「竜を倒したとか、国を救ったとか、そういう家だったらいいなって。……でも、違いました。うちは、王様に本当のことを言う家でした。強いことより、正しいことより、先に――本当のことを、言う家」
あいつは、短剣を、腰に戻した。
「母は、俺に歌を教えました。父は、玄関の鈴の鳴らし方と、手遊びの型を教えました。意味は教えてくれませんでした。今日、全部、意味になりました。……二百年前に、誰かがうちの家を墨で消しました。消した理由は、まだ分かりません。でも、消される前のうちの家が何だったかは、今日、分かりました」
一度、息を吸って。
「――いい家だ、と思います。俺は、この家の当主であることを、誇りに思います」
拍手は、誰かが一つ打って、それから、会場全体になった。
打たれたように黙っていた少数の顔が、一番強く叩いていた。
俺は天井裏で、拍手に加わらなかった。加われない場所にいるからだが、加わらなくてよかったとも思う。あの拍手は、表の音だ。表の音は、表にいる人間たちのものである。俺の持ち場の帳簿には、代わりに一行だけ書いた。
――当主、家名を受領。異議なし。
受領、という字を選んだのは、俺なりの正確さである。あいつは今日、家系を「知らされた」のではない。差し出された二百年を、自分の言葉で受け取り直した。知らされることと受け取ることの間には、河が一本ある。あいつは自分の足で、渡った。
その拍手の只中に、広場の方角から、大音声が駆け込んできた。
「――聞いたぞ諸君!! 道化の家系だと!! 王様に本当のことを言う家だとよ!!」
ドヤール・マウンティ、興行を打ち上げて駆けつけた講談師である。会場の格式が、音を立てて崩れた。
「講談になるぞ、これは!! 『鈴の輪の二百年』、次回作の題は決まった!! クラウン、貴様の家の講談化権は俺様が一番槍だからな、覚えとけ!!」
「講談化権ってなんですか!?」
「今作った!!」
会場が、笑いに割れた。
張り詰めていた二百年が、笑い声の中で、ようやく、この街の日常の棚に収まっていく。格式は崩れたが、崩し方として、これ以上の手際はなかったと思う。芸人は、場の温度を測って乱入する。あれも、たぶん、計算のうちだ。
散会の人波の中で、俺は――正規の出入り口から、何食わぬ顔で合流した俺は――トリルとすれ違った。
まだら服は、すれ違いざま、誰にも聞こえない高さで言った。
「……見えた分は、いい報せばかりだったよ、旦那。今夜の文は、書きやすい」
「見えなかった分は」
「さあね。あたしの席からは、来賓が一人、立ちくらみで倒れただけさ」
鈴が、ちりんと一つ、笑うように鳴った。三日の白紙は、約束どおり白紙のまま、王都へ発つらしい。
アルヒフとも、短く言葉を交わした。老人は片付けの指図の合間に、俺の顔を見て、一言だけ寄越した。
「――誤記の訂正は、明日の日付でよろしいかな」
「ええ。事は、済んだので」
「よい写字生の欠勤日でしたな。実に、よい欠勤日でした」
書庫流の労いである。俺は欠勤届の分だけ、頭を下げておいた。
夕方、治療院に寄ると、病室の空気が変わっていた。
親父さんが、寝台の上に身を起こしていた。
掌の中に、トリルの返した古い鈴。俺たちが入ると、親父さんはその鈴を、ちりん、と一度鳴らした。呼んだのである。
それから、唇が動いた。
音が――掠れて、細く、砂の上を引きずるような音が、出た。
「……はな、しが……ある」
声だった。
消えかけの、燃えさしのような、それでも確かに、声だった。




