【第三巻】第五章 先触れの鈴(三)
穂月七日。調査団到着の前日である。
街は朝から、余所行きの顔の稽古をしていた。ギルドの前には応接の天幕が張られ、ミエルさんが指揮棒代わりの帳面で人足を差配し、道は掃かれ、金物屋の店先は磨かれ、賭けの再開を試みた予想教室は二度目の没収を食らった。学習しない男たちである。二度目の没収は台帳に加えて筆記具まで及んだというから、三度目は指を没収されるのかもしれない。女帝の船旅のために、川岸に張りぼての村を並べた家来の話がある。うちの街の場合、張りぼてではなく本物の街を磨いているのだから、あの家来より正直だ。正直な分、疲れる。
朝のうち、俺たちも応接の設営に駆り出された。
「クラウン様。天幕の柱、あと二寸、右です」
「これくらいですか」
「一寸戻してください。……はい、そこです。台帳的には、それで水平です」
「ミエルさんの目、水準器より正確ですね」
「水準器は嘘をつきませんが、地面が嘘をつきますので」
名言なのか職業病なのか判定しかねる呟きと共に、応接所は着々と形になった。俺は椅子を運んだ。運びながら、椅子の数を数えた。来客用が六脚。六人。馬車三台に六人と書物。書物の随行員が六人というのは、多いのか少ないのか。多い、というのが俺の見立てである。紙は口をきかない。口をきかない紙に六人つくなら、六人ぶんの口は、紙以外の何かに使う予定なのだ。
うちの宿の中庭では、平常運転が続いていた。
「五十五! 五十六! ――五十七!」
朝の素振り、五十七合の再現である。今朝は見物人が一人多かった。塀の上に、まだら服が座っていた。
「ふうん。それが噂の五十七合かい」
「トリルさん! 見ててくれたんですか」
「先触れの視察だよ。街で一番いい芸は先に見とかないとね」
トリルは塀から降りて、あいつの素振りの周りを一周した。道化の目が、剣士の型を眺める。妙な取り合わせだが、あいつは真剣に講評を待っている。
「――四十三合目」
「え?」
「四十三合目だけ、足が笑ってた。他は泣くほど真面目。あそこだけ、なんで笑ってたんだい」
あいつの目が、まん丸になった。
「すごいな。四十三合目は、あの人の棒がここに来ると思ったのに、来なかったんです。読みが外れたのに、なんでか、嬉しくて」
「だろうね。芸ってのは、笑ってる足から嘘が抜けるのさ」
俺は荷物の点検をする手を止めなかった。止めなかったが、四十三合目の内幕を白状すると、あれは俺の読みの外し損ないである。外したのは俺で、嬉しかったのは向こうで、二年後にそれを道化が足元から読み当てた。世界の帳簿は、たまに精算が細かすぎる。
昼、あいつは素振りの締めに入った。
締めの素振りには、数え歌がつく。百本の型を、あいつは昔から歌で数える。癖である。今日の歌は、あれだった。
「――すずは、おうかんより、ふるい……」
鼻歌まじりの、あの童歌である。
五十本目あたりで、塀の上から、声が重なった。
「――おとは、なまえより、さきにうまれた」
あいつの素振りが、止まった。
トリルは頬杖のまま、続きを歌っていた。鼻歌ではない。細いが、芯のある、正確な節である。俺の知らない三節目に入り、四節目を回って、最後は「ねむれ、ねむれ」で終わる、完全な形の歌だった。
「……トリルさん、今の」
「ん? ああ、悪いね、つい。懐かしい歌だったもんでさ」
「その二節目! 『先に生まれた』ってやつ! それ、うちの母さんの歌い方です!」
あいつは塀に駆け寄った。
「村のみんなは『長生き』って歌ってたのに、母さんだけ『先に生まれた』で……ずっと、母さんの覚え違いだと思ってたんです。でも今、トリルさんも」
「覚え違い?」
トリルの眉が、ひょいと上がった。
「そりゃ逆さまだよ、白光の旦那。『先に生まれた』が本歌さ。あたしはそれで習った。『長生き』の方が、田舎へ流れるうちに訛った口だね」
「習ったって、誰にです」
「そりゃお前さん――」
言いかけて、トリルの口が、半拍止まった。
その半拍の隙に、あいつの反論が滑り込んだ。反論というより、村の名誉の防衛戦である。
「だいたい、待ってください。あの歌はフェルマータの歌です。婆ちゃんたちが『ひいひい婆さんの代から歌ってる』って言ってました。宮廷の歌のわけがない」
「ひいひい婆さんの代、ねえ。それ、何年前だい」
「え? ええと、七十年、いや、百年?」
「あの歌はね、旦那。少なくとも二百年は前からあるのさ。ひいひい婆さんが生まれた時にゃ、もう年寄りの歌だよ」
「に、二百年。いや、でも、それなら尚更、村で二百年歌われてたのかも」
「かもね。じゃ、聞くがね。『すず』と『おうかん』の歌なんだろ? フェルマータの村に、王冠なんてあったかい」
「ない、です。麦と、羊と、寺だけです」
「ないものは、歌にならないのさ。歌ってのは、あるものの側で生まれるんだ」
誤嚥蓄の訂正合戦は、道化の完勝で幕を閉じた。閉じたが、勝った側の顔に勝ちの色はなく、負けた側の顔には、負けよりも大きな何かが居座っていた。王冠のある場所で生まれた歌を、王冠のない村で、母だけが正しく歌っていた。並べてしまえば、それだけの話である。それだけの話が、それだけで済まないことは、この場の三人ともが分かっていた。
止まった半拍を、俺は見た。
「――宮廷でだよ。あれは古い子守唄でね。王宮の乳母たちが、代々歌ってきた歌なのさ」
「王宮の?」
あいつの顔から、笑いが少しずつ、位置を変えていった。喜びの形から、分からないものを見る形へ。
「待ってください。おかしいですよ。だって、あれはフェルマータの村の歌で。村のみんなが歌ってて。それで、うちの母さんは村の歌い方と違ってて、その違う方が、王宮の本歌と同じって……そんなの、順番が変だ」
「歌は旅をするからねえ。宮廷から村に下った歌なんて、いくらもあるさ」
「でも、村に下ったなら、村の歌い方になってるはずでしょう。なのに母さんだけ、宮廷の歌い方のままって、それって」
それって。
その先を、あいつは言葉にしなかった。できなかったのだと思う。代わりに、間が降りた。中庭の真ん中に、素振り百本ぶんの汗と、歌の残りと、誰も拾わない問いが、そのまま置かれた。
「――白光の旦那」
トリルの声が、静かになった。芸の声ではなかった。
「お前さんの母上は、なんて名前だい」
「……リラです。リラ・クラウン」
「リラ」
トリルは、その二文字を、口の中で一度だけ転がした。転がして、飲み込んで、それから、いつもの芸の顔に戻った。戻る前の一瞬、三叉帽の鈴を、指で包んだのを、俺は見た。鳴らさないための手つき。あれは、あの道化の癖だ。心が動いた時、鈴を黙らせる。
「いい名前だ。竪琴の名前だね」
「トリルさん、何か知ってるんですか。母さんのこと、うちの家のこと」
「あたしが知ってるのは歌だけさ」
「でも」
「旦那」
トリルは塀からひらりと降りて、あいつの正面に立った。小柄な道化が、長身の剣士を見上げる形である。なのに、どちらが見上げているのか、一瞬分からなくなる立ち方だった。
「――明日、王都から調べの人たちが来る。書庫の親玉が、じきじきにね。あの狸さんの帳面は、あたしの与太の百倍正確だ。だからさ、慌てて今夜、あたしの与太で埋めるこたあない。……あと一日だけ、待ちな。待つのも芸のうちだよ」
「……はい」
あいつは、頷いた。頷いて、それでも一度だけ、食い下がった。
「一つだけ。一つだけ教えてください。その歌――いい歌ですか。それとも、悪い歌ですか」
妙な質問だった。妙な質問だったが、あいつの十一項目の一番底にあるのは、たぶんこれなのだ。うちの家は、いい家なのか。
トリルは、目を細めた。
細めた目のまま、答えの代わりに、最後の一節を、小さく歌った。
――ねむれ、ねむれ。
子守唄の締めの節である。眠れ、と歌う歌に、悪い歌はない。そういう答え方だった。
あいつは、ゆっくり息を吐いて、頷いた。頷けたのは、答えの中身のせいではなく、答え方の温度のせいだと思う。
その晩、俺は帳簿の整理をした。
本日の新規記帳。童歌の本歌は「先に生まれた」。歌の年齢はおよそ二百年。産地は王冠のある場所。フェルマータ村に王冠は無い。母リラの版だけが本歌と一致。そしてトリルは、リラの名を、口の中で一度転がした。
項目を並べ終えて、俺は筆を置いた。
明日、書庫の親玉が来る。帳面の精度がトリルの与太の百倍だという狸さんが、馬車三台ぶんの紙を連れて来る。
俺の帳簿と、あの狸さんの帳面と、答え合わせの日が近い。答えが合ってしまうことを、俺は半分祈り、半分恐れている。半々の欄というものを、俺の帳簿は今夜、初めて作った。




