【第三巻】第十二章 約束の入れ物(一)
穂月十七日の朝は、消失の報せで始まった。
「――いねえんだ。鍵は掛かったまま、窓の格子もそのまま、見張りは一睡もしてねえ。なのに、朝になったら、房の中が空っぽだ」
詰め所の奥で、ゴルドーが髭を逆立てていた。
昨日の「立ちくらみの来賓」――灰色の男が、鍵のかかった房から消えていた。もう一人の、窓の外で落とした斥候のほうは、残っていた。残っている方は青い顔で膝を抱え、消えた方の房には、皺一つない毛布と、綺麗に畳まれた囚人用の上着だけがあった。畳み方が、几帳面だった。出て行った者の礼儀、という畳み方である。
「音は」
「無しだ。犬も鳴かなかった。あの野郎、どうやって」
「静かに出るのが、商売なんだろ」
俺は房の中を検分しながら、内心の帳簿だけで補足した。共鳴の決壊で、あの男の内側は当分使い物にならないはずである。それでも消える時は音を置かずに消えた。術ではなく、あれは足の技術だ。俺と同じ棚の、俺より年季の入った技術。追う線は、薄い。
それから、押収品の棚を確かめた。
油紙の包み。得物の類。そして、持ち出しの目録。そのうち、目録と、紙が一枚、消えていた。
一枚。
昨日、俺が係の顔で懐を検めた時、目録に紛れさせて滑り込ませておいた、あの一枚である。控えの写しの、誤記の頁。整理番号が一桁ずれた、連中の手の中でだけ嘘をつく紙。
男は、脱走の手荷物に、それを選んだ。
任務の成果として、持ち帰ったのだ。
俺は空の棚の前で、静かに、帳簿を締めた。教団の帳面には近々、一桁ずれた整理番号が記載される。連中がいつか、あの番号で王宮の書架を探る日が来たら、そこにあるのは別の頁だ。嘘は、つかせた側ではなく、掴んだ側の帳簿で育つ。せいぜい、大切に育ててもらいたい。
残された斥候のほうは、王都への護送が決まった。取り調べには何も答えず、ただ一度だけ、消えた房の方角を見て、ぽつりと呟いたという。
――回収は、来ない。
仲間の消失を、救出ではなく、置き去りと読んだ声だった。教団の帳簿は、仲間の欄を持たない。持たない帳簿で働く人間の顔を、俺は少しだけ見に行って、やめた。見ても、俺の帳簿の役には立たない。立たないものを見に行くのは、ただの覗きである。それでも一瞬、迷った分だけ、たぶん俺は、あの膝を抱えた背中に、何かの欄を作りかけたのだと思う。作りかけの欄は、作りかけのまま閉じた。また会う日があれば、その時に開けばいい。
街のほうは、朝から「道化の家系」の噂で沸いていた。
沸き方が、この街らしかった。没落貴族でも隠れ大富豪でもなく、王様に本当のことを言う家。番付の外から出てきた答えを、街の連中は半日で咀嚼し、昼には早くも「言うねえ、さすが道化の家系だ」という新しい合いの手が、市場のあちこちで使われ始めていた。憎まれ口の格が上がる街である。あいつは通りを歩くたびに呼び止められ、祝われ、握手を求められ、パン屋の前では婆さんに「あんたの母さんの歌、あたしも好きだったよ」と言われて、しばらく動けなくなっていた。
当主の初日の公務は、つまるところ、街じゅうの祝辞を一つずつ受け取ることだった。受け取り方は、丁寧だった。丁寧すぎて日が暮れる速度だったので、途中からミエルさんが「祝辞は一件二分まで」という台帳的な交通整理を敷いた。敷かれてなお、日は暮れかけた。
昼、ギルドの資料室で、事後の検算があった。
アルヒフは全ての紙を数え、革帯を締め直し、書記に目録の読み合わせをさせた。正本、全数無事。控え、一枚欠――「誤記のあった頁につき、廃棄済みとして処理」。訂正の日付は、今日になっていた。未来にしておいた日付が、今日、現在に追いついたわけである。
「――これにて、照合の業務は、全て完了ですな」
老人は眼鏡を外し、窓の外のモトリーの空を、少しの間、眺めた。
「二百年の頁が、十日で片付いた。いや、片付いてはおりませんな。開かずの墨は、開かずのまま。消えた客人は、消えたまま。符合ばかりが積み上がって、答えの数が足りん。こういう状態を、何と呼びましたかな、サイキ殿」
「――符合過多、では」
「おお、それだ。符合過多」
王都の宿で生まれた捏造四字熟語は、王宮書庫の司書長の語彙に、正式採用されたらしい。二百年後の辞書に載っていないことを祈る。いや――載ったら載ったで、語源の欄はきっと「諸説あり」だ。それはそれで、悪くない。
「調査団は、明後日、王都へ発ちます。サイキ殿。最後にもう一度だけ、勧誘しても?」
「辺境の物価が」
「性に合っておられる。存じております」
老人は、初めて、声を出して短く笑った。笑ってから、机の上の一冊――歌帳の写しの目録に、掌を置いた。
「貴殿の写しの目録は、王宮書庫の受け入れ台帳に、正式に載りました。整理番号もある。これでもう、あの帳面は、燃えても消えん。よい仕事でした。写字生としても、それ以外としても」
それ以外の中身を、老人は聞かなかった。聞かない技術の年季については、既に書いた。
夕方、治療院に寄った。
親父さんは、寝台に身を起こして、ミエルさんの持ってきた見舞いの葡萄を、律儀に一粒ずつ食っていた。声は、まだ掠れの底だが、短い言葉なら出る。医者は「この分なら、ひと月で酒場の口喧嘩に復帰できます」と請け合った。医者の予後の単位が口喧嘩なのは、患者の人柄による。
「……坊主」
掠れ声が、俺を呼んだ。
「昨日の、儀式の話……嬢やから聞いた。筆頭、だったんだってな、あの家は」
「ええ。公式に、確認されました」
「そうかい。……三十年、言えなかったことに、紙が先に、追いついちまった」
親父さんは、少し笑った。悔しさと安堵の混ざった、複雑な味の笑いだった。
「なら、俺の話は、紙に載ってねえ分だけで済む。……荷が、軽くなったよ」
それから、俺の顔を見て、付け足した。
「明日の晩、みんなを集めてくれ。クラウンの坊主と、嬢やと、お前さんと。……話は、一度で済ませてえ」
「分かりました。場所は、どうします。店は、まだ」
「ここでいい。病室の語りってのも、乙なもんさ。……それにな、坊主」
親父さんは、窓の外の夕焼けを見た。
「嬢やが、明後日、王都へ帰る。調査団と一緒にな。……間に合わせてえのさ。三十年の話に、あいつの三十年ぶんも、入ってるんだ」
「分かりました」
「ああ、それと……坊主」
親父さんの目が、ふ、と緩んだ。
「愚者の札、まだ借りとくのかい」
懐の札のことを、この人は覚えていた。一年半、借りっぱなしの一枚である。
「ええ。当分は」
「そうかい。貸しは、利子が付くぜ」
「利子は、白湯で」
「はっ。生意気を、言うようになった」
掠れ声が、掠れたまま、確かに笑った。
治療院を出ると、夕焼けが焼け跡の方角を染めていた。
焼け跡には、今日から足場が組まれ始めている。ドヤールの興行の木戸銭と、街の連中の持ち寄りで、再建の初日は上々の滑り出しだという。工期はひと月。医者の請け合いと、ちょうど揃う。口喧嘩の復帰と、店の再開と。この街の帳簿は、たまに、こういう気の利いた帳尻を合わせてくる。
足場の下で、あいつが大工の親方と何かを相談していた。
覗くと、板きれに、店の間取りの図が描いてあった。カウンターの位置、竈の位置、飾り棚の位置。全部、元のままの位置である。ただ一箇所だけ、注文がついていた。
「――ここに、席を一つ。カウンターの、この角に」
「席ぃ? そこは元から詰めても二人の角だぜ」
「一人ぶんでいいんです。誰も座らなくても、いいんです。ある、ってことが大事な席なんです」
誰も座らない席。
ある土地の祭りには、来るはずの客のために杯を一つ注いで、扉を少しだけ開けておく風習があるという。あの角の席は、たぶん、その杯だ。空けておく、という置き方を、あいつは昨日の照合で学んだらしい。二百年空いたままの席の話が、この街の酒場の設計図に、一人ぶんの角として写し取られていく。何の席かは、聞かなかった。聞かなくても、あの角に座るべき人間の候補なら、俺の帳簿に何人か載っている。仮面の男も、たぶん、その一人だ。
明日の晩、話は一度で済ませたい、と親父さんは言った。
三十年の話の、最後の頁が、めくられようとしている。




