【第三巻】第三章 鈴鳴り亭の夜(三)
開店直後の鈴鳴り亭は、いい匂いの空き家のようなものである。
竈の煮込みはもう歌っているのに、客はまだいない。卓は拭かれ、椅子は伏せられたまま半分、床には打ち水の跡。舞台で言えば開演前、帳簿で言えば記帳前の白い頁だ。俺はこの時間の酒場が嫌いではない。店というものが、商売の顔になる前の素顔で立っている。
俺たちは扉の鈴を鳴らして入り、カウンターの定位置に並んだ。親父さんは俺たちを見て、眉を上げ、それから壁の時計を見た。
「宵の口から若いのが二人。よっぽど暇か、よっぽど暇じゃねえかのどっちかだね」
「後のほうです」
「だろうさ。煮込みでいいかい」
注文を聞く前に鍋が動く。こういう店を行きつけと呼ぶ。
煮込みと黒パンが並び、麦酒が半分減るまで、あいつは今日の報告をした。ゴルドー組の月報のこと、ドヤールの興行のこと、そして――灰色の客のこと。クラウンという家を知っているか、と夜道で聞いて回る誰かのこと。
親父さんは、鍋をかき混ぜながら聞いていた。手は止まらなかった。止まらなさすぎた、と俺の帳簿は言っている。
「――で、今夜は一覧の続きってわけかい」
「はい! でも、その前に、一つだけ大きいのを聞きたいんです」
あいつは居住まいを正した。
「家って、何なんでしょう」
親父さんの手が、今度こそ止まった。
「……坊主。それは酒場で聞く質問の大きさじゃねえぞ」
「すみません。でも、考えてたら分からなくなって。うちの家は建物ごと売れたのに、俺はまだ『うちの家』の話をしてる。父さんも母さんもいないのに、クラウンの家は俺の後ろにまだある。あるのに、俺はそれが何なのか知らない。……これ、何なんでしょう」
店の中に、煮込みの音だけがしばらく残った。
親父さんは杯を置き、腰の布で手を拭き、それから、カウンターの内側の椅子に、よっこらせと腰を下ろした。店主が座る夜は、話が長くなる夜である。二年通って学んだ、この店の気圧の読み方だ。ついでに言えば、座る前に竈の火を一段落としたのを俺は見ていた。焦げの心配を先に消してから長話に入る。話の長さを自分で予告する店主というのも、珍しい。
「昔な、文字ってのは偉い連中の道具だった」
話は、妙なところから始まった。
「羊皮紙は高え。写字生を雇う金はもっと高え。だから村の連中は、残したいことを紙に書けなかった。じゃあどうしたか。――歌にしたのさ」
「歌、ですか」
「おう。畑の境も、井戸の掘り方も、先祖の名前も、節をつけて歌にした。歌なら餓鬼でも覚える。覚えた餓鬼が年寄りになって、次の餓鬼に歌う。紙は燃えるがな、坊主。歌は燃えねえ。歌ってのは、燃えない文書なのさ」
「でも、歌い間違えたら? 写し間違いみたいに」
いい質問だった。俺も匙を持ったまま、答えを待った。
「間違えるさ。人間だからな。だがな、ここが面白えところでよ」
親父さんは、指を一本立てた。
「写本の写し間違いは、ただの傷だ。だが歌の歌い間違いは、違う。婆さんが間違えて、母親がその間違いごと覚えて、娘に歌う。三代続きゃ、間違いはもう間違いじゃねえ。その家の節だ。書庫の連中は原本原本と騒ぐがね、歌にゃ原本なんてものはねえのさ。あるのは、誰の声で覚えたか、だけだ」
誰の声で覚えたか。
昨日の晩のあいつの言葉が、俺の頭の中で頁を繰った。母さんの版。特別製。うちのは、ちょっとだけ違ってた。
あいつも同じ頁を開いたらしい。匙を置いて、少し笑った。
「じゃあ、うちの母さんの歌い間違いも……」
「間違いじゃねえ。おめえの家の節だよ」
どうでもいい知識のはずが、どうでもよくない場所に刺さっていく。あいつは煮込みを忘れて聞き入っていた。俺は忘れなかったが、匙の速度は落ちた。
「家も同じさね」
親父さんは、そこで初めて、あいつの目を見た。
「家ってのはな、坊主。血の入れ物じゃねえ。約束の入れ物さ」
「約束の……入れ物」
「おう。誰かが誰かと、何かを約束する。守るとか、続けるとか、忘れねえとか。その約束が、屋根より長持ちしそうな時に、人は『家』って入れ物をこしらえる。血ってのはな、約束を運ぶ都合のいい船ってだけだ。船が主役じゃねえのさ」
「でも、それなら、約束を知らない俺は――」
「慌てるなって。入れ物ってのはな、中身を知らなくても持てる。おめえは現に八年、持って歩いてる。落とさずにな。中身の検分は、持ってるやつの特権だ。急ぐこたあねえ」
あいつの手が、無意識に腰の短剣に触れた。持って歩いてる、の一言が、どこに着地したかは明らかだった。
「じゃあ、うちの家の約束は、何なんでしょう」
「さあね。そいつは――」
親父さんの目が、あいつの腰へ落ちた。
鈴の短剣。カウンターの明かりで、柄頭の鈴が小さく光っている。親父さんの目は、その鈴の上で、一呼吸ぶん止まった。それから、店の奥の飾り棚へ――人形頭の杖へ、渡った。鈴から杖へ。杖から鈴へ。二年間ただの飾りだった二つの物の間に、今夜、目に見えない線が一本引かれた。
「そいつは、たぶん――」
言いかけて。
親父さんは、鍋の蓋を取った。
「――煮込みの底が焦げる前に、食っちまいな。話はそれからだ」
「え、あ、はい」
湯気が立ち、匙が動き、話は器用に食卓へ戻された。言いかけた言葉の続きは、湯気と一緒にどこかへ上っていった。俺は知っている。ああいう戻し方をする時の大人は、言葉を忘れたのではない。飲み込んだのだ。
それから小一時間、話は本当に食卓の話だった。
煮込みの追加、王都の飯との比較、ドヤールの興行の見物予定。あいつの一覧は、結局、卓の上に出たまま一項も消化されなかった。消化されなかったが、あいつは満足そうだった。「家=約束の入れ物」の一行が、十一項目ぶんの重さで、あいつの帳簿に載ったからだと思う。
その間に客は三組増え、うち一組は麦酒の親父で、入ってくるなり「白光の旦那、明後日の講談は最前列を取っといたぜ」と手配済みの報告をした。頼んでいない席が確保されていく速度が、この街の人情の速度である。もう一組は夜番上がりのゴルドー組の若い衆で、俺たちを見ると帽子を取り、少し申し訳なさそうに会釈した。灰色の客の伝言役を務めたことを、まだ気にしているらしい。気にすることは何もない、という意味で、俺は先に頭を下げておいた。伝言役に罪はない。罪があるとすれば、伝言の中身のほうである。
客が増え始め、俺たちは席を立った。
勘定を数えていると、親父さんが、ふと言った。
「坊主ども。明後日だったか、王都の調査ってのは」
「八日って聞いてます。四日後です」
「四日か」
親父さんは布で手を拭いた。たたみ直しは、しなかった。代わりに、まっすぐあいつを見た。
「一つだけ、先に聞いとくぜ。――その短剣の話、親父さんから聞いてるかい」
「……いえ。『いつか話す』って言ったきり、それきりです」
「そうかい」
それだけだった。
それだけの三文字が、店の鈴の音より長く、俺の耳に残った。
外に出ると、夜風が涼しい。あいつは星を見上げて、大きく伸びをした。
「約束の入れ物、か。いいこと聞いたな、ヨウタ」
「ああ」
「うちの約束が何か、調査の人たちが来る前に、少しでも分かるといいんだけど」
「……なあ、ジェスター」
「ん?」
「さっきの親父さんの質問だが。逆だと思わなかったか」
「逆?」
「『短剣の話を聞いてるか』。あれは、知らないやつの聞き方じゃない。――話の中身を知ってるやつが、こっちの在庫を確かめる聞き方だ」
あいつの足が、止まった。
振り返った鈴鳴り亭の看板の下で、扉の鈴が、遅れて来た客のためにちりんと鳴った。
「……親父さん、うちの短剣の話、知ってるのか?」
「確かめただけだ、向こうも」
そして向こうの在庫確認は、済んだ。俺たちが何も知らないという事実が、今夜、あの店のカウンターの内側に記帳された。次の一手を打つのは、どちらが先か。
四日後に王都の調査団。夜道に灰色の客。そして、言いかけて煮込みに戻った酒場の親父。
クラウン家の周りで、知っている者だけが、順番に黙っていく。




