【第三巻】第四章 帳簿と写本(二)
午後、俺は聞き込みという名の買い物に出た。
買い物という体裁は重要である。荷物持ちが油と蝋燭と紐を買って歩くのは日常だが、荷物持ちが街の見張りの網を点検して歩くのは日常ではない。日常の顔をした非日常は、買い物籠一つで作れる。安い変装だ。
一軒目、金物屋。
「油かい。はいよ。……そういや昨日の晩な、妙な音を聞いたよ」
「音?」
「音っていうか、音がしなかった、っていうか。裏の路地を誰か通ったんだよ。猫かと思って窓から見たら、人だった。人の形が歩いてるのに、足音がしないんだ。気味が悪くてね」
「酔っ払いが忍び足だったんじゃないか」
「忍び足ってのはな、兄ちゃん、聞こえるんだよ。忍んでる音がする。あれは違う。音の欄が、白紙なんだ」
「詳しいな」
「商売だからね。鍋は叩けば分かる。いい鍋は余韻が長い。安物は鳴き終わるのが早い。人の足音も似たようなもんでね、堅気の足音にはちゃんと余韻がある。あれには、鳴り始めから無かった」
「……その客、何か買っていったか」
「何も。店の中をぐるっと見て、出てった。うちで一番古い鍋の前で、一番長く止まってたね。売り物じゃない、先代からの飾りの鍋だよ」
古いもの、の前でだけ止まる客。金物屋は商売柄、音に詳しい。その耳が「音の欄は白紙」と表現した。いい表現なので、俺の帳簿がそのまま借用した。
店を出る時、金物屋は「油、まけとくよ」と言った。まけてもらう理由がないと言うと、「気味の悪い話を聞いてもらった駄賃さ」と返された。不安というものは、誰かに話して帳簿から降ろすと軽くなるらしい。降ろされた側の帳簿が重くなる勘定については、金物屋の関知するところではない。
二軒目、パン屋。マルグリット婆さんは焼き場から顔も上げずに言った。
「灰色の人かい。一昨日、店の前を三度通ったよ。三度ともパンを買わなかった。パン屋の前を三度通ってパンを買わない人間は、パン以外の用事さね」
「何の用事だと思う」
「さあね。でも三度とも、うちの壁を見てた。うちの壁に何があるんだったかね……ああ、あれだ。祭りの貼り紙の跡と、あんたらの旗の飾りだ。春の祭りで飾った、鈴の輪の小旗」
鈴の輪。クラウン家の紋。
俺は礼を言い、干し葡萄入りを一つ買って店を出た。買い物籠の中身が増え、帳簿の灰色の頁も増えた。
三軒目の代わりに、ゴルドー組の詰め所に寄った。夜回りの巡路を聞くためである。ゴルドーは巡路の板図を見せながら、髭を掻いた。
「例の客か。あれから二晩、うちの網には掛かってねえ。……いや、正確に言うとだな。掛かってねえのが、逆に妙なんだ」
「どういうことだ」
「夜回りってのは、何も見ない晩のほうが珍しいのさ。酔っ払い、野良犬、逢引き、寝ぼけた鶏。夜の街にはそれなりの人口がある。それがここ二晩、南区の一角だけ、綺麗に何もいねえ。犬も鳴かねえ。……静かすぎる晩ってのは、あれだ、何かがいる晩だ」
猟師の理屈である。そして猟師の理屈は、経験上、学者の理屈より外れない。
「頼みがある。明日から、巡路を二本ずらしてくれないか」
「どこへ」
「文書蔵の裏の路地に一本。できれば、夜番上がりの連中が一杯やって帰る道になるように」
「……酔っ払い街道を作れってか」
ゴルドーはにやりと笑った。元盗賊は、警報の価値を知っている。
「いいぜ。理由は聞かねえ。聞かねえがな、一つだけ言っとく。うちの若いのに、妙なもんを追わせるなよ。追う仕事は、追う稽古をした奴の仕事だ」
「追わせない。転がって歌ってくれるだけでいい」
「なら請け負った」
話が早い。話の早さは、前職の遺産の中で唯一、堂々と相続してよい種類の財産だと思う。
南区の一角。俺は頭の中の地図に印をつけた。南区には道場と、倉庫街と、それから――書庫がある。ギルドの資料庫と、町役場の文書蔵。この街で「古い話」が紙の形で眠っている場所は、あの二つだけだ。
日が落ちてから、俺は宿を出た。
「散歩か? ヨウタ」
「蝋燭を切らした。ついでに夜風だ」
「そうか。なあ、最近多いな、夜の買い物」
ペンを持ったまま、あいつがこちらを見た。責める目ではない。責める目ではないことが、むしろ効く。
「王都でもそうだったろ。夜、いないことが多かった。規約の第二条、覚えてるよな。異変は隠さず言う、ってやつ」
「覚えてる。……異変はまだ、無い」
「まだ、か」
「あったら言う。第二条どおりに」
「分かった。信じる」
あいつは頷いて、資料の清書に戻った。信じる、を疑いの反対語として使える人間は、実はそう多くない。多くないから、こちらの胸には、使われるたびに小さな貸し越しが積み上がる。
嘘は言っていない。蝋燭は本当に切らしてある。切らしてあるように、昼のうちに調整した。嘘を言わない技術というのは、つまり、前日までの仕込みの技術である。誇れる特技ではないことは、自覚している。自覚の欄だけが、うちの帳簿は毎年黒字だ。
夜のモトリーは、俺の古巣だ。
屋根の高さ、路地の抜け、犬の縄張り、灯りの届かない角度。二年かけて足の裏に写した地図の上を、俺は音を置かずに歩いた。音を置かない歩き方は、要するに重心の問題である。踵から爪先へ体重が流れる時、床は鳴る。鳴る前に次の足へ移してやれば、床は鳴く暇がない。物理の理屈は単純で、単純な理屈ほど、体に写すのに年数を食う。俺の場合は祖母の家の廊下で覚えた。夜中に芋をつまみ食いする少年にとって、あの軋む廊下は最初の道場だった、という経歴の情けなさについては、履歴書に書く予定がないので問題ない。
ついでに白状すると、夜の街を歩く時、俺は頭の中で家々の寝息を数える癖がある。寝息といっても比喩で、灯りの落ち方、竈の残り火の匂い、犬の寝返りの音。そういう「街が眠っている証拠」の目録だ。目録が揃っている夜は、いい夜である。今夜の目録は、南に向かうにつれて、頁が薄くなっていった。
南区、文書蔵の裏手。
あった。
軒下の、雨で柔らかくなった土の上。靴跡が四つ。爪先が深く、踵が浅い。俺と同じ歩き方をする人間の跡だ。ただし――俺より、上手い。四つの跡の間隔が完全に均等で、深さも狂いがない。時計仕掛けのような精度である。歩幅から背格好を割り出す。中肉中背。体重は軽め。荷物なし。
そして、もう一つ。
文書蔵の窓の桟に、埃の途切れが一筋。誰かが指で、窓の建て付けを確かめた跡である。入ってはいない。確かめただけ。下見だ。
俺は軒下の暗がりで、しばらく帳簿をめくった。
手を出すか、出さないか。
出せる、とは思う。跡を辿り、根城を割り、面倒の芽を摘む。一年前の俺なら、夜のうちに済ませていた仕事だ。だが今回は、勘定が合わない。
第一に、相手の目的がまだ「下見」である。摘めば、下見が本番に変わる。しかも慎重な本番に。寝ている犬は起こすな、と西の国では言うが、今回の犬は寝ていない。起きていて、しかも吠えない。ことわざの想定より、たちが悪い。
第二に、相手はたぶん、観測を仕事にする手合いだ。観測者を消せば、観測者を消せる何かがいる、という観測結果が残る。教団の手帳の「空白」の欄を、俺はまだ覚えている。空白は、下手な記入より雄弁だ。
第三に――これが一番厄介なのだが――今回の主戦場は、魔獣の森ではない。書類と、記録と、人の記憶だ。この土俵で俺が振れる棒を、俺はまだ持っていない。速さで紙は守れない。強さで記憶は守れない。守り方の目録に、白紙の頁が一枚挟まっている。
「……手詰まり、と書くのは癪だな」
保留、と書いておく。摘まずに、網だけ張る。ゴルドー組の巡路を明日、二本ずらしてもらおう。文書蔵の周りに、酔っ払いの多い路地が一本できる予定だ。酔っ払いは最高の警報機である。金がかからず、嘘をつかず、そこにいるだけで夜の静けさを破壊する。
網だけ張って引き上げる、と決めた帰り道は、行きより足が重い。摘める芽を摘まずに歩くのは、性に合わないのだ。性に合わないことを勘定で選べるようになったのを、成長と呼ぶのか老化と呼ぶのか、判定は帳簿の管轄外である。
その帰り道、時計塔の角で、俺は足を止めた。
風向きが変わった一瞬、夜の街の音の中に、穴が二つ、開いていた。
音の欄が白紙の場所が、二箇所。一つは南、文書蔵の方角。もう一つは――北東。渡り鳥亭のある区画だ。
二つの穴は、互いに気づいているのかいないのか、それぞれの位置で、それぞれに静かだった。
灰色の客は、一人ではない。
音を消して歩く客が、この街に、二人分いる。




