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【第三巻】第三章 鈴鳴り亭の夜(一)

 穂月四日は、日常の在庫確認から始まった。

 一月も街を空けると、暮らしのあちこちに「留守」という名の埃が積もる。宿の部屋の黴の点検、装備の油、井戸端の挨拶、パン屋のツケの精算。英雄譚は謳わないが、生活は謳わなくても続いている。この手の細々を、あいつは「帰ってきた実感がする」と言って妙に嬉しそうにこなす。A級剣士が張り切って黴を拭く宿は、王国でもうちだけだと思う。

 パン屋ではマルグリット婆さんが焼き立てを一つずつ持たせてくれた。祝いだから銭は要らない、と言われ、あいつが押し問答の末に負けて、代わりに薪割りを一山引き受けた。A級の初仕事が薪割りである。俺は隣で二山割った。こちらは無級の通常業務なので、記録には残らない。残らないが、婆さんは俺の山にだけ、干し葡萄入りを一つ足した。世の中の帳簿には、ああいう付け方がある。

 午前の部の最後は、留守の手配の答え合わせだった。

 夜回りを頼んでいたゴルドー組が、報告に来たのである。ゴルドーは元・夜霧の帯の頭目で、今は伐採路と倉庫番の親方に収まっている髭面の大男だ。配下二十三人、全員堅気。転職から一年経つが、報告の様式だけは前職の名残で異様に几帳面である。

「夜回りの報告だ。ひと月ぶん、聞くか」

「頼む」

「初旬、異常なし。中旬、異常なし。下旬、犬が二匹喧嘩した。以上だ」

「ひと月が三行で終わったな」

「まとめる技術も夜回りのうちよ」

「犬の勝敗は」

「白いのが勝った。詳細は割愛する」

 割愛の基準が分からないが、夜回りの世界には夜回りの編集方針があるのだろう。来た、見た、勝った、の三語で戦争の報告を済ませた将軍がいたそうだが、あの将軍でも、勝敗の詳細までは割愛しなかったと思う。ついでに近況も聞いた。配下の二十三人は、鈴の点検人夫が五人、伐採路が八人、倉庫番が六人、残りは荷運びで、この一年、誰も古巣に戻っていない。ゴルドーはそれを、手柄でも何でもないという顔で言った。

「戻る理由がねえのさ。日銭が入って、夜眠れて、街の連中が名前で呼ぶ。山にいた頃は、名前なんて互いに呼ばなかったからな」

「そうか」

「おう。……で、ここからが本題だがな」

 ゴルドーは髭を撫でて、少しだけ声を落とした。本題を後ろに置く構文は、王宮の公文書と同じである。文章術というのは、身分を問わず後ろ暗いところに宿るらしい。

「三日前の晩だ。うちの若いのが、妙な客に道を聞かれた」

「道?」

「いや、道って言い方は正確じゃねえな。――『この街で、古い話に詳しいのは誰だ』と聞かれたそうだ」

「古い話」

「若いのは気を利かせたつもりで、鈴鳴り亭の親父を教えた。酒場の親父は生き字引だからな。間違っちゃいねえ。間違っちゃいねえが……後から考えると、あの客、礼も言わずに消えたとよ。夜道でな。足音がしなかったそうだ」

 足音がしなかった。

 俺の帳簿の灰色の頁が、ひとりでに開いた。トレモロの講談小屋で拍手をしなかった男。帳面に一行だけ書いて消えた灰色の外套。あれから七日。俺たちより足の速い「客」が、この街で古い話の在り処を尋ねている。

「人相は」

「それがな、若いのが言うには『思い出せねえ』と。見たはずなのに、灰色だったこと以外、頭に残ってねえんだと。……酔ってたのかね」

「かもな」

 酔ってはいないだろう、と思いながら、俺は礼を言った。顔が記憶に残らない技術なら、俺も商売柄多少は使う。だが他人の記憶からここまで綺麗に抜け落ちるのは、技術というより、もう少し性質の悪い何かだ。

「まあ、何かあったら鐘を鳴らすさ。鐘の文法は生きてる。三連打が火事、連続打ちが襲撃――」

「長打が弔い、だろ。覚えてる」

「おう。鳴らねえのが一番だがな」

 ゴルドーは笑って帰っていった。鳴らないのが一番。まったくの正論であるがゆえに、俺の保留の欄には、また一行増えた。

 午後、街が騒がしくなった。

 騒がしさの発生源は東門の方角で、聞き覚えのある大音声が風に乗ってきた時、あいつと俺は顔を見合わせた。

「――刮目せよ、モトリーの諸君! 王都の風が、貴様らの街に吹き込んだぞ!」

 ドヤール・マウンティ、モトリー入りである。

 東の街道へ別れたはずの講談師は、聞けば、東部の町を三つ巡業して南へ折り返してきたのだという。

「巡業はどうだったんです、ドヤール殿」

「うむ。一つ目の町では満場の喝采。二つ目の町では割れんばかりの喝采。三つ目の町では――色々あった。以上だ」

「三つ目だけ雑になったな」

「講談師にも編集権というものがある」

 後でリリにこっそり聞いたところ、三つ目の町では講談の最中に本物の喧嘩が始まり、客が全員そちらを観てしまったらしい。芸人の歴史書には、載らない頁のほうが多い。ガスは無言で頷いていた。頷きの意味は例によって不明である。

 で、モトリーに来た理由は明快だった。

「考えてもみろ、白光の地元だぞ。『仮面の挑戦者』が一番売れる市場は、ここに決まっとろうが」

「商魂だな」

「芸魂と言え、荷物係」

 呼び名が変わった。王都では「おい荷物」だったから、係がついた分だけ出世である。ドヤールの俺への呼称は会うたびに変わる。荷物、おい荷物、荷物係。出世の階段が全部荷物経由なのはどういうわけか。

「して、宿はどこに取った」

「これから探す。おすすめはあるか、荷物係」

「渡り鳥亭が空いてるはずだ。飯は普通、部屋は狭い、主人は無口」

「褒めてるのかそれは」

「静かに寝られるという意味では最高評価だ」

「よし渡り鳥亭にしよう」

 リリが眠ったまま頷いた。この一行の宿選びの基準は、結局のところ全員「眠れるかどうか」なのである。芸の道は体力の道らしい。

「ときにクラウン、貴様、明後日は空いてるか。広場で興行を打つ。地元の英雄には最前列で観てもらわんとな」

「明後日か……調査の人たちが来るのが、確か八日で」

「調査? 何の調査だ」

「それが、俺の家の記録を調べに、王都から」

「ほう。……ほう? 貴様の家?」

 ドヤールの眉が芝居がかって上がり、それから商売の目になった。

「――それは講談になるのか?」

「ならないでほしいんですけど」

「なる時は一番槍で頼む。約束だからな。覚えとけ」

 石碑との約束をこの男は律儀に引き継いでいる。講談師の取材網に入ったら最後、うちの家の話は太鼓つきで市場に出る。あいつは苦笑いし、俺は明後日の興行の最前列が確定していく音を聞いた。

 夕方、宿への帰り道で、塀の上の灰色に会った。

 陛下である。灰色の雄猫。モトリーの路地に君臨する態度の大王。陛下は塀の上から俺たちを見下ろし、あいつが「ただいま帰りました」と頭を下げると、返事の代わりに欠伸をした。長い欠伸だった。一月の不在など、陛下の治世では記録に値しないらしい。

「相変わらずだなあ、陛下は」

「変わらないのが仕事なんだろ」

 首輪の鈴が、ちりんと鳴った。一年前にあいつが付けた、あの鈴である。陛下は鈴を鳴らして塀を渡り、パン屋の煙突の陰に消えた。巡回の続きらしい。この街の平和の何割かは、あの態度のでかい巡回で保たれている、というのが子供たちの学説である。学説の当否はともかく、鈴の音が路地に残るうちは、この街は平常運転だ。

 宿に戻ると、あいつが窓辺で、例の一覧を眺めていた。

「親父さん、今夜も店だよな。……昨日の続き、聞けるかな」

「さあな。看板が早いかもしれん」

「じゃあ早めに行こう。飯も食えるし」

 単純明快な作戦である。俺は異論を挟まなかった。挟まなかったが、昨夜の親父さんの沈黙七秒と、足音のしない灰色の客と、王都から来る調査の一行とが、頭の中の同じ頁に並んでいくのを止められもしなかった。

 階下から、宿の主人の声がした。

「クラウンさん、お客さんだよ。――ゴルドーの親方とこの若い衆だ。何か、言い忘れたことがあるって」

 降りていくと、若い衆は帽子を握りしめて立っていた。夜回りの、あの晩の当番だという。言い忘れたこと、と促すと、若者は言いにくそうに口を開いた。

「その、灰色の客なんですが。道を聞かれた時、最後にもう一つだけ、聞かれてたのを思い出したんです」

「何を」

「――『クラウンという家を、知っているか』と」


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