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【第三巻】第十二章 約束の入れ物(二)


 穂月十八日の夜、病室に四人が集まった。

 寝台のバラッド。椅子にジェスターとトリル。俺は窓際に立った。卓の上には、ミエルさんが「面会は一刻まで、と医者が申しております」という置き手紙と共に用意していった、白湯の土瓶が一つ。置き手紙の下の段には、小さな字で追伸があった。「一刻の計測は、私が受付で行います。砂時計は、遅めに流れる型を選びました」。台帳の人の、台帳の外の優しさである。

 四つの湯呑みに、俺が注いで回った。この会の給仕は、俺の役目だと思った。二年前、足りない銅貨にパンを一切れ足してもらった夜から数えて、この店――店はないが、この人の座の給仕は、いつか俺が持つべき番だった。番が、今夜だった。

 親父さんは、身を起こして、掌の古い鈴を一度だけ鳴らした。

 開演の合図である。

「声が、この調子だ。長口上は、できねえ。だから、順番に、短く言う。聞き返すのは、無しだ」

 三人が、頷いた。

「まず、クラウンの坊主」

 掠れ声が、あいつに向いた。

「あんたの家が筆頭道化の家系だってことは、儀式で聞いたな。俺がそれを知ったのは、三十年前だ。宮廷の書庫で、塗り潰しの読み残しに、家名の頭の三文字を見た。それから三十年、俺は、その家名を、誰にも言わずに持ってた。一年半前、あんたが腰の短剣を提げて、うちの暖簾をくぐるまでな」

「はい」

「黙ってたことを、詫びる気は、ねえ」

 親父さんは、はっきり言った。

「言葉ってのは、言う順番と、言う口を、間違えると毒になる。あんたは先に、紙から聞くべきだった。王宮の、ちゃんとした照合の紙からな。家の話ってのは、証文が先で、人情が後だ。順番どおりになって、俺は今、人情のぶんだけ話せる。……よかったと、思ってる」

 あいつは、しばらく黙って、頷いた。

「――はい。順番、正しかったです。俺、紙で聞いて、自分の言葉で受け取れました。だから今夜は、人情のほう、聞かせてください」

「上出来だ」

 親父さんは、掠れ声で笑って、それから、話した。

 短く、区切りながら。三十年の宮廷。空の席の手入れ。誰も座らない席の隣で芸をし続けた年月。言えなかった夜。逃げた南。店の名前の由来。そして――先の王が崩御し、代替わりした今の王が、父の消した頁の上に座っていること。

 俺は窓際で、給仕をしながら聞いた。

 中身の大半は、俺が夜なべの白湯の向こうで、先に聞いた話である。だが、同じ話が、今夜は別の音で鳴っていた。あの夜の語りは、独白だった。今夜のは、遺言ではなく、引き継ぎだった。聞き手が三人いて、三人がそれぞれの持ち場で、それぞれの荷を受け取る前提の語り。同じ頁でも、読む座組が変われば、別の本になる。

 あいつは、一度も口を挟まなかった。挟まずに、時々、手元の紙に短い書き付けをした。当主の聞き方である。爺さんの謡の二番が抜けた朝から、この街の人間は皆、覚えているうちに書く、を覚えた。

「王様ってのは、代替わりで、罪も相続する。今の王様は、知ってなさるよ。親父さんが何を消したか。知ってて、直す道が、見つからずにいる。……だから、笑わねえのさ」

 トリルが、膝の上で、鈴を包んだ。

 包んだ手が、今夜は、震えていた。

「次。嬢や」

「あいよ」

「マロットを、取ってくれ。そこの、袋の中だ」

 トリルが、寝台の脇の袋から、それを出した。

 人形頭の杖。半分焼けた、道化の顔。火事の夜、親父さんが歌帳と一緒に抱えて倒れていた、あの杖である。

「そいつはな、俺の商売道具じゃねえ。宮廷の道具部屋の、一番奥で埃をかぶってたのを、出る時に、貰ってきた。台帳には載ってねえ古い杖でな。道具部屋の爺さんが言うには――二百年前、出て行った道化の一家が、置いてった杖だと」

 二百年前、出て行った道化の一家。

 病室の空気が、一段、深くなった。あいつの目が、半分焼けた道化の顔に、釘付けになっていた。

「火事の晩な。こいつの頭が、割れた。割れて……中から、音がした」

 親父さんは、トリルに目で合図した。

 トリルが、焼けた頭部の割れ目に、細い指を入れた。空洞から、布に包まれた小さなものが出てきた。布を開く。

 鈴だった。

 古い、小さな、黒ずんだ銀の鈴。柄頭の飾りより少し大きいだけの、掌に隠れる鈴である。二百年、木の頭の中で、誰にも鳴らされずに眠っていた鈴。

 トリルの指が、それを摘まみ上げた。

 振らなかった。誰も、振ってみようと言わなかった。二百年待った音を、病室の思いつきで鳴らしていいはずがない。鳴らす場所と、鳴らす手は、たぶん、もう決まっているのだ。この部屋の全員が、口に出さずに、同じ勘定をしていた。

 あいつが、掠れた声で――もらったわけでもないのに、つられて掠れた声で――聞いた。

「それ、うちの家の、鈴なんですか」

「証はねえ。台帳にも、載ってねえ。……だがな、坊主。二百年前の道化の一家の杖の頭ん中に、鈴を仕舞う人間が、他にいると思うかい」

 思わない、と全員の沈黙が答えた。

「短剣が、証の表なら、そいつは、たぶん、音の側の証だ。筆頭の鈴。クラウンの家の者が、宮廷を出る時、杖の頭ん中に仕舞って、置いてったのさ。……何でだと思う」

 誰も、答えなかった。

 答えの代わりに、親父さんが、口伝の一節を、掠れ声で置いた。

「――主は帰る。音のする家に帰る」

 空の席の手入れの口伝。年に一度、冬の初めの夜の。

「いつか帰る気だったのさ、あの一家は。帰る日のために、音を、置いてった。嬢や、こいつを、宮廷に持って帰りな。空の席の掃除の時に、席の上に、置いてやってくれ。二百年ぶんの、遅配だ」

 トリルは、鈴を布ごと、両手で受け取った。

 受け取って、深く、頭を下げた。道化が頭を下げるのを、俺は初めて見た。

「確かに、預かったよ。先輩」

「次。坊主」

 俺の番だった。

「歌帳の写し。ありゃあ、俺の帳面の写しだが、書いた中身の半分は、クラウンの家を追っかけた三十年だ。なら、持ち主は俺じゃねえ。俺は原本の持ち主として、写しの一切を、クラウンの坊主に、譲る。文句は、ねえな」

「ありません」

「それとな、坊主。棚卸しの晩、お前さんに降ろさせた、軽い箱。覚えてるかい」

「軽いのが先だ、大事なんでな――の、箱ですか」

「そうさ。ありゃあな、次の日の朝、ゴルドーんとこの倉庫に、移させてあった。焼け残ったんじゃねえ。焼かせなかったのさ」

 あの深夜の棚卸しは、ただの整理ではなかった。来るものを数えていた男は、燃えるものも、数えていた。俺の帳簿が、十日遅れで、あの夜の手順の意味に追いついた。

「箱ん中に、北の写本が、一冊ある。革表紙の、黒いやつだ。坊主、あれは、お前さんが持ってきな」

「俺が、ですか」

「俺にはもう、字が細かすぎる。古い本ってのはな、読める人間の所へ、流れていくもんさ」

 親父さんは、そこで一度、白湯を含んだ。

「ただな、一つだけ、言っとく。あの本、どこで手に入れたか、俺も、覚えてねえのさ。気づいたら、宮廷から持ち出した荷ん中に、入ってた。三十年、読もうとして、読めなかった。字が古すぎてな。……読めねえ本ってのは、持ち主を、選んでるのかもしれねえぜ」

 読めない本は、持ち主を選ぶ。

 選ばれる側の心当たりが、俺の帳簿には、何もなかった。無いはずだった。無いはずなのに、革表紙の黒い本、という七文字が、俺の頭のどこか奥の、開けたことのない抽斗の把手に、指をかけた気がした。気のせいの欄に入れておく。気のせいの欄は、俺の帳簿でいちばん、後から書き直される欄である。

 窓の外で、夜風が、治療院の軒を鳴らした。

 一刻の面会は、それで終わった。終わりに、親父さんは四人の顔を順に見て、掠れ声で、締めの口上を打った。

「三十年の話は、以上だ。明日から俺は、店の再建と、声の稽古で忙しい。湿っぽい顔は、今夜で仕舞いにしな。……それと、坊主ども」

 掌の古い鈴が、ちりんと鳴った。

「――今夜はこれから、宴だ。医者には、内緒でな」


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