【第三巻】第三章 鈴鳴り亭の夜(二)
若い衆が帰った後、宿の部屋は妙に静かだった。
クラウンという家を、知っているか。
灰色の客の質問は、あいつの頭上に雲のように残っていた。調査の一行が来るのは四日後。だがその前に、正体の知れない誰かが、同じ家の名を口にして、この街の夜道を足音もなく歩いている。帳簿係としては、そろそろ在庫の確認をしておきたい。在庫というのは、つまり、当主の記憶である。
「ジェスター」
窓辺で一覧を睨んでいた背中に、俺は声をかけた。
「店に行く前に、俺にも聞かせろ。お前の家の話」
「俺の? でも俺、知らないことだらけだって言ったろ」
「知ってることだけでいい。知らないことを数えるには、先に知ってることを数えるんだ。帳簿の基本だ」
「そうか。棚卸しだな!」
妙に嬉しそうに、あいつは椅子を引いた。自分の家について話を聞いてもらえること自体が、たぶん、嬉しいのだ。両親を亡くして八年、この話の聞き手を、あいつはずっと持っていなかった。俺は聞かなかった側の筆頭だ。八年も隣にいて、である。友人の家族の話というのは、聞く機会が無いのではなく、聞かずに済む言い訳が日々補充されるだけなのだと、この歳になって分かってきた。今日の言い訳の在庫は、灰色の客が全部持っていってくれた。妙な恩の売られ方である。
「じゃあ、最初から。父さんの名前は、パヴァン・クラウン」
「仕事は」
「木工師。村じゃ一番腕がよかった。玩具とか、楽器とか、細かい細工物が得意でさ。隣町からも注文が来てた」
「木工師が、剣を?」
「そう、そこなんだよな」
あいつは腕を組んだ。
「稽古は父さんがつけてくれた。構えも、足運びも、全部。騎士学校に入って分かったんだけど、父さんの教え方って、学校の教本と同じだったんだ。順番まで同じ。……村の木工師が、なんで正式の剣術を知ってたんだろうな」
「聞かなかったのか」
「聞いたさ。そしたら『いつか話す』って」
出た。いつか話す。クラウン家の家訓は、実質これなのではないかと思う。
「騎士学校は、どういう経緯で入ったんだ。あそこは金も要るし、推薦も要るだろ」
「村の推薦と、それから、父さんの知り合いの口利きがあった、って世話役が言ってた」
「知り合い。誰だ」
「知らない。会ったこともない。手紙一本で話が通ったらしい。言われてみれば、それも変な話だよな。村の木工師の知り合いの口利きで、王立の学校に入れるか?」
入れない、が常識的な答えである。粉屋の三男が猫の口利きで侯爵になった話はあるが、あれは猫が長靴を履いていた。手紙一本の知り合いというのは、長靴の猫より正体が分からない。俺は答えの代わりに、一覧の余白に十二番を書き足させた。十二番、父さんの知り合いは誰か。項目は増える一方で、答えはまだ一つも無い。
「母さんは、リラ・クラウン。歌の上手い人だった。村の祝い事じゃ、必ず母さんが歌ってた。家でもずっと歌ってた。……ほら、こないだの童歌も、母さんのだ」
「特別製のやつか」
「そう、特別製。あれさ、歌う時に決まりがあったんだ。寝る前に、俺の額に手を置いて歌う。途中で俺が寝ちまっても、最後まで歌う。一度、寝た振りして聞いてたことがあるんだけど、最後の方に、村の版には無い節があった気がするんだよな。半分夢だったから、自信ないけど」
「どんな節だ」
「覚えてない。ただ、自分の名前が出てきた気がした。歌の中に。寝ぼけてたのかな」
「子守唄なんてそんなものだろ。餓鬼の名前を入れて歌うのは、どこの母親もやる」
「だよな」
どこの母親もやる。言ってから、俺は自分の言葉を帳簿に載せ直した。俺の祖母も、たしかに俺の名を歌に混ぜた。だが決まった位置に、決まった節で、毎晩同じように、だったか? 思い出せない。思い出せないことは、無かったことの証明にはならない。保留の欄行きである。
それから、あいつは記憶の抽斗を順に開け始めた。俺は口を挟まず、帳簿だけ動かした。
曰く、家の玄関には鈴が下がっていた。客が戸を叩く前に、鈴を一度鳴らすのが決まりだった。
曰く、父は客が来ると、縁側で妙な「型」をやることがあった。剣の型ではない。手先と足さばきだけの、踊りのような、体操のような何か。子供のあいつが真似すると、父は笑って、頭を撫でて、それきり教えてはくれなかった。
「どんな型だ」
「ええとな、こう、右手で何かを放って、受けて、隠して……最後に、両手を開いて見せるんだ。何も持ってません、って感じで」
あいつが身振りで再現した。その手順を、俺は最近、別の場所で見た気がした。どこで見たかは、思い出せる寸前で止まった。止まったというより、俺の頭のどこかが、頁をめくるのを保留した。保留の欄は繁盛中である。繁盛しすぎて、そろそろ帳場が狭い。
曰く、年に一度、冬の初めの夜、父は一番いい服を着て、工房に一人で籠もった。灯りを一つだけ点けて、朝まで。何をしているのか、覗いてはいけない夜だと、母に言われていた。
「――一度だけ、覗いたんだ」
あいつの声が、少し低くなった。
「八つの冬だ。工房の窓の隙間から。……父さんは、机に短剣を置いて、その前に座ってた。それだけ。朝まで、ただ、座ってるんだ。短剣とさ、向かい合って。話してるみたいに見えた。声は聞こえなかったけど」
「鈴の短剣か」
「ああ。あの短剣を見たのは、あれが最初だ。普段は仕舞ってあったから。……次に見たのは、形見分けの時だった」
部屋の中に、夕暮れの色が入ってきていた。
俺は、卓の上の鈴の短剣を見た。あいつが腰から外して置いた、クラウン家の剣。柄頭に小さな鈴。刃引きされた、およそ実戦向きでない、しかし手入れだけは行き届いた古い刀身。二年前の魔獣の夜、静寂の円を歩けた唯一の音。
誰かと向かい合うための剣、という言い方が、妙にしっくり来る形をしている。
「形見分けの時さ、村の世話役が言ったんだ。『これはクラウンの家の物だから、お前が持て』って。俺、十二だぜ。短剣一本と、家の鍵と、それだけ持って寮に帰った。家は世話役が売って、学費に換えてくれた。……あの時は、それが当たり前の手続きだと思ってた」
「今は?」
「今は――思うんだ。家って、売れるんだな、って。建物は売れた。でも、さっきから俺が話してる『家』は、売れてない。売れてないのに、どこにも無い。変だよな。在庫の帳簿に、どう書けばいいんだ、これ」
帳簿の言葉で聞き返されて、俺は少し詰まった。
詰まったのは、俺にも同じ欄があるからだ。祖母が死んで、フェルマータの家を出た時、俺が持ち出したのは着替えと、竈の火の匂いの染みた毛布が一枚。毛布はとうに擦り切れて捨てた。捨てた日のことは覚えていないのに、竈の前で祖母が芋を転がしていた手つきは、今でも描ける。あれはどこの欄に載っているのか。資産でないことだけは確かで、しかし俺という帳簿の、たぶん一番古い頁に、消えない墨で載っている。
「……資産の欄じゃないな」
「じゃあどこだ」
「引き継ぎの欄だ。前の帳簿係から次の帳簿係に渡す、申し送りの頁がある。金にはならんが、あれが無いと帳簿は続かない」
「申し送り、か」
あいつは短剣を取り、柄頭の鈴を、指先でそっと弾いた。
ちりん、と小さく鳴った。
「……俺の申し送りは、この音と、母さんの歌と、『いつか話す』だけだ。頁で言ったら、三行だな」
「三行あれば十分だ。ゴルドーの月報はひと月三行だぞ」
「あはは。そうだった」
笑い声は、途中で燃料が切れた。
窓の外で、街の夕餉の煙が立ち始めていた。どこかの家の、誰かの家の煙である。あいつはそれを眺めながら、窓枠に頬杖をついた。
「なあ、ヨウタ」
「なんだ」
「もし、調査でさ。うちが、何かよくない家だったら、どうする」
「よくない家、とは」
「分かんないけど。ほら、係の人が固まったり、親父さんが黙ったり、知らないやつが夜道で家の名前を聞いて回ったりするんだぜ。普通の家に、そういうことは起きないだろ」
起きない、とは言えなかった。言えない代わりに、俺は最も事務的な声を出した。
「起きてから帳簿をつける。それまでは、仮の欄だ」
「仮の欄、か。そうだな。うん」
あいつは頷いた。頷いてから、小さく付け足した。
「でも、さ。どんな欄でもいいから――ちゃんと、知りたいんだ。父さんが『いつか』って言ったまま行っちまったこと、全部。よくない話でも、うちの話だ」
夕暮れの最後の光が、短剣の鈴を小さく光らせた。
知りたい、と言ったあいつの横顔は、武闘祭の決勝の朝と、同じ顔をしていた。




