【第三巻】第二章 凱旋の請求書(三)
鈴鳴り亭の扉には、鈴がついている。
押し開けると、ちりん、と鳴る。この音を聞くと帰ってきた気になるのだから、人間の「帰る場所」というのは、案外、音でできているのかもしれない。
昨夜は駄目だった。帰還初日の鈴鳴り亭は宴会場と化しており、麦酒の親父の樽が持ち込まれ、誰かが歌い、あいつは全卓を回って酌を受け、俺は聞くことの一覧を懐に入れたまま、一度も出せずに夜が更けた。積もる話は、積もったまま持ち越しである。
だから今夜は、早めに来た。
「おう、坊主ども。今日は静かだぜ」
カウンターの中で、バラッドの親父さんが杯を拭いていた。店には先客が二組だけ。樽もない。歌もない。鈴鳴り亭の平常運転である。
「昨日は世話になりました! 今日はゆっくり話したくて」
「ゆっくりな。ゆっくりは大歓迎さね。――で、何から話す気だい。優勝の自慢か、王都の飯の話か、それとも」
親父さんは杯を置き、俺のほうを見た。
「手紙の礼か」
「……全部です」
俺が言うと、親父さんはにやりと笑って、麦酒を三つ注いだ。三つ目は自分の分である。チップは酒で、を自分に適用できるのが店主の特権だ。
王都話は、あいつが九割を語った。
武闘祭の組み合わせ、無名戦という仮面の枠、準決勝の五十七合、決勝の六十七合、卿の剣、表彰式、それから――仮面の人。あいつの王都は、仮面の人を軸に回っていた。俺の王都も概ね同じ軸で回っていたのだが、回り方の詳細は営業機密である。
「五十七合ってのは、数えたのかい」
「数えてました。数えるつもりなんてなかったのに、体が勝手に。……変ですよね、あんなに必死だったのに、数だけ残ってるんです」
「変じゃねえさ。夢中の時ほど、人間は妙なもんを数える。俺も昔、大事な晩に限って、床板の節を数えてた」
「大事な晩って?」
「さあね。忘れた」
忘れた、が本当でないことは、言い方の丁寧さで分かる。本当に忘れた話を、人はあんなに丁寧に置かない。親父さんは相槌の位置が絶妙で、話は倍の速度で膨らんだ。酒場の親父というのは、聞く技術で酒を売る商売である。
「――で、その仮面の御仁は、名乗りもせずに消えたと」
「そうなんです。俺、あの人にもう一度会いたくて」
「会えるさ」
親父さんは、事もなげに言った。
「なんで分かるんです?」
「そういう手合いは、離れられねえのさ。舞台の袖ってのはな、坊主、舞台がよく見える特等席なんだ。一度あそこの見晴らしを知っちまうと、劇場からは出られねえ」
「……詳しいんですね、袖のこと」
「昔、劇場の掃除夫をやっててな」
嘘をつけ、と思ったが、俺は麦酒で言葉を流した。ボケを拾わないのは、この店の礼儀である。拾った瞬間、倍になって返ってくるからだ。
「そうだ、王宮でね、道化の人にも会ったんです」
あいつが身を乗り出した。話題の引き出しの開け方が、今夜は特に景気がいい。
「まだら服で、帽子に鈴が三つついてて。トリルさんっていうんですけど、その人がまた面白くて――王様にも敬語を使わないんですよ。道化の特権だって」
「ほう」
「無名戦の作法も、その人が仕切ってました。愚者の祭りの名残なんだそうです。ほら、親父さんが前に話してくれた、あの故事の」
「よく覚えてたな、そんな与太話」
「与太話じゃなかったですよ! 本物の制度になって残ってました」
「そりゃ何より。話ってのは、残る場所を選ぶのさ。書庫に残るのもありゃ、祭りの作法に残るのもある。酒場の与太に残るのが、一番長持ちするがね」
親父さんは軽く受けて、杯を拭いた。受け方はいつもどおりだった。ただ、まだら服、と聞いた時に一瞬だけ、布の動きが止まったのを、俺の目は記帳していた。止まった、と言い切れるかどうかの、瞬きほどの間である。俺は保留の欄に入れた。保留の欄は、近ごろ繁盛している。
手紙の話は、短かった。
俺が「二通とも、いい頃合いに着きました」と言い、親父さんが「そりゃ配達屋の手柄だ」と返した。それだけである。開封指定の一通が、どの夜に、どんなふうに効いたか。詳細は互いに省略した。省略できる相手とだけ、ああいう手紙はやりとりできる。
問題は、そのあとだった。
「実は親父さん、聞きたいことがあって。一覧にしてきたんです」
あいつが懐から紙を出した。十一項目の、あれである。親父さんは眉を上げ、面白がる顔で身を乗り出した。
「ほう、一覧ときたか。几帳面な趣味だね。読んでみな」
「一番、家紋の由来。うちの鈴の輪って、何なんでしょう」
「――」
「二番、鈴の短剣のこと。父さんが『いつか話す』って言ったきりの……親父さん?」
沈黙が、七秒続いた。
数えていた俺も俺だが、七秒は、酒場の沈黙としては長い。よその卓の笑い声が、急に遠くなるくらいには長い。
親父さんは、杯を拭く手を止めていた。目は、あいつの顔ではなく、その腰の――鈴の短剣のあたりに落ちていた。
「……親父さん?」
「ああ、いや。すまねえ、聞いてるよ。家紋と、短剣と、それから何だって」
「三番、じいさんの名前で……あの、無理にとは」
「王都でな」
親父さんは、あいつの言葉に被せるように言った。声はいつもの声だった。いつもの声すぎた。
「その一覧の中身、誰かに見せたかい」
「え? いや、ヨウタにだけ」
「そうかい」
「あの、それが何か」
「なに、大した話じゃねえさ」
大した話じゃない、と言う時の親父さんの癖を、俺は知っている。杯を拭く布を、たたみ直すのだ。今、たたみ直した。二度。賭場ではこれを「癖」と呼び、癖のある客は札より先に顔で負ける、と言われる。親父さんの手札が何なのかは知らないが、二年通って、今夜初めて、顔で負けるところを見た。
「――今日はもう看板だ。坊主ども、その一覧は懐にしまって、家で寝な」
「ええっ、まだ何も」
「クラウンの坊主」
親父さんの声が、半音だけ低くなった。
「昼間、ギルドに王都から文が来たろう。おめえの家の記録を調べに来る、ってやつだ」
「……なんで知ってるんです」
「噂の到着速度は公文書を上回る。この店の看板に聞きな」
鈴鳴り亭の噂網。留守の間の「文」の担当は、ここの常連たちだった。親父さんは俺たちの顔を順に見て、それから、店の奥の飾り棚に目をやった。
人形頭の杖が、いつもの場所に立てかけてある。道化の顔を彫った、古いガラクタ。俺がこの店で二年見続けてきた、ただの飾りである。
「一つだけ、教えといてやる」
親父さんは杖から目を戻さずに言った。
「その調査――断るなよ」
「断る、って。断れるものなんですか」
「断れねえ。だがな、断ろうとする馬鹿が、たまにいる。記録を調べられるのが怖くなってな。逃げたり、隠したり、燃やしたりする。そうすると、どうなると思う」
「どうなるんです」
「『調べられて困る家』の出来上がりさ。中身がどうであれ、な」
空になった俺たちの杯が、カウンターの上で引かれた。閉店の合図である。あいつは不満げに、しかし律儀に立ち上がり、俺は銅貨を数えて置いた。
「親父さん。一覧、今度こそ聞いてくださいよ」
「ああ。……そのうちな」
そのうち、と、いつか、は、大人が使う逃げ足の速い言葉の双璧である。あいつの父親の「いつか話す」を思い出して、俺は少し、嫌な符合を数えた。
店を出る時、鈴が鳴った。
扉を閉めながら振り返ると、カウンターの明かりの中で、親父さんが飾り棚の前に立っていた。
人形頭の杖に、手を伸ばしていた。
撫でた、のだと思う。埃を払うには、手つきが静かすぎた。二年通って、親父さんがあの杖に触るところを、俺は初めて見た。
夜道で、あいつが言った。
「親父さん、今日、変だったよな」
「変だったな」
「一覧の、どれかが駄目だったのかな。三番か? じいさんの名前、聞いちゃいけない名前なのか?」
「さあな」
俺は答えながら、頭の中で帳簿を開いていた。
沈黙七秒。布のたたみ直しが二度。視線の先は短剣。そして、二年間触らなかった杖に、今夜、触った。
項目は揃っている。揃っているが、合計の欄に書く言葉を、俺はまだ持っていない。
一つだけ確かなのは――あの調査の一行が運んでくるものを、親父さんは、俺たちより先に知っているらしい、ということだった。




