【第三巻】第六章 照合(二)
穂月九日の朝、俺は王宮の雇い人になった。
肩書は臨時筆耕。勤務地はギルド二階の資料室。手間賃は王宮規定で日払い、道具は支給、守秘の誓約書に署名一枚。誓約書の文面を三度読んでから署名する俺を見て、書記のひとりが「珍しい。皆さん読まずに書くのに」と感心した。読まずに署名する人間が多数派である世界のほうを、俺は心配したほうがいいと思う。
資料室は、一晩で書庫に変わっていた。
持ち込まれた書架が壁を塞ぎ、長机が三列、机の上には文鎮と、頁押さえの革紐と、写し用の上質紙。窓には薄布が張られた。直射の光は紙の敵だそうである。火と水と時と、忘れっぽさと、日光。紙の敵は多い。多い敵から二百年守られてきた紙だけが、今日ここに並んでいる。
俺の初仕事は、ギルドの古い受け入れ台帳の写しだった。
六十年前の冒険者名簿である。誰それ、どこの生まれ、得物は何、保証人は誰。文字は掠れ、綴りは癖だらけ、ところどころ虫が食っている。俺はそれを、掠れは掠れのまま、癖は癖のまま、虫食いは「欠」と注して写していく。
「――ふむ。よい写しですな」
背後からアルヒフが覗き込んだ。足音はしなかった。書庫の人間は紙を驚かさない歩き方をするらしい。世の中には、俺の他にも音を置かない職業があるのだった。
「この『欠』の注の打ち方、誰に習われた」
「手癖です」
「手癖手癖と申される。……まあ、よい。手癖どの、昼から別室の仕事を頼みます。紋章の照合の、控えを取っていただく」
午前の残りで、俺は写字生の同僚たちの流儀も観察した。書記二人の筆は速く、正確で、そして時々、原本より綺麗に書いてしまう。癖字を楷書に「直して」しまうのだ。直すたびに、修復師の親方――革前掛けのバジルという寡黙な男である――が咳払いをし、書記が書き直す。原本より綺麗な写しは、写しではなく別の本である、というのが書庫の教義らしい。俺の写しは一度も咳払いを食らわなかった。癖字を癖字のまま写す訓練なら、他人の筆跡で依頼票を書き分けてきた俺の右手が、勝手に積んでいる。積んできた経緯は、履歴書に書けないが。
紋章の照合。本丸である。俺は顔の筋肉に平常運転を命じてから、頷いた。
午後の別室には、アルヒフと、書記が一人、そして机の上に、二冊の大きな図録が開いてあった。
一冊は王宮の紋章台帳の写し。もう一冊は、この地方の家紋の採録簿である。
「サイキ殿は、紋章の読み方をご存じかな」
「絵柄の違い、くらいしか」
「では、写しの前に、最低限の文法を」
アルヒフの講義は、簡潔で、妙に面白かった。
曰く、紋章は絵ではなく文である。地色が名詞、図形が動詞、分割線が句読点。同じ鷲でも、翼を広げた鷲と畳んだ鷲は別の言葉であり、上下二分割の紋と左右二分割の紋は別の文である。読める者には、紋章は名乗りの声で聞こえる――我が家は何を誇り、何に仕え、何を忘れないか。
「試しに問いましょうかな。紋章に、獅子や鷲や竜が多いのは、なぜだと思われる」
「強そうだから、では」
「半分正解。もう半分は、実物を誰も知らんからです」
「……は?」
「竜を見た者はおらん。獅子とて、この国では絵でしか知られておらん。見た者のおらんものは、描き方に文句が出ませんのでな。紋章は代々写されるもの。写すたびに姿の変わる図柄は、紋章に向かんのです。実在の犬や馬が紋に少ないのは、隣人に『おたくの犬と違う』と言われるからですよ」
衒学というものは、こういう顔で笑わせに来るから油断がならない。俺は控えの端に「竜=苦情が出ない」と書きかけ、職務倫理により消した。
「では、もう一問。紋章でいちばん多い誤りは、何だと思われる」
「写し間違い、ですか」
「惜しい。――写し直し、です」
老人は、遠目用の眼鏡越しに俺を見た。
「後の代の者が、古い紋を『見栄えが悪い』と直す。線を足す、色を変える、獣の首を一つ増やす。善意で、誇りで、直すのです。そうして三代も経つと、元の文が読めなくなる。……写し間違いは偶然ゆえ、突き合わせれば正せます。写し直しは善意ゆえ、正した証拠ごと消えるのですな」
善意は、証拠ごと消す。
その一行を、俺の帳簿は太字で記帳した。どこかで聞いた構造だったからである。うちのパーティの帳簿の大半は、善意の写し直しでできている。地獄への道は善意で舗装されている、と西の国では言う。舗装した者は、たぶん、道の行き先を知らない。知らないまま、石を綺麗に並べる。
「そして、ここからが本題ですがな」
老人は、採録簿の一葉を開いた。
鈴の輪。クラウン家の紋である。丸い輪の上に、小さな鈴が五つ。王都の登録所で係員を固まらせ、旗職人に「猛獣じゃない一枚目」と言わせた、あの意匠だ。
「この紋の妙を、お分かりかな」
「……鈴、ですか」
「さよう。鈴です」
アルヒフは写本用の眼鏡に掛け替えた。
「紋章は、目の言語です。遠目に敵味方を分けるための、視覚の道具。ゆえに紋章の図形は、見て分かるものが選ばれる。獅子、鷲、剣、塔、月。……ところが鈴は、姿より音の物です。音は戦場では届かず、旗の上では鳴らない。紋章学の理屈で申せば、鈴を紋に据える利は、ほとんど無い」
「なのに、据えた家がある」
「据えた家がある。それも、輪にして五つ」
老人の指が、図録の上で輪をなぞった。
「音の紋章、というものが、ごく稀にございます。鐘、鈴、笛、太鼓。それらを掲げる家系は、記録上、ほぼ例外なく――音を役目とした家です。触れ役、楽師、伝令。そして」
指が、止まった。
「――王の傍で、鈴を許された者」
別室の空気が、一段、静かになった。
俺は写しの筆を止めない。止めないための訓練を、二年してきた。書記が頁をめくる音、窓の外の荷車、階下の受付の鈴。資料室の音の目録は、今日のところ平常値である。平常値を、俺は指先で数えながら、声だけ動かした。
「王の傍で鈴、というのは」
「調べておる最中です。ゆえに、ここから先は口ではなく紙で申しましょうな。……サイキ殿、本日の控えはここまで。明日は町役場の文書蔵の目録と突き合わせます」
肩透かし、ではなかった。あの老人は、確信のない事を言わない。言わないという形で、確信の在り処だけを見せていく。書庫流の話法である。
夕方、階下に降りると、受付のミエルさんが書記のひとりと向き合っていた。
「――ですから、ギルドの討伐台帳は、五年分を貸し出します。それより古い分は保存書庫、閲覧は申請制です」
「調査は王命に基づくものですが」
「王命は存じております。台帳的には、王命にも書式がございます。閲覧申請の用紙は、こちら」
敬語の刃が、しゃらりと鳴った。書記は用紙を受け取って引き下がった。その去り際、小声で「王都の会計院より手強い」と漏らすのを、俺の耳は拾っている。会計院より手強い受付というものが辺境の支部に配置されている経緯を、王都の人事は知らないままでいてくれたほうが、この街のためだと思う。
王命を書式で受け止める受付は、王国広しといえどこの支部だけだ。
俺と目が合うと、ミエルさんは、何事もなかったように帳面を閉じた。
「サイキ様。初日のお勤め、いかがでしたか」
「紙の敵の多さを学びました」
「それは何より。……時に、保存書庫の閲覧申請が出た場合、対応するのは私です。私の台帳は、私が説明いたします。どの頁も」
どの頁も。
第十三号案件の閉架の頁も、という意味である。あれは記載事項なしで閉じられた帳面だ。閉じた本人が説明すると言っている。つまり――俺が心配することは何もない、という通告だった。この人の通告は、いつも事務の顔をして、事務でないものを運んでくる。
「……恩に着ます」
「事務連絡です」
夜、宿に戻る道すがら、俺は今日の帳簿を繰った。
紋章は文である。鈴は音の紋である。音の紋を許されたのは、音を役目とした家である。王の傍で、鈴を許された者。
そして、あの老人は明日、町役場の文書蔵の目録と突き合わせる、と言った。
文書蔵。音のない靴跡が、窓の建て付けを確かめていった、あの建物である。
照合が進む速度と、灰色の客が動く速度と。どちらが先に、目当ての頁に着くのか。俺の帳簿は今夜も、半々の欄で膨らんでいく。




