【第三巻】第四章 帳簿と写本(三)
時計塔の角から宿へ帰る道は、鈴鳴り亭の前を通る。
通るように歩いたのか、歩いたら通ったのかは、当人にも判然としない。ともかく、夜半を過ぎた店の窓に、灯りが一つ残っていた。看板はとうに下がっている。灯りの高さは竈ではなく、奥の飾り棚のあたり。
俺は少し迷って、裏口を叩いた。迷った、というのは嘘かもしれない。音の穴が二つ開いた夜に、この店の灯りを素通りする選択肢は、最初から俺の帳簿に載っていなかった。
「――なんだ、坊主か」
戸を開けた親父さんは、埃まみれの前掛け姿だった。背後の店内は、椅子が上がったままの闇の中、飾り棚の周りにだけ灯りと、床に並んだ木箱と、紙の匂い。
「夜分に。灯りが見えたので」
「見回りかい。感心なこった。……ちょうどいい、手ぇ貸しな。棚の上の箱を降ろしたいんだが、俺の腰が反対してやがる」
かくして俺は、深夜の酒場で棚卸しの人足になった。世の中の用事というものは、断る理由を探すより引き受けたほうが早い形で来る。
「急な棚卸しですね」
「客が来るんでな」
「調査団ですか」
「さあて。来るとしたら、うちみたいな古い店だろうってだけの話さ。古い話ってのはな、坊主、床下の銭と同じでね。あることを知ってから探すのと、あるかどうかから探すのとじゃ、掘る速さが違う。掘られる側は、先に自分で床板を数えとくのさ」
「数えて、どうするんです。差し出すんですか、それとも」
「そりゃ、床板に聞いてみねえと分からねえさ」
答えになっていない答えは、答えたくないという答えである。俺は箱を降ろした。
「重いのはどれです」
「上の段の右から三つ。酒の空き瓶だ。いや待て、そっちの軽いのを先に頼む。軽いのが先だ、大事なんでな」
「重さと大事さは別なんですね」
「当たり前さね。うちの店で一番大事なのは、目方で言や、あの杖と鈴くらいのもんだ」
飾り棚の人形頭が、灯りの中で笑っていた。目方の軽い大事なものの筆頭が、自分から名乗り出た形である。俺は聞かなかった顔で、軽い箱を降ろした。
作業は、妙に儀式めいていた。
親父さんの手順には決まりがあるのだ。箱を降ろす前に、棚に一礼する。降ろした箱は必ず北向きに置く。蓋を開ける前に、掌で埃を払う――払うというより、撫でる。そして開けた箱の中身を確かめる時、親父さんは必ず、何かの節を小さく口ずさんだ。歌詞のない、鼻歌ともつかない節である。
「決まりが多いんですね」
「決まり? ああ、これか。癖だよ、癖。昔の職場がうるさくてね」
「劇場の掃除夫の?」
「……そうそう、それだ」
自分の経歴詐称を一拍忘れる詐称者を、俺は初めて見た。
「箱を北向きに置くのは、どういう決まりなんです」
「北はな、坊主、物が育たねえ方角だ。育たねえってことは、変わらねえってことさ。変わっちゃ困るもんは、北に置く。……って、昔の職場の婆さんが言ってた。理屈はしらん。守ってるだけだ」
「理屈を知らずに守れるものですか」
「守れるさ。理屈より先に体が覚えたもんは、理屈が死んでも残る。お前さんの歩き方と同じだよ」
手が止まりかけた。俺の歩き方の何を指しているのか、聞き返す勇気は、深夜の在庫に無かった。この親父さんは時々、こういう置き方をする。拾えば藪、拾わねば棘。どちらでも痛い。
箱の中身は、大半が古い帳面だった。
仕入れの控え、酒の銘柄の覚え、常連の付け(歴代)、それから――ひとまとまり、他と紙の質が違う束があった。上等の紙。ただし古い。綴じ紐は替えられた跡があり、表紙には題がない。代わりに、隅に小さく、鈴の絵が描いてある。
「親父さん、これは」
「ん? ああ、そりゃ、ガラクタさね」
ガラクタ、と言いながら、親父さんの手が伸びてきて、俺の手からその束を、両手で受け取った。ガラクタの扱いではなかった。生き物の扱いだった。
「歌帳だよ。昔の職場の……なんだ、その、記録さね。演目の控えとか、客の入りとか」
「劇場の」
「そう、劇場の」
劇場の記録に、鈴の絵。俺は何も言わず、次の箱に手を伸ばした。言わない代わりに、目の端の帳簿が黙々と記帳した。束は全部で六冊。年季の入り方が一冊ずつ違う。三十年ぶんを六冊に分けたなら、一冊五年。几帳面な劇場もあったものだ。
棚卸しの理由は、聞かずとも分かった。
調査団が来る。古い話を調べに、王都の書庫が来る。その前に、この店の主人は、自分の店のどこに何があるかを、確かめ直している。確かめて、どうするのかまでは、まだ手つきから読めない。差し出す支度なのか、隠す支度なのか。
「坊主。そっちの箱は、上に戻していい」
「はい」
箱を持ち上げた時、束の一冊が、箱の縁に触れて床に落ちた。
拾おうとして、開いた頁が目に入った。
几帳面な細い字が、頁の上から下まで詰まっていた。演目の控えでも、客の入りでもない。日付と、短い文の羅列である。読むつもりはなかった。それでも俺の目は職業柄、開いた頁を写してしまう。
――氷月十二日。北の塔の件、殿下は笑わなかった。三度目である。
――氷月十五日。編纂室に灯り。夜半まで。
そして、頁の下段に、その文字はあった。
――クラウンの件、まだ言えず。
クラウン。
俺が頁を閉じるのと、親父さんが振り向くのは、ほとんど同時だった。
「――悪い。落とした」
「おう。……紙は古いんだ、優しく扱ってやんな」
親父さんは束を受け取り、何事もなかったように箱へ仕舞った。読んだか、とは聞かれなかった。読んだ、とも言わなかった。カウンターの上の灯りが、二人ぶんの沈黙を、等分に照らしていた。
帰り道、俺の頭は帳簿の整理で忙しかった。
歌帳。六冊。三十年。日付と短文の羅列。殿下。編纂室。クラウンの件、まだ言えず。
あれは演目の控えではない。あれは――記録だ。誰かが、言えなかったことを、言えなかった日付ごと書き留め続けた記録。歌にならなかった歌の、帳面。
そして、あの紙は古い。
古い紙は、燃える。濡れる。虫が食う。鼠がかじる。歌は燃えない文書だと親父さんは言ったが、あの六冊は歌ではない。紙だ。この街には今、音を消して歩く客が二人いて、そのうち一人は、古いものの前でだけ足を止める。
宿に着く頃には、決まっていた。
写す。
あの六冊を、写す。許可は――取らない。取れば断られる。断られたものは写せない。よって、取らない。我ながら見事な三段論法である。前提のどこかが盗人の理屈と同型な気がするが、同型なだけで同じではない。盗人は原本を持っていくが、俺は原本に指一本触れた分だけ、埃を元の形に戻す。持っていくのは、中身の控えだけだ。
これは盗み見ではない。防災である。
火事の前に水瓶を満たすのと同じ、ただの備えである。備えに許可が要るなら、水瓶にも許可が要ることになる。要らないだろう。よって備えに許可は要らない。証明終わり。
……理屈の出来に対して、後ろめたさの残高が減らないのは、なぜなのか。
神々から火を盗んで人間に渡した男は、岩に繋がれて、毎日鷲に肝を食われたという。俺が持っていくのは火ではなく写しで、渡す先は人間ではなく水瓶である。肝の心配は、たぶん、要らない。たぶん、が付くのが引っかかるが。
まあいい。後ろめたさは俺が持つ。俺の荷は、その手の在庫で常に埋まっている。一つ増えても、誰も気づかない。
問題は方法だ。六冊。あの細かい字。店の営業中は写せない。深夜、親父さんが寝てから――いや、あの人の寝息を盗むのは骨だ。むしろ堂々と、夜の店に通う理由を作る。手伝い。棚の続き。あるいは……。
思案しながら宿の角を曲がった時、俺は足を止めた。
首筋の産毛が、先に気づいていた。
視線。
振り返る。夜の路地。誰もいない。灯りの落ちた家々。どこかで犬が一声吠えて、やんだ。
音は、ある。夜の音の目録は、揃っている。穴は、ない。
ないのに、見られていた。見られていた感触だけが、産毛の帳簿に記帳されている。
……相手の得物が「静けさ」なら、こちらの網は音だ。だがもし、音を立てたまま観測する目があるとしたら、俺の網は最初から、編み目の向きが違う。
宿の窓には、あいつの部屋の灯り。資料の清書は、まだ続いているらしい。
守るものの目録が、今夜、一冊ぶん増えた。




