【第三巻】第四章 帳簿と写本(一)
朝稽古の演目に、新しい型が加わっている。
五十七合の再現素振り、である。王都で宣言したとおり、あいつは準決勝の打ち合いを毎朝の稽古に組み込んだ。中庭に立ち、見えない相手に向かって、一合目から順に振っていく。三十を過ぎたあたりで足運びが変わり、五十を過ぎると呼吸が変わる。相手役の実物は、二階の窓からそれを眺めながら麦茶を飲んでいる。自分の残像と毎朝再戦される身にもなってほしいが、幸い、再現の精度は本人が思うより二割ほど甘い。甘い分だけ、俺の平和は保たれている。
「五十七! よし。なあヨウタ、今の、どうだった」
「威勢はよかった」
「威勢か。威勢なあ」
本人は不満げだが、窓から採点できる内容はそのくらいである。詳細な講評をすれば、精度は上がる。精度が上がって困るのは俺だ。教育と保身の利益相反は、今朝も保身が勝った。
穂月五日の朝、調査団の到着日が正式に決まった。八日の昼、南門から。
報せを持ってきたのはギルドの小僧で、ミエルさんの手による書き付けには、日付の他に一行だけ添え書きがあった。曰く、「一行の規模、馬車三台。うち二台は書物とのこと」。
馬車三台のうち二台が書物。人間より紙の方が多い調査団である。俺は書き付けを二度読み、あいつは三度読み、それから互いの顔を見た。
「本の方が多いな」
「本の方が多いぞ、ヨウタ」
同じ感想が二人ぶん出たところで、対策会議は自然発足した。場所は宿の食堂、議題は「三日後に何が来るのか」、資料は書き付け一枚。会議としては最小構成である。
「調べに来るってことは、質問されるんだよな。俺、何を聞かれるんだろう」
「家のことだろ。生まれ、育ち、家族、家宝」
「昨日棚卸ししたやつだな。……なあ、正直に全部答えていいのかな」
「隠す理由があるのか」
「ないけど。ないんだけどさ」
あいつは食堂の卓に頬杖をついた。
「隠す理由はないのに、隠したいわけでもないのに、全部見せるのは何か嫌だ、って気持ちは、何なんだろうな」
「家の中を土足で歩かれる側の、正常な感覚だと思うぞ」
「そうか。正常か。よかった」
よくはないのだが、本人が安心したのでよしとする。
さて、この日の街は、朝から妙な熱を帯びていた。
王都の調査団が来る。白光の旦那の家を調べに来る。この二つの報せは、噂の網の目を一晩で駆け抜けて、モトリーの井戸端に「今年二番目の見世物」の地位を確立していた。一番は明日のドヤールの講談である。順位のつけ方が実にこの街らしい。
パン屋の前ではマルグリット婆さんが「お偉いさんが来るなら道を掃かないとね」と箒を持ち出し、隣の金物屋は「書物の馬車なら軋むだろう、油を差してやる」と待ち構え、宿という宿は三日後の空室を数え直し、子供たちは「馬車三台」の迎撃計画――歓迎の意味らしい――を路地で協議していた。予想教室の連中に至っては「調査の結果」で賭けを始めようとして、ミエルさんに台帳ごと没収された。賭けの対象は「クラウン家の正体」で、番付には「没落貴族」「隠れ大富豪」「実は王族」まで並んでいたという。没収は妥当である。妥当であるが、番付の中身は、俺の帳簿が静かに書き写した。世間の想像力の相場を知っておくのは、裏方の基本だ。
「なあヨウタ、聞いたか。街のみんな、うちの家の正体を当てっこしてるらしいぞ」
「聞いた。お前はどう思ってるんだ、当の本人は」
「俺か? 俺はな……」
あいつは、真面目に考え始めた。考える時のあいつは、視線が右上の空へ行く。
「まず、貴族ってことはないと思う。父さん、畑を借りてたし、税も普通に納めてた。世話役の帳面に載る側だった」
「ふむ」
「大富豪も無い。うち、屋根の修理を二年延ばしてた」
「説得力がある」
「王族は論外だろ。王族が村で木工師をやるか?」
「やらないな」
「あと考えられるのは……罪人の家系。昔、何か大それたことをやらかして、村に隠れ住んでた、とか」
「やらかした家が、正式の剣術と家宝の短剣を持ってるのは妙だろ。財産は取り上げられるのが相場だ」
「じゃあ逆に、忠臣の家系。手柄を立てたのに、事情があって田舎に引っ込んだ」
「事情とは」
「そこが思いつかないんだ」
「他には」
「うーん、勘当された分家。没落した学者の家。実は隣国の出。あとは……」
あいつは指を折り、七つ目で折る指が尽きた。
「――駄目だ。どれもしっくり来ない。何がしっくり来ないって、どの説でも『いつか話す』の説明がつかない。罪人なら墓まで黙る。忠臣なら胸を張って話す。『いつか話す』ってのはさ、話す気はあるんだ。話す気はあるけど、今じゃない。……つまり、俺が何かの歳になるのを、父さんは待ってたんだと思う」
場合分けの網羅は素人だが、最後の一手の筋は良かった。何かの歳。継ぐ歳、と言い換えてもいい。
「だから、消去法でいくと……普通の家、なんだよな。普通の家のはずなんだ。なのに王宮の書庫が動く。ここが分からない」
消去法の進め方は正しい。正しいのに答えに届かない時は、前提の枠のほうが間違っている。つまり「貴族・富豪・王族・普通」という番付の外に、正解の欄がある。番付の外の欄というものに、俺は一つだけ心当たりがあった。心当たりというより、気配だ。鈴と、道化の杖と、歌。あの店の飾り棚の周りにだけ、その気配は濃い。
だが、口には出さなかった。裏の取れていない仮説を当主に渡すのは、帳簿係の仕事ではない。
「まあ、三日後には分かるさ」
「そうだな。……よし、決めた。俺、今日から準備する」
「準備?」
「調査の人たちに、ちゃんと答えられる準備だ。昨日の棚卸しを、紙に清書する。年表も作る。分かってることと分かってないことを、分けて書いておく」
言うが早いか、あいつは紙とペンを持ち出してきた。
A級剣士が、自分の家の調査に備えて、自主的に資料を作る。調べられる側が調べる側の手伝いを始める図であり、役人が見たら泣いて喜ぶ協力態勢である。藪をつついて蛇を出す、と言うが、あいつは藪の地図を描いて蛇に渡す気でいる。だがあいつの手元を覗いて、俺は少し考えを改めた。
紙の見出しに、こうあった。
――クラウン家について、俺が知っていること。
その下に、昨日の晩の話が、丁寧な字で並んでいく。父の名前。母の名前。玄関の鈴。縁側の型。冬の夜の工房。母さんの歌。いつか話す。
資料作りの顔をしているが、これは、あれだ。
両親の記憶の、書き出しである。八年間、誰にも話さずに抱えていた家の記憶を、あいつは今、調査という口実を得て、初めて紙の上に並べている。役人のためではない。たぶん、本人のためだ。
「なあ、ヨウタ。『縁側の型』って、あれ、何て書けばいいんだろう。踊り? 体操?」
「見たままでいいだろ。手先と足さばきの型、右手で放って受けて隠して、最後に両手を開く――」
言いながら、俺の頭の奥で、保留にしていた頁が、また半分めくれかけた。
放って、受けて、隠して、開く。
俺はその手順を知っている。知っているどころではない。俺の懐で、二年間、銅貨が一枚、その手順を待っている。
――銅貨の手妻だ。
ジェスターが人を笑わせる時の、あの癖。銅貨が消えて、増えて、戻る、あの手妻。あいつは誰に教わったとも言わず、物心ついた時からやっていた。誰に、教わった?
「ヨウタ? どうした、固まって」
「……いや。『伝統の手遊び』とでも書いとけ」
俺は保留の頁を、そっと戻した。
証拠はまだ何もない。何もないが、番付の外の欄の輪郭が、また少しだけ、はっきりした気がした。
夕方までかかって、あいつの「資料」は紙三枚になった。
一枚目、分かっていること。二枚目、分かっていないこと。三枚目は白紙のまま、見出しだけが書いてある。――調査で分かったこと。
白紙に見出しだけ立てておくあたり、あいつは根っから、答えが来ることを疑っていない。届いた答えが望んだ形をしているかどうかまでは、見出しは保証してくれないのだが。
窓の外では、街がまだ、見世物の予習で浮かれている。
三日後に来るのは、馬車三台。うち二台は、書物。
あの二台の中に、答えの載った頁があるのかどうか。あるとして、それを開く資格が誰にあるのか。俺の帳簿は、まだどの欄にも、何も書けずにいる。




