【第三巻】第十二章 約束の入れ物(三)
宴の会場は、焼け跡だった。
組み上がったばかりの足場の下、土台の上に蓆が敷かれ、樽が転がされ、食い物と灯りが持ち寄られた。言い出したのは、意外にも当の病人である。曰く、「店の宴は、店でやるもんだ。壁は、まだ無えがな」。医者には内緒の外出は、ミエルさんの砂時計と、ゴルドー組の担ぎ椅子と、街ぐるみの共犯で成立した。
顔ぶれは、揃っていた。
蓆の真ん中に、担ぎ椅子のバラッド。隣にトリル。あいつと俺。ドヤール一行。ミエルさん。ゴルドーと若い衆。麦酒の親父と教室の連中。マルグリット婆さんは焼き立てを三籠。子供たちは狐の面を順番にかぶって、足場の間を走り回った。焼け跡の上の宴というものは、湿っぽくなりそうなものだが、この街の連中は、湿る前に飲む速度を知っていた。
「北の火酒はな、焼けちまった」
バラッドが、掠れ声で報告した。
「十三年もんが、樽ごとだ。……まあ、いいのさ。また買って、寝かせる。今度のは、店の二代目と一緒に育つ。十三年後に、開けような」
十三年後の約束を、五十八の男が、焼け跡で打つ。打たれた約束は、その場の全員の帳簿に載った。載せた顔ぶれの半分は、十三年後もこの街で飲んでいるだろう。そういう顔ぶれである。
麦酒の親父が代わりの樽を開け、宴は回り出した。
ドヤールが「鈴鳴り亭讃歌」の短縮版を打ち、ガスが無言で三杯を空け、リリは木戸銭の箱を抱えていない両腕を持て余して、蓆の上で本格的に眠った。ミエルさんは砂時計を三度、こっそり裏返した。台帳の人の、三度目の粉飾である。
「トリルさんは、明日、王都へ帰っちゃうんですよね」
「帰るよ。仕事だからね。……なに、そんな顔をしなさんな、白光の旦那。道化ってのは、面白いことのある場所に、また来るのさ」
「モトリー、面白いですか」
「ここかい? ここはね――」
トリルは、焼け跡の足場と、蓆の上の顔ぶれと、担ぎ椅子の先輩とを、ぐるりと見た。
「――王都の次くらいには、いい劇場だよ」
王都の次、の言い方に、王都の道化の最大級の賛辞が入っていることは、この場の何人が気づいたか。俺は気づいたので、麦茶で乾杯だけしておいた。
あいつは宴のあいだ、よく飲み、よく笑い、例によって麦酒一杯で耳まで赤くなった。赤い顔のまま、皆の杯を回って注いで歩いた。当主の酌である。二百年ぶんの家名を受け取った男の宴の作法として、あれ以上のものはなかったと思う。
その途中で、歌は、始まった。
始めたのは、子供たちだった。
狐の面の子が、手毬もないのに、手毬歌を歌い出した。トレモロの宿場で聞いた、あの節である。
――すずは、おうかんより、ふるい。
二人目が続き、三人目が続き、輪になった。
あいつが、笑って、続きを引き取った。
「――おとは、なまえより、さきにうまれた」
母の版である。二百年の本歌である。歌えるようになった経緯を、この場の子供たちは知らない。知らないまま、変な歌い方、と笑い、笑いながら真似をした。歌は、こうやって旅をするのだと思う。
と。
掠れた声が、低く、それに重なった。
バラッドだった。
担ぎ椅子の上で、目を閉じて、掠れの底から、一節ずつ。トリルの細い声が、寄り添って支えた。二人の道化の声で、歌は三節目に入り、四節目を回った。俺の知らない節はもう無いはずだった。「ねむれ、ねむれ」で終わるはずだった。
終わらなかった。
四節の後に、バラッドは、もう一節、歌った。
短い節だった。名前を入れる場所が、空白になっている節。歌い手が、そこに誰かの名前を置いて初めて完成する形の、一節。
歌い終えて、バラッドは目を開けた。
「――この歌はな、坊主ども。ただの子守唄じゃねえ。継承の歌だ」
宴の輪が、静かになった。
「代替わりの時にな、親が、子の名前を最後の節に入れて、歌い足す。それで、家が渡る。書き物は要らねえ。判子も要らねえ。歌った夜の数だけ、家が渡る。……そういう仕組みの歌さ。筆頭道化の家の、な」
バラッドの目が、あいつを見た。
「クラウンの坊主。あんたの母さんの版に――あんたの知らねえ、最後の一節、なかったかい」
あいつの顔から、宴の色が、ゆっくり引いていった。
引いた後に残ったのは、遠いものを見る目だった。八年前より、もっと遠く。寝台の中の、半分夢の中の、額に置かれた手の温度まで。
「……あった」
声が、震えていた。
「あったんだ。最後に、俺の名前が。……寝ぼけて聞いたんだと、ずっと思ってた。母さんの節に、俺の名前が入ってて……それで、いつも、眠っちまうんだ。自分の名前で、眠くなるなんて、変だって……」
言葉が、途中で崩れた。
母は、知っていたのだ。
家の意味を。歌の仕組みを。父の「いつか話す」が間に合わない可能性まで、たぶん。だから毎晩、額に手を置いて、最後まで歌った。息子が眠っても、最後の一節まで。書き物も判子も要らない継承を、八つの子の眠りの中へ、幾百夜、渡し続けた。
いつか、は来なかった。
だが、毎晩、が来ていた。
最初に泣いたのは、ドヤールだった。人情の費用対効果を語る男は、袖で顔を覆って、盛大に、費用対効果の悪い泣き方をした。マルグリット婆さんが続き、ゴルドーの髭が濡れ、トリルは――泣かなかった。泣かない代わりに、帽子の鈴を包んだ両手を、額に当てていた。道化流の泣き方は、三十年前から変わっていない。
あいつは、泣きながら、笑っていた。
「そっか……俺、もらってたんだ。全部。とっくに、もらってたんだ」
膝の上の拳が、開いて、掌になった。
何かを受け取る形に。
俺は、蓆の端で、麦茶を持ったまま、動かなかった。動けなかった、が正しい。俺の帳簿は、この光景をどの欄に載せるべきか、まだ決めかねている。決めかねたまま、一つだけ確かなことを記帳した。
――約束の入れ物は、満杯である。
宴は、夜半前にお開きになった。
病人は砂時計三回ぶんの超過の後、担ぎ椅子で治療院へ帰り、子供たちは親に回収され、火は落とされ、足場の下の蓆は畳まれた。解散の間際、あいつは焼け跡の土台に、麦酒を一杯、静かに注いだ。誰の真似かは、聞くまでもなかった。
宿に戻って、俺は一人、卓に向かった。
ゴルドーの倉庫から引き取ってきた、革表紙の黒い本が、灯りの下にあった。
北の写本。読めない本は、持ち主を選ぶ、と言われて渡された一冊である。
開いた。
字は、古かった。話に聞く古語体で、行の向きさえ今と違う。三十年読めなかったという親父さんの言葉に、嘘はなかった。俺の目は、頁の上を滑るだけで、どこにも引っかからずに落ちていく。
引っかかったのは、字ではなく、絵だった。
中ほどの頁に、挿絵が一枚。
古い筆で、簡素に描かれた――子供が、二人。
向かい合って、片方が、もう片方に、両手で何かを差し出している。差し出されているものは、小さくて、丸い。鈴、に見えた。差し出す側の子の顔は、笑っているように見えた。受け取る側の子は、目を閉じていた。眠っているのか、祈っているのか。
俺は、その絵を、長いこと見ていた。
見ているうちに、胸の奥の、開けたことのない抽斗が、また、把手を鳴らした。知っている、とどこかが言う。知らない、と帳簿が言う。夢の底で聞いたことのある構図、という言い方が、一番近くて、一番遠かった。
絵の上の飾り文字を、指でなぞる。
読めない。読めないなりに、二文字だけ、今の字に似た形があった。
――移譲。
いじょう。何かを、移して、譲る。何を、誰が、誰に。
その先は、読めなかった。
俺は本を閉じた。閉じて、荷の底に仕舞った。白木の面の、隣だった。
窓の外で、風が鳴った。
風の中に、今夜の歌の残りが、まだ混ざっている気がした。子供らの声と、あいつの声と、掠れた声と。この街の夜は、当分、あの歌を覚えているだろう。
鈴の音は、鳴り終わってからのほうが長い。
王都の朝に始まったこの旅の、最初の一行を、俺はもう一度、帳簿の最後に写した。写して、その下に、一行だけ足した。
――この家の音は、まだ、鳴り終わっていない。




