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第三章 接待RPG、開幕(二)

 最初に出てきたのは、腕だった。

 岩の裂け目を、内側からこじ開けるようにして、灰緑色の腕が突き出てくる。太さが俺の胴ほどある。続いて肩、頭。牙の隙間から蒸気のような息を吐いて、それは巣穴の入口を枠ごと砕きながら、日の下に這い出てきた。

 全高、大人三人ぶん。胸に古傷。右手に、木の幹をそのまま引き抜いたような棍棒。

 オーガ・ロード。オーガの群れを従える上位種が、群れも連れずに、単体で、ゴブリンの巣の底から出てきた。

 ありえない、と頭の隅が言った。オーガは高地の岩場に棲む。地下水脈の亀裂でも伝って落ちて、出口を探してここまで来たか。どちらでもいい。分析は後だ。

 観戦席の三人は、固まっていた。

「……なあガス、ありゃ図鑑の何頁だ」

「後ろの方だ。開けたくない頁だよ」

「リリ、矢は」

「効かないと思うっす。皮が、岩っす」

 問題は、配置だった。

 ジェスターが最前。その後ろに俺。岩場の観戦席に三人。逃げ場のない位置に、民間人が三人と、逃げない男が一人。

「――全員、下がれ!」

 ジェスターの声が飛んだ。恐慌一歩手前だったドヤールたちが、その声で我に返って岩場を滑り降りる。

「お、おい、あいつ一人で」

「ドヤールさん、走るっす」

「クソッ、覚えとけよ、この貸しは!」

 誰に向けた貸しなのかは不明のまま、三人は木立へ退がった。

「ヨウタ! お前もだ! 走れ!」

「お前はどうする」

「時間を稼ぐ。あの足の長さだ、背を向けたら追いつかれる。誰かが正面に立たないと、全員がやられる」

「なら二人で立つ方が」

「荷物ごと走れ! 規約第二条だ!」

 こんな時まで条文である。正しい。教本のように正しい。C級推奨の現場で、B級でも裸足で逃げる相手に、正しさだけで立つ気だ。

 俺は籠を下ろしながら、二秒だけ考えた。

 ここで俺が前に出れば、話は三十秒で終わる。オーガ・ロードは脅威だが、それは人間の物差しの話で、俺の物差しは三年前から目盛りが壊れている。だが、目撃者が四人いる。三年隠した力を、初クエストの昼下がりに公開するのか。あいつの「守らせてくれ」を、加入二日目で空にするのか。

 ――できるわけがなかった。

 三年前、視線が一歩手前で止まるあの感覚を、俺はまだ指の先で覚えている。あの目を、あいつがするところは見たくない。

 なら、裏方の仕事をするだけだ。幸い、俺の商売道具は最初から、誰の目にも映らないことである。

 オーガ・ロードが吼えた。空気が震え、木々から鳥が散る。初撃の棍棒が、ジェスターの盾をかすめて地面を割った。土と岩片が、雨のように舞い上がる。

 ジェスターは死んでいなかった。かすめる寸前に半歩ずれて、衝撃の外に体を置いていた。見事な足さばきだった。受けるな、流せ、と盾の教本は言う。言うのは簡単で、災害級の一撃を前に実行しているのは、大陸広しといえど今この一人だけだろう。

 だが、二撃目で盾の木が鳴き、三撃目で腕が痺れたのが、こちらから見て取れた。それでも下がらない。下がれば後ろの俺たちが射程に入ると、計算して立っている。

 よし。

 観察は済んだ。あの男は、逃げない。命の勘定を自分の不利になるようにしか使えない男だと、身をもって確認した。つまり、これから先、俺の夜なべは倍になる。

 ――悔やみの二回目を、あらかじめここに計上しておく。

 四撃目が振り上がる。棍棒が太陽を隠して、影が地面に落ちる。

 俺は動いた。

 工程は三つ。移動、処置、復旧。

 舞い上がった土煙の中へ、誰の視界にも入らない角度で入る。二歩。オーガ・ロードの膝裏、跳ぶ。首の後ろ、頸椎の継ぎ目、指の付け根で一点。骨の砕ける感触が一度だけあって、大陸の脅威区分で言えば「災害級」に片足をかけた生き物が、糸の切れた操り人形になった。

 ここからが本番である。

 倒れる方向を、肩で押して三度直す。昨夜「作動済み」に偽装した落とし穴の真上へ。巨体が穴の縁に踏み込む形を作り、岩の突起に側頭部が当たる軌道に乗せる。轟音。土煙、追加。仕上げに、ジェスターの盾がさっき弾いた岩片を一つ拾い、オーガのこめかみの傷に埋めておく。突進の勢いで落とし穴に踏み込み、体勢を崩し、岩で頭を打った――検死があってもそう読める配置である。

 所要時間、二秒半。経費、小石一個。大陸級の脅威の退治としては、歴史上もっとも安上がりな部類だと思う。誰にも請求できないのが難点だ。

 ついでに白状すれば、この二秒半の間、俺の頭の中では例の帳簿が開いていた。支出の部、小石一個、落とし穴一基(再利用)。収入の部、あいつの命。収支、大幅な黒字である。帳簿を手紙にする男の勘定は、今日も金額欄が壊れたままだった。

 なお落とし穴は、後で「作動済み」の顔に戻しておく。道具というものは、手入れが九割である。

 俺は土煙の外へ戻り、尻餅をついた体勢を取った。芸が細かいと自分でも思うが、細部を疎かにした芝居から破れるのが舞台の常である。

 風が、土煙を払っていく。

 静寂。

 巣穴の前に、オーガ・ロードがうつ伏せに倒れていた。片足を落とし穴に突っ込み、こめかみを岩の突起に預けて、ぴくりとも動かない。

 最初に声を出したのは、ジェスターだった。

「ヨウタ!」

 オーガではなく、俺のところへ走ってきた。優先順位が終始一貫している男である。

「無事か! 怪我は!」

「ない。転んだだけだ」

「よかった……!」

 肩を掴まれ、上下に確認され、それから初めて、あいつはオーガを振り返った。斜面からドヤールたちも降りてくる。四人が四人とも、死骸と落とし穴と岩の突起を、順繰りに眺めた。

「……おい」

 ドヤールの声がかすれていた。

「なんだよこれ。何が起きた」

「突進して、穴に踏み込んで、頭を打った……ように見えるな」

 ガスが検分の姿勢で言う。

「で、でけえ。なんなんだよこの化けもんは」

「オーガ・ロードだ。図鑑でしか見たことがないが」

「なんでゴブリンの巣から出てくんだよ!」

「地下の水脈でも伝って落ちたか。いずれにせよ、報告案件だな」

「報告って、誰が信じるんだ? ゴブリン退治に行ったら、オーガ・ロードが勝手に自滅してましたなんてよ」

「事実を書くしかないだろう」

「なあ荷物、お前も見てたよな。何が起きた」

「土煙で何も見えなかった。気づいたら転んでた」

「使えねえ……」

 使えない証人ほど使い勝手のいいものはない、というのが裏方業界の定説である。定説にしたのは俺だが。

 リリは眠そうな目のまま、死骸と俺を一度ずつ見た。順番が気になる一瞥だった。観察眼のある証人というものは、使い勝手が悪い。彼女の目が眠そうなのはたぶん瞼の話であって、目盛りの話ではないのである。

 ジェスターは盾を握ったまま、まだ呼吸を整えている。無理もない。四撃を正面で受けて生きているのだ。それだけで武勇伝である。本人はしかし、腐に落ちない顔で、割れた地面と自分の盾を見比べていた。

「俺は、弾いただけだ。あの岩片を、盾で」

「それが当たったんじゃないのか。こめかみに岩片が食い込んでる」

「当たった……のか? そんな手応えは」

「無我夢中だったんだろ」

 嘘は言っていない。解釈を売っているだけである。嘘と解釈の卸売の差については、いずれ然るべき筋から怒られる日が来るかもしれない。

 ようやく呼吸の整ったジェスターは、オーガの前に片膝をつくと、その額にそっと手を当てた。

「……戦って果てたわけでもないのに、妙な最期だったな、お前」

 敵に手を合わせる男である。騎士学校はこういうことまで教えるのだろうか。教えないと思う。

「とにかく、報告だ。討伐証明どころじゃない、現物ごと運ぶ。ヨウタ、荷馬車の入る道はあるか」

「東の伐採路。呼んでくる」

「一人で平気か」

「森は通勤路だ」

「馬車って何頭立てだよ。こいつ、何貫あると思ってんだ」

「四頭は要るな。……解体して運ぶ手もあるが」

「素材は傷つけたくない。オーガ・ロードの皮なら、盾の三枚は取れる」

「詳しいな、おい」

「素材学は必修だった」

 主席は伊達ではないらしい。話が早くて助かる。段取りの決まった現場というのは、それだけで半分片づいたようなものだ。

 夕陽が傾き始めて、死骸の影が岩場に長く伸びていた。

 ジェスターは、それでもしばらく黙り込んでいる。それから、ゆっくりと俺の方を振り向いた。

「なあ、ヨウタ」

「なんだ」

「今の轟音、何だったんだ」

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