【第三巻】第六章 照合(三)
その日の夕方、資料室の片付けの最中に、爆弾は落ちた。
落とした本人は、爆弾を落とす顔をしていなかった。アルヒフは書架の革帯を締めながら、インク壺に蓋をしながら、明日の予定を書記に告げながら――つまり、完全な日常動作の隙間に、それを挟んだのである。
「ああ、それとクラウン殿。本日の照合で一件、確定しましたのでな。お伝えしておきましょう」
あいつは、片付けを手伝いに来ていた。手伝いという名目の、そわそわの出張である。呼ばれて、直立した。
「はい!」
「貴家の紋、鈴の輪の五つ鈴。――王宮書庫の第二百十四架、王国暦三百年前後の宮中記録に、同輪郭の紋が一つございます。輪の径、鈴の数、鈴の吊り位置、すべて一致。写しの誤差の範囲を超えて、同一の紋と断じてよろしい」
「ほ、本当ですか! じゃあ、うちの家は、二百年前の王宮の記録に」
「載っております。……ただし」
インク壺の蓋が、ことりと閉まった。
「その紋の載る頁は、紋を除く全文が、墨で塗り潰されておりましてな」
「……塗り潰し」
「家名の欄、役職の欄、事績の欄。すべて塗り潰し。残っているのは紋の図形と、頁の隅の整理番号だけ。二百年前の宮中で、誰かが、貴家の記録を消したのです。紋だけを残して、丁寧に、幾枚面に、消したのですな」
資料室が、静かになった。
書記の筆が止まり、バジルの咳払いが引っ込み、窓の薄布だけが夕風で揺れた。
「それは、つまり」
あいつの声は、半分だけ掠れていた。
「うちは、消された家、ってことですか」
「記録の上では、そうなります」
アルヒフは、眼鏡を外した。外すと、老人の目は思ったより深いところにあった。
「ただし、クラウン殿。書庫の人間として、一つだけ申し添えます。――消された、は、悪い報せとは限りませんのでな」
「悪い報せとは、限らない?」
「消すという行為には、手間がかかる。二百年前の宮中で、頁一枚を塗り潰すには、それなりの身分の者の、それなりの決裁が要ったはず。つまり貴家は、それだけの手間を掛ける価値のある家だった、ということです。……路傍の石は、消されません。消されるのは、名のある石だけです」
慰めなのか分析なのか、たぶん両方なのだろう。あいつは、ゆっくりと頷いた。頷いて、笑おうとして、失敗して、もう一度頷いた。
「物語だとさ、ヨウタ」
帰り道、あいつは言った。夕焼けが、道の先で燃え尽きかけていた。
「こういう時、『実はすごい家系でした』ってなるだろ。読んだことある。何回もある。……現実は、塗り潰しか。すごいのかすごくないのかも、塗り潰しじゃ分からないや」
「……そうだな」
「でも、変なんだけど。俺、ちょっとだけ、ほっとしてるんだ」
「ほっと?」
「うちの家、ちゃんと、あったんだなって。二百年前に、王宮の帳面に載るくらいには、あったんだ。消されてても、載ってた事実は消えてないんだろ? アルヒフさんの言い方だと」
「ああ。整理番号が残ってる」
「なら、いい。番号があるなら、いつか中身も分かる」
こういう時のあいつの心の噛み砕き方を、俺は十年見てきたが、未だに工程が分からない。悪い報せを飲んで、三歩で栄養にする。俺なら三日は寝かせて、裏を三通り疑う案件である。
「それにしてもさ、二百年前って、どんな時代なんだろうな」
「知らんな。国史は騎士学校でやったろ」
「やったけど、二百年前のとこ、教本だと三行くらいしかないんだ。『長き平穏の時代』って。……三行の時代に、うちの家は消されてるんだぜ。平穏の帳簿に、載らない行があったってことだろ」
平穏の帳簿に、載らない行。
いい言い回しだったので、俺は黙って借用した。幸福な国には歴史がない、という古い言い回しもある。三行で済む時代は、たぶん、誰かにとっては幸福で、誰かにとっては塗り潰しだった。教本が三行で済ませる時代と、塗り潰された一頁と、二百年歌い継がれた童歌と。載らなかった行の目録が、この数日で急に厚みを増している。
「聞き取り、明後日だったよな。俺、何を話せばいいんだろう」
「知ってることを、知ってる順にだろ」
「知ってることかあ。なあ、ヨウタ。俺の知ってるうちの家って、結局、父さんの背中と母さんの歌なんだよな。二百年ぶんを聞かれても、俺の持ち分は、あの家の十二年ぶんだけだ」
「十二年ぶんを話せばいい。二百年ぶんは、紙の仕事だ。分担しろ」
「分担! そうか、そうだな。調査ってのは共同作業か」
あいつの足取りが軽くなった。共同作業、の一語で軽くなれるのだから、荷の下ろし方だけは天下一品である。
その晩、俺は届け物を頼まれた。
ミエルさんからバラッドの親父さんへ、保存書庫の閲覧記録の写し一部。「明朝までに、鈴鳴り亭へ」という指定つきである。受付と酒場の間にどういう帳簿が流れているのかは、聞かない約束の類だ。
鈴鳴り亭に着いたのは、看板が下がった後だった。
表の扉は閂、窓の鎧戸は半分。灯りは奥に一つだけ。看板の下がった店というのは、昼間の顔から商売の膜が一枚剥がれて、家の顔になる。家の顔をした店の裏口へ、届け物一つで踏み込むことに、俺は普段、遠慮を持たない。持たないのだが、この夜だけは、裏口の三歩手前で、遠慮より先に足が止まった。
店の中から、声がした。
客の声ではない。宴の声でもない。低く抑えた、二人ぶんの声。俺は裏口の手前の暗がりで、届け物の包みを持ったまま、動けなくなった。動けなくなった理由は二つある。一つは、声の主が誰と誰か、すぐに分かったから。もう一つは――交わされている言葉が、聞き逃してはいけない種類のものだったからだ。
「――で、いつまで死んだふりを続ける気だい、先輩」
トリルの声だった。芸の声ではない。素の、低い声。
先輩。
その二文字が、俺の帳簿の保留の欄を、まとめて三頁めくった。
「死んじゃいねえさ」
バラッドの声。こちらも、店の声ではなかった。
「引退と死は、別の棚だ」
「別の棚ねえ。じゃ聞くがね、その引退、誰の決裁で通ったんだい。あたしは聞いてないよ。王様も聞いてない」
「……三十年前の話だ」
「三十年経っても、決裁は下りてないのさ。うちの職場はそういうとこだよ。知ってるだろ」
沈黙。
長い沈黙だった。数えなかった。数える気になれない長さと重さだった。
「……嬢や」
やがて、バラッドの声が言った。嬢や。誰のことかと一瞬思い、それから、これはトリルの呼び名なのだと気づいた。先輩と嬢や。三十年の距離の、こちら側とあちら側。
「王様は、達者かい」
「達者だよ。達者なまま、笑わなくなった」
「――そうかい」
「先輩が消えてから、宮廷の鐘は鳴ってない。あたしの鈴じゃ、届かない音があるのさ。あたしはずっと、そう言い続けてる。誰に言ってるかは、分かるだろ」
「嬢や。俺はもう」
「調査団が来たのは、偶然じゃないよ」
トリルの声が、一段、低くなった。
「塗り潰した側の帳面が、二百年ぶりに開き始めてる。開けたのが誰の手かは、あたしにもまだ見えない。でもね、先輩。頁が開くなら――言う側の人間が、いなくちゃならない。鈴ってのは、そのためにあるんだろ」
俺は、届け物を裏口の脇の置き台に、音を立てずに置いた。
置いて、暗がりから出た。出て、来た道を戻った。
立ち聞きの帳簿は、俺の職業倫理の中で、一番ややこしい頁にある。聞くつもりはなかった。聞いてしまった。聞いてしまった以上、なかったことには、もうできない。できることは一つ、記帳の但し書きに「当人たちが自分で言うまで、この頁は開かない」と足すことだけだ。俺の帳簿には、そういう但し書きの頁が、もう何冊ぶんもある。抱える秘密の在庫が増えるたび、俺は倉庫番としての格だけが上がっていく。出世したい方向と、逆なのだが。
先輩、と道化は言った。
三十年、と店主は言った。
王様は、笑わなくなった。
夜道の途中で、俺は一度だけ振り返った。鈴鳴り亭の灯りは、まだ点いていた。あの灯りの下で、二百年の頁と三十年の頁が、同じ机に載ろうとしている。
載せる手が足りるのかどうか、俺の帳簿には、まだ書けない。




