【第三巻】第一章 南への道(二)
麦月二十五日の昼、トレモロの町に着いた。
フェルマータ村の隣町であり、俺にとっては十五の年の武術大会という古傷の現場であり、行きの道中では石碑という新傷を発見した因縁の土地である。念のため説明しておくと、石碑というのは俺のことだ。正確には「片付けの兄ちゃん」という、誰が呼んだか知らないが確実に俺のことである人物を讃える、膝丈の石である。三年前に俺が大会で剣を二本折った件は、噂の風化と再発酵を経て、今やそういう形に落ち着いていた。
落ち着いてくれるな、というのが持ち主の意見だが、石は意見を聞かない。
「ヨウタ、寄ってくか。例の石」
「なぜ寄る必要がある」
「行きに寄ったからな。帰りに寄らないと、片付けの兄ちゃんが寂しがる」
「石だぞ」
「石でもだ」
あいつの世界では、石にも人並みの社交がある。結局、俺は自分を讃える膝丈の石に、自分の手で野の花を供えるという、説明しがたい行事に参加した。自分の葬式を物陰から見物した悪童の話があるが、あの悪童でさえ、自分の墓に花は供えなかったはずだ。この行事の何が問題かといえば、石碑の前に、行きには無かった供え物が三つ増えていたことである。干し無花果、木彫りの剣、それから誰かの書き付け。書き付けには「兄ちゃんのおかげで納屋が建ちました」とあった。
俺は納屋を建てた覚えがない。
「見ろよヨウタ、慕われてるなあ、この兄ちゃん」
「実在するかも分からんやつをよく慕えるな」
「実在するさ」
あいつは断言して、花の向きを直した。
と、後ろから覗き込んだ男が、感に堪えたように唸った。ドヤールである。
「ほほう。土地の英雄の碑か。よし、俺様が講談にして――」
「やめておけ」
「なぜだ、おい荷物。無名の英雄こそ講談の華だろうが」
「無名のやつを講談にしたら、名前がついてしまうだろう。それは無名の英雄に対する営業妨害だ」
「……む。一理あるな」
「あるのか」
あると思って言ったわけではなかったので、通ってしまうと逆に困る。ドヤールは腕を組み、石碑に向かって真顔で一礼した。
「では兄ちゃんとやら、貴様が有名になった暁には、俺様が一番槍で講談にする。覚えとけ」
石に向かって宣戦布告する男と、石の社交を信じる男に挟まれて、当の石碑本人は、麦酒の残りの心配をしていた。この場の全員の中で、いちばん薄情なのが本人である。
「三年前の大会、俺は王都にいて見られなかったけど。剣が二本折れて、誰も怪我をしなかったんだろう? 偶然じゃそうはならない。誰かが、そうなるように立ってたんだ」
……時々、こういう精度で怖いことを言う。俺は聞かなかった帳簿に記入して、石碑に別れを告げた。石碑は何も言わなかった。石だからである。
宿は行きと同じ「山彦亭」を取った。ドヤール一行と過ごす最後の夜であり、つまり、騒がしさの決算日であった。
夕方、宿の広間で、ドヤールの凱旋講談が催された。催された、と受け身で書いたが、興行を仕掛けたのは本人である。宿の主人に「王都帰りの講談師が一席」と持ちかけ、酒代を賭けて広間を借り切った。度胸と厚かましさの区別は、俺には年々つかなくなっている。
「さあて諸君、王都武闘祭より帰還せし者、ドヤール・マウンティが語るは――」
前口上で、俺は嫌な汗をかいた。演目の候補に「トレモロの魔剣伝説」が挙がっていたのを、昼に小耳に挟んでいたからである。地元の伝説を地元で語るのは講談の礼儀だそうだが、その伝説の当事者が客席の隅で麦酒を持っている場合の礼儀については、どの流派も定めていないらしい。
俺は最悪の場合の段取りを三通り考えた。考え終わる前に、ドヤールが張り扇を打った。
「――『仮面の挑戦者』の一席よ!」
魔剣は演目から外れていた。後で聞いたら、「地元の伝説は地元の講釈師の飯の種。余所者が食うのは仁義に反する」だそうだ。こいつの仁義は、たまに人助けをする。
もっとも、安堵できたのは前半だけである。なにせ演目が演目だ。何処より来たりて何処へ去るを知らず、その棒は雷光、その足は静寂、正体は今もって誰も知らぬ――と来て、広間は大受けに受けた。受ければ受けるほど、麦酒の味が分からなくなる男が一人いたことは、講談の歴史に残らない。残らなくていい。
「いよっ、仮面の!」
「正体は誰なんだい!」
「それが分からぬから講談になる!」
ドヤールが見得を切り、拍手が波になった。あいつも、隣で手が赤くなるほど叩いていた。叩きながら、俺にだけ聞こえる声で言った。
「なあ、本物は今ごろ、どこで何してるんだろうな」
「……麦酒でも飲んでるんじゃないか」
「いいなあ。会ったら一杯奢りたい」
奢られている最中である、とは言えないのが俺の人生だ。
講談がはねた後、広間の卓で、ささやかな別れの杯になった。明日の朝、ドヤール一行は東の街道へ、俺たちは南へ分かれる。
「クラウン。次に会う時までに、俺様は講談で王都を獲る。貴様は剣で何を獲る気だ」
「決めてないな。獲るというより――届きたい人がいる、というのが近いか」
「ふん。仮面のか」
「仮面の人だ」
「言っておくがな、ああいう手合いは、追うと逃げるぞ。講談の登場人物と同じよ。舞台の袖から引っ張り出した瞬間、ただの人になっちまう」
「それでもいい。ただの人のあの人に、俺は会いたいんだ」
ただの人代表として、俺は枝豆の莢を積んでいた。芸のない返事だが、豆には罪がない。
リリが、眠そうな目のまま俺の莢の山を見て、ぼそりと言った。
「……積み方が、綺麗」
「そうか」
「几帳面な人は、隠し事も几帳面」
「……そうか」
この弓使いの寝言は、たまに矢より正確に飛んでくる。ガスは何も言わず、俺の杯に麦酒を注ぎ足した。無口な男の酌は、どういう意味でも受け取れるので困る。困りながら、飲んだ。
それから、拍手の波が引いた時のことを、話しておかなければならない。俺は広間の隅に、揺れなかった影を一つ見つけていた。
灰色の外套の男だった。卓に着き、杯を頼み、口をつけず、拍手をしなかった。講談の間じゅう動かなかったその男が、唯一身じろぎをしたのは、「表彰の壇に、仮面の男の姿は無かった」のくだりである。手元の帳面に、何かを一行書いた。それだけだった。
芸を聞いて拍手をしない客には二種類ある。芸を解さない客と、芸ではないものを聞きに来ている客だ。
男は杯に銅貨を残して、先に出て行った。口をつけなかった杯は、飲まなかったのではなく、最初から飲む気がなかったのだと思う。俺の帳簿の新しい頁に、灰色の項目が一つ増えた。旅の空で増える項目に、ろくなものはない。
夜、広間の騒ぎが引けた後の話である。
宿の裏手で、町の子供たちが遅くまで手毬をついていた。歌いながらつく、あの数え歌だ。地方が変われば歌詞が変わる、どこにでもある童歌である。
「――すずは、おうかんより、ふるい」
俺の手が、荷物の紐の上で止まった。
子供の声は続く。調子っぱずれで、無邪気で、意味など考えたこともない声だ。当然である。童歌の意味を考える子供は、子供の職務を果たしていない。
「懐かしいな!」
隣で、あいつが破顔した。
「それ、うちの村にもあったぞ。ほら、ヨウタも覚えてるだろ。ええと――鈴は、王冠より古い。音は、名前より……なんだったかな」
「長生き、だろ」
「そうだっけか? 俺の覚えてるのだと、確か……音は、名前より先に生まれた、だった気がするんだが」
「初耳だな。フェルマータの餓鬼は全員『長生き』で歌ってた。お前も入れて」
「そうか? いや、でも」
あいつは首をひねり、それから、ふ、と目元をゆるめた。
「――母さんの歌ってたのが、そっちだったのかもな。寝る前に、よく歌ってくれたんだ。村のと、ちょっとだけ違ってた。子供心に、うちのは特別製だと思ってた」
「特別製ね」
「ああ。だから俺は、うちの版で覚えてる」
手毬の音が、とん、とん、と続いていた。
童歌に家庭ごとの改訂版が存在する。母親というものは歌詞を間違え、間違いのまま子に伝わり、子はそれを特別製と呼ぶ。世間ではよくある話だ。よくある話として、俺はその晩、帳簿の隅にこう書いた。
――クラウン家の童歌、村の版と一箇所違う。
書いてから、我ながら何を記録しているのだと思った。だが消さなかった。俺の帳簿には昔から、消さなかった行ほど後で効くという、ろくでもない実績がある。
明日はドヤール一行と別れ、二人で南へ下る。
手毬の歌は、俺が寝つくまで、壁の向こうで鳴っていた。




