【第三巻】第五章 先触れの鈴(二)
夕方、あいつが言い出した。
「トリルさん、今夜の宿は決まってるんですか」
「これから探すとこさ。屋根の上でもいいんだけどね、雨だと帳面が湿る」
「じゃあ、その前に、うちの街で一番いい店に案内させてください。鈴鳴り亭っていうんです」
来た。来ると思っていた。あいつは世話になった人間を、必ずあの店に連れて行く。ドヤール一行も、王都からの帰り道の商人も、みんなあの暖簾をくぐらされた。地元の誇りが酒場一軒に集約されている男である。集約先の店主が今どういう状態かを知っている俺としては、胃の帳簿がまた一頁増えた。
道すがら、あいつは店の予習を始めた。
「いいですかトリルさん、鈴鳴り亭の煮込みは、まず匙を入れちゃ駄目です。最初は匂いです」
「ほう、匂いから」
「で、親父さんに何が入ってるか聞くんです。絶対教えてくれないんですけど、聞くのが礼儀で」
「教えてくれないのに聞くのが礼儀かい」
「そうです。『企業秘密さね』って言われるまでが、一皿なんです」
「……いい店だね、行く前から分かるよ」
行く前から分かられてしまう店も店だが、注文の口上まで含めて一皿と数えるあいつの食通ぶりも大概である。ちなみにこの作法、考案者は本人で、店の公式の礼儀ではない。ない礼儀を三年続けて、既成事実にした。うちの街の制度の半分は、だいたいこの方式でできている。
「鈴鳴り亭、ときたか」
トリルは三叉帽を直して、にっと笑った。
「いい名前だ。案内しとくれ」
断らなかったな、と俺は思った。断らない理由の欄は、白紙のまま伏せられていた。
暖簾をくぐると、宵の口の店には客が三組。カウンターの中で、バラッドの親父さんが杯を拭いていた。
顔を上げた。
まだら服を、見た。
――沈黙、三秒。
三秒は、初対面の客を見る長さではない。かといって、旧知を見る長さでもない。あれは、来ると分かっていたものが来た時の長さだ。俺の帳簿は、そう記帳した。記帳しながら、余白に註も打った。来ると分かっていて、なお三秒かかるものは何か。答えの候補は少ない。覚悟の再確認、というのが、いちばん近い気がした。
「親父さん! お客さんを連れてきました。王都の、王宮付き道化のトリルさんです。トリルさん、こちらが鈴鳴り亭のバラッドさん」
「――いらっしゃい」
親父さんは、杯を置いた。
「遠来のお客人だ。まずは一杯、店の奢りといこうかね」
「そりゃどうも。……じゃあ、遠来の作法で頂くよ」
トリルは帽子を取った。取って、胸に当て、半歩引いて、爪先を軽く外に開いた。妙な礼だった。膝は曲げない。頭も下げない。ただ、帽子の鈴が鳴らないように、掌で包んで押さえていた。
親父さんの眉が、ぴくりと動いた。
動いて、それきり、何事もなかったように酒を注いだ。注ぎ方が、変わっていた。それまで拭いていた杯ではなく、棚の奥から別の杯を出した。取っ手のない、白い小ぶりの杯。注ぐ時、瓶の口を杯の縁に当てない。音を立てない注ぎ方である。
トリルは受け取って、一口飲んで、言った。
「……いい酒だ。静かに注ぐと、酒は静かな味がするね」
「そういう決まりだからね」
「決まり、ねえ。どこの決まりだい」
「さて。忘れちまったよ」
二人は笑った。
笑ったが、俺は笑えなかった。今のやりとりは、会話の形をした符牒だ。鈴を鳴らさない礼。音を立てない酌。「どこの決まりだい」「忘れちまったよ」。質問も答えも、中身はどこにもない。中身がないのに、二人の間では何かが確認され、受領され、締結された。それが何なのかだけが、外側の席には分からない。合言葉ひとつで岩の扉が開く洞窟の話があるが、あの合言葉は、少なくとも言葉だった。今夜の合言葉は、鳴らさない鈴と、音を立てない酌である。四十人の盗賊より、口が堅い。
「いやあ、よかった! 二人とも、すぐ仲良くなると思ってたんです」
外側の席の代表が、心底嬉しそうに言った。
あいつの目には、意気投合した酒場の主人と旅の道化が映っている。間違ってはいない。間違ってはいないが、正しくもない。世界の見え方の帳簿は、人によってこうも記載が違う。
それから先の店は、笑い声の量だけなら、今年一番だった。
誇張ではなく実測である。トリルは旅の小噺を三つ披露し、親父さんは王都の酒の悪口で応酬し、あいつは笑いすぎて麦酒一杯で耳まで赤くなった。常連たちはまだら服を囲んで、質問攻めを開始した。
「なあ道化の旦那、王様ってのは、ほんとに旦那に敬語を使わせねえのかい」
「使わせないねえ。あたしが敬語を使うと、うちの王様は『薄気味悪いからやめろ』って顔をするよ」
「顔をする、って、口では言わねえのか」
「王様ってのは、顔が公文書なのさ」
「じゃあその帽子の鈴、寝る時はどうするんだ」
「外さないよ。寝返りのたびに鳴るからね、悪い夢が近寄る前に逃げてくんだ」
「便利だな! 俺も鈴つけようかな」
「やめときな。女房どのの説教も逃げてくよ」
座が沸き、質問した男の女房が男の頭をはたき、また沸いた。
「屋根の上と床と、どっちが寝やすいんだい」
「そりゃ屋根さ。床は誰かの上等だが、屋根はいつでも一等席だ」
トリルは全部に芸で答えた。芸としては満点で、情報としては零点である。中身のない答えで座を満たす技術は、尋ねた側に満腹感だけを残す。見事なものだ。
俺は途中から、勘定の手を止めて、二人の「間」だけを見ていた。
トリルと親父さんは、直接にはほとんど話さなかった。話す時は必ず、座の全員に向けた声だった。二人きりの言葉を、二人は一度も交わさなかった。交わさないことが、むしろ、線のように見えた。座の真ん中に、誰にも見えない縄が一本張ってあって、二人はその縄を挟んで、正確に距離を保って芸を回している。
沈黙が降りたのは、一度だけだ。
常連の一人が、何気なく飾り棚を指差した時である。
「そういやトリルさんよ、あんたの商売道具みたいなのが、うちの店にもあるんだぜ。ほれ、あの人形頭の杖」
座の目が、一斉に飾り棚を向いた。
人形頭の杖。道化の顔。二年間のガラクタ。
トリルの笑顔は、消えなかった。消えなかったが、俺は見た。膝の上の指が、帽子の鈴を、音が出ないように、そっと包んだのを。
「――ほんとだ。いい顔してるねえ、あの杖」
「だろう? 親父さん、どこで手に入れたんだっけか」
「さあね。気づいたら店にいたのさ。ガラクタってのは、そういうもんだよ」
沈黙は、正確には沈黙ではなかった。会話は続いていた。続いていたが、七秒間、トリルと親父さんは、互いを一度も見なかった。見ないことに、七秒ぶんの力が要っていた。数えていた俺も俺だが、数えさせる二人も二人である。
ついでに言えば、七秒の間に、俺はもう一つ数えていた。あの杖の話題が出た瞬間、店の中で動きを止めた人間の数である。二人、と書きたいところだが、正しくは三人だった。トリル、親父さん――そして、飾り棚から一番遠い卓で、麦酒を舐めていた行商風の客が一人。あの客は、杖の話が終わるまで、杯を口に運ばなかった。行商人が聞き耳を立てて悪い法はない。ないが、俺の帳簿の灰色の頁は、今夜も商売繁盛である。
夜が更けて、お開きになった。
トリルの宿は、結局ドヤールと同じ渡り鳥亭に決まった。芸人は芸人で固まるものらしい。店の外まで見送りに出た親父さんに、トリルは三叉帽をかぶり直して、軽く言った。
「ご馳走さん。いい店だったよ」
「そりゃ何より」
「ああ、それと――」
道化は、店の看板を、それから軒先の鈴を、見上げた。
「――鐘と鈴は、同じ棚に置かない方がいい。昔の職場で、そう習わなかったかい」
「……さて、ね」
「ならいいのさ。おやすみ、亭主どの」
まだら服は、鈴を鳴らして夜道に消えた。
親父さんは、しばらく看板の下に立っていた。立ったまま、動かなかった。あいつが「いい人ですよね、トリルさん」と声をかけると、「おう」とだけ返した。
鐘と鈴は、同じ棚に置かない方がいい。
帰り道じゅう、俺はその一行の意味を、帳簿の余白で転がし続けた。答えは出なかった。出なかったが、一つだけ確かなことがある。あの言葉を、トリルは挨拶の続きとして言ったのではない。あれは――警告の形をしていた。




