【第三巻】第二章 凱旋の請求書(二)
凱旋の翌朝というものは、祭りの片付けに似ている。
昨日あれだけ鳴っていた歓声は今朝はもう聞こえず、代わりに街は平常の音――荷車、パン屋の呼び声、時計塔の鐘――に戻っていた。人間の熱狂の持続時間について、俺は長年の観察から「一晩半」という実測値を持っている。武闘祭の優勝者ですら例外ではない。例外ではないことに、当の優勝者が安堵しているのだから、うちのパーティは平和である。
穂月三日の朝、ギルドの扉を開けると、受付台の上に紙の山が二つ、できていた。
右の山は白く、左の山は少しだけ古びて黄色い。ミエルさんはその二つの山の間に座り、俺たちを認めると、帳面を閉じて立ち上がった。
「おはようございます。では昨日の予告どおり――良い方と、悪い方です」
「あの、どっちの山がどっちですか」
「山はどちらも事務です。良い方と悪い方は、こちら」
制服の胸元から、封筒が二通出てきた。事務の山二つは前座ですらなかったらしい。あいつは唾を飲み、俺は一歩下がって観客席に入った。
「まず、良い方から。――王都、近衛騎士団長ソロ・アダマス卿より、クラウン様宛の私信です」
「えっ」
あいつの声が裏返った。
差し出された封筒は上質の紙で、封蝋には剣と塔の紋。あいつは受け取る前に上着で手を拭き、受け取ってからもう一度手を拭こうとして、封筒を持ったままでは拭けないことに気づいて固まった。世界で一番強い部類の男が、手紙一通で行動不能になっている。
「開けても、いいんでしょうか」
「宛名はクラウン様です。台帳的には、開封の権利者は明白かと」
開封の儀は、厳粛に執り行われた。厳粛に、というのは比喩ではない。気がつけばギルドの朝の客が全員こちらを向いており、掲示板の前の傭兵は帽子を取り、二階の手すりには職員が三人並んでいた。近衛騎士団長の私信の開封ともなれば、辺境では公開行事の格である。観客の期待を背に、便箋一枚。あいつの目が三往復して、四往復目で潤んだ。
「……読むぞ、ヨウタ。『貴殿の剣はその後も毎朝、私の隣で目を覚ましている。約束どおり手入れは私がしている。次に会う日まで、貴殿の腕がこの剣に負けぬよう祈る。追伸、王都の梨は今が盛りである』……だって」
「梨の報告は要るのか」
「要る! これが要るんだ!」
力説された。決勝で剣を預けるという最高の礼を交わした二人の間では、果物の時候の挨拶も剣の一部らしい。あいつは便箋を丁寧に畳み、胸の内側に仕舞った。今日から当分、あの手紙は本人の主要装備である。
「では――悪い方です」
ミエルさんの声が、一段だけ低くなった。
二通目の封筒は、白い方の山より白かった。真新しい公文書の白である。封蝋の紋を見て、俺の帳簿が静かに頁をめくった。王冠。昨日一昨日と、嫌というほど見た紋である。
「三日前、王都より公用馬で到着しました。宛先はモトリー支部長。ですが内容は、お二人に――正確には、クラウン様に関わります」
「読み上げていただいても」
「はい。……『王宮書庫の記録整理に伴い、クラウン家に係る記録の照会あり。近く調査の一行を当地へ遣わす。応接の準備を請う。王宮書庫司書長、アルヒフ』」
ギルドの朝の喧噪が、俺たちの周りだけ薄くなった。
「……俺の家の、記録?」
「文面のとおりです。それ以上のことは、この紙は言っておりません」
「調査って、何を調べるんでしょう。というか、うちに調べるようなものが」
「ございます」
ミエルさんは即答した。
「武闘祭の優勝者にして最年少A級。加えて――王都の登録所で、家紋の記入欄に係員が固まった、と聞き及んでおります。台帳的には、興味を持たれる材料が揃いすぎているくらいです」
「揃いすぎ……」
「率直に申し上げて、こういう照会文の『記録整理に伴い』という枕は、九割方、記録整理以外の理由がある時に使われます。役所の文章は、本当の用件ほど後ろに隠すか、書かないかのどちらかですので」
丁寧な言葉で王宮の作文技術を斬って捨てると、ミエルさんは封筒を台に置いた。この人の敬語は、たまに刃物より研がれている。
「そもそも『照会』とは何なんです」
俺は聞いた。聞かずにいられなかった。
「定義ですか。照会とは、記録と記録を突き合わせて一致を確認する手続きです。捜査とは違います。捜査は人を調べますが、照会は紙を調べます」
「紙を調べに、人が一行で来るんですか」
「……サイキ様。良い質問は、時に意地の悪い質問と区別がつきません」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めておりません」
照会は紙を調べる。だが紙の照会で済むなら、公用馬二騎と「一行」は要らない。文だけ寄越して写しを求めれば済む話だ。わざわざ人が動くということは、つまり先方は、紙の外のものも見に来る。たとえば、鈴の短剣。たとえば、当主本人。
俺は頭の中で、王都のあの夜の帳尻を検算した。表彰の翌日、宿に来た王家の使者。司書長アルヒフの来訪。王冠つきの原紋、塗り潰された家名、「鈴は、王冠より古い」。あの時点で照合は「継続」だった。継続していた作業が、一月足らずで「一行を遣わす」まで進んだ。書庫の老人たちの仕事の速度としては、破格である。誰かが急がせているか、あるいは――見つかったのだ。急がせたくなる何かが。
検算の結果は表情に出さない。出さない技術で、俺は今日まで食ってきた。
あいつは、公文書と卿の手紙を見比べて、眉を八の字にしていた。
「なあ、ミエルさん。これ、俺は何か、まずいことになってるんでしょうか」
「現時点では、何とも。ただ――」
ミエルさんは、そこで初めて事務の声を少し脇に置いた。
「記録を調べられて困ることのない家、というものを、私は職業柄一軒も知りません。どの家の台帳にも、書かれなかった行があります。ですから、困るかどうかは、先方が『どの行』を探しているか次第です」
「うちの、書かれなかった行……」
西の国のことわざに、どの家の戸棚にも骸骨が一つは入っている、というのがある。ミエルさんの言い方は、それを台帳の言葉に翻訳したものだ。骸骨より、書かれなかった行の方が、たぶん始末が悪い。骸骨は、少なくとも数えられる。
「ご本人が知らないのであれば、それを知っていそうな方に、先に聞いておくことです。調査の一行が着く前に」
あいつと俺は、顔を見合わせた。
知っていそうな方には、心当たりが一軒しかない。昨夜は積もる話だけで夜が更けて、聞くことの一覧は懐で眠ったままだ。十一項目の出番が、思ったより早く、思ったより剣呑な形で回ってきた。
「今夜、鈴鳴り亭に行きます」
「それがよろしいかと。――ああ、それからクラウン様。事務の山も忘れずに」
右の白い山がずい、と押し出された。A級への登録替えに伴う書類一式である。責務の同意書、緊急招集の受諾書、報酬等級の改定通知、装備補助の申請要領、後進指導の心得(冊子)、それから支部長への着任挨拶の日程表。仕様を列挙すると、A級剣士とは「書類上の重量が本人の装備より重くなる階級」と定義できる。あいつは書類の厚みに一度ひるみ、それでも律儀に一枚目から署名を始めた。
三枚目で、余談が一つ発生した。所属パーティ名の記入欄である。
「ヨウタ、うち、まだ名前が」
「『未定』で通ってるだろ、一年前から」
「A級の書類でも通るかな」
「ミエルさん、通りますか」
「前例がございませんが、前例になっていただければ通ります」
かくして王国のA級名簿には「パーティ名未定(三年目)」の一行が刻まれることになった。名前のない旗が王都で優勝し、名前のないパーティが公式記録に載る。うちの周りだけ、名前という制度が妙に軽い。軽くない名前の話が、今まさに向こうから歩いてきているのだが。
署名の途中で、ふと手を止めて、あいつは言った。
「……なあヨウタ。この欄、『家名』って書いてある」
「家名の欄なんて、どの書式にもあるだろ」
「うん。あるんだけどさ。今までは何も考えないで書いてた七文字が、今日は、なんだか知らない字みたいに見える」
クラウン、と書きかけのインクが、紙の上でまだ濡れていた。
知らない字みたいに見える、はたぶん正確ではない。知らなかったのは字のほうではなく、俺たちのほうである――と、そういう趣旨のことを、遠からず思い知らされる予感がした。予感の欄は、俺の帳簿では、外れた例の少ない頁にある。




