【第三巻】第一章 南への道(一)
鈴の音というのは、鳴り終わってからのほうが長い。
音そのものは一瞬で消える。だがその後に、聞いた人間の中で鳴り続ける時間があって、そちらの帳尻は誰にも計れない。王都の南門を出て半日歩いた今も、俺の耳の奥では、屋根の上のあの道化が鳴らした鈴が、ちりんと一つ、律儀に残業を続けている。残業代を請求される筋合いはないはずだが、耳の奥の帳場は俺の管轄外なので、支払いの交渉は棚に上げておく。
出立の朝の南門は、思いのほか賑やかだった。麦酒の親父が樽を叩き、予想教室の連中が旗を振り、三日月の櫂の主人は宿の帳面を胸に抱えたまま頭を下げた。一月足らずの滞在で見送りの列ができるあたり、あいつの人望というのは、貯めた覚えがなくても勝手に利息がつく種類の財産らしい。俺の見送りは、屋根の上の鈴が一つ。それで十分すぎるということは、誰にも言わない。
「――というわけで、だ。諸君、王都武闘祭とは何であったか。俺様は問いたい」
残業中の耳に、大音声が割り込んできた。
王都からモトリーへ帰る旅は、およそ十日の行程である。うち最初の二日はトレモロの町までドヤール一行と道連れになることが、出発前から確定していた。確定させたのは俺ではない。念のため言っておくが、俺ではない。
「あれは祭りに非ず。物語の鋳型よ。鋼は打たれて剣となり、男は打たれて講談となる」
「なるほどな。それで、打たれたのは誰なんだ」
「聞いて驚け、クラウン。俺様だ」
街道の真ん中で、ドヤール・マウンティは外套の裾を翻した。裾の翻し方に関しては王都でも指折りだったと思う。少なくとも本戦一回戦で敗退した男の裾には見えない。
あいつは――ジェスターは、真顔で三歩ぶん考えてから言った。
「ドヤール殿は二回戦までは行ったはずだが」
「言い直そう。二回戦で打たれたのが俺様だ」
「正確さが増したな」
「講談において正確さは二の次よ。大事なのは、どこで太鼓が鳴るかだ」
だそうだ。太鼓の位置に人生を懸けている男の足取りは、負けて帰る道とは思えないほど軽い。ちなみに一行の残り二名、斧のガスは黙って歩き、弓のリリは歩きながら器用に眠っていた。眠りながら歩けるのかと問われれば、俺はリリを指差すことにしている。実例は理屈より強い。
「して、クラウンよ。貴様の優勝の段だがな、あれは俺様の講談では第三幕に置く。文句はあるか」
「ないが……第一幕と第二幕は何なんだ」
「第一幕、ドヤール・マウンティ王都に立つ。第二幕、ドヤール・マウンティ雷鳴の如く散る」
「ドヤール殿の話が三分の二だな」
「講談とはそういうものよ。覚えとけ」
覚えたくない知識が、また一つ俺の抽斗に増えた。もっとも、優勝者を差し置いて主役を張る度胸だけは、王都の大舞台でも通用していたのだから、芸というのは厚かましさの別名なのかもしれない。
旅の顔ぶれを整理しておく。A級剣士が一名。その従者――もとい、荷物持ちが一名。講談師見習いのC級が一名。無口な斧が一名。歩く睡眠が一名。合計五名。戦力の総和で言えば街道の盗賊が裸足で逃げ出す編成だが、盗賊が本当に逃げ出す理由は、たぶん戦力ではなく騒がしさのほうだ。
「ヨウタ、荷物は重くないか。半分持とう」
「重くない」
「遠慮するな。王都で増えただろう、土産だの何だの」
「増えた分は俺が増やした分だ。自分の帳簿は自分で担ぐ」
「――そうか。なら、いい」
あいつは笑って引き下がった。この引き際の良さは、十年前から変わらない。人の荷物を勝手に奪って恩に着せる手合いとは出来が違うのである。ついでに言えば、あいつの背中には自分の荷と、月桂の環の入った箱と、旗の筒が既に載っている。人の荷物の心配は、それを降ろしてからにしてほしいものだ。
麦月二十三日の朝に王都を出て、今日は二十四日。空は晴れ、街道は乾き、南へ下る旅人の列は途切れがちで、つまりは何も起こらない、いい道だった。
何も起こらない、を俺は高く買う。
この半月、起こりすぎたからである。武闘祭、仮面、準決勝、決勝、表彰式、王家の使者。事件の目録を作れば巻物一本ぶんになる。事件の裏の目録なら、あと二本足してもらう必要がある。裏の目録は誰にも見せないが。
帰りの俺の帳簿は、だから平和なものだ。本日の項目。徒歩八刻、休憩二回、干し杏の消費一袋、ドヤールの講談三席、うち聞き流した講談三席。以上。数字が退屈であればあるほど、荷物持ちの仕事は上出来ということになっている。これは俺が決めた基準ではなく、俺が決めて俺だけが運用している基準である。世間の承認は求めていない。
「なあ、ヨウタ」
昼飯の後、街道脇の石に腰を下ろしたところで、あいつが言った。手には干し杏。荷の中の干し杏の残量は、俺の帳簿によればあと四日ぶんである。
「王都で、いろんなものを見たな」
「見たな」
「闘技場だろ、王宮の庭だろ、書庫の入り口だろ。あと、あの人の剣も」
あの人、の三文字に、周囲の空気がわずかに改まった。ソロ・アダマス卿。決勝で二十二年ぶりに本気を出したという近衛騎士団長のことを、あいつは帰り道でもう八回話題にしている。九回目が来る、と俺の勘が言った。
「あの籠手の返しは、あれは天与のものじゃない。積んだ稽古の形が、ああいう曲がり方をするんだ。俺もいつか――」
「着いたら道場でも開く気か」
「それも悪くないな!」
悪くないのか。話の腰を折ったつもりが、梯子を掛けてしまった。あいつの前で冗談を言うときは、実現可能性を先に検算しておく必要がある。冗談がそのまま五年計画になった例を、俺は少なくとも三つ知っている。
と、そこで、あいつが急に声の調子を落とした。
「――でもな。一番忘れられないのは、たぶん、剣じゃないんだ」
「ほう」
「仮面の人だ」
九回目はそっちだったか。
俺は水筒の水を飲んだ。飲みながら、顔の筋肉に平常運転を命じた。命令系統は正常に機能した。二年の訓練の成果である。
「準決勝で俺と打ち合って、それきり消えた。名前も顔も分からない。分からないのに、あの五十七合だけは、手の中に残ってる。……不思議だよな。名前が残らなくても、残るものは残るんだ」
「……そうだな」
「よし、決めた。モトリーに帰ったら、あの五十七合を毎朝の稽古に組み込む。相手はいないから、素振りでだ」
毎朝、俺は俺と打ち合う自分の残像を眺めて暮らすことになるらしい。岩を山頂まで押し上げては転がり落ちるのを眺め、また押し上げる男の話がある。あちらは神の罰だった。こちらは幼馴染の善意である。罰より、断りにくい。この件について俺に拒否権がないことだけが、世界の設計の不備だと思う。設計者に苦情を送りたいところだが、あいにく宛先の欄が空白だ。
「ヨウタも一緒にやるか? 型だけでも」
「遠慮しておく。朝は帳簿が混む」
「帳簿って、お前、うちの帳簿はそんなに複雑か?」
「複雑にする才能のある同居人がいるんでな」
「……? 褒められた気がしないが、まあいい」
気のせいではないので、その処理で合っている。
午後の街道は緩い登りになり、ドヤールの講談の練習が始まった。その前置きとして本人が語ったところによれば、そもそも講談の節回しは街道歌から生まれたのだという。曲がり角の数と橋の名前を歌に織り込んで、地図の読めない旅人が道を覚えた。道が歌になり、歌が物語になった。だから講談師は今でも、話の節目で「さて道は二手に分かれ」とやるのだそうだ。どうでもいい知識のはずなのに、妙に耳に残った。道と歌は、思ったより古い付き合いらしい。
で、演目は当然のように「仮面の挑戦者」であった。曰く、何処より来たりて何処へ去るを知らず。曰く、その棒は雷光、その足は静寂。曰く――
「――その正体は、今もって、誰も知らぬ!」
「知らぬ!」
ジェスターが合いの手まで入れている。本人の目の前で本人の伝説が量産されていく工程を、俺は荷物持ちの顔で拝聴した。世界広しといえど、自分の講談に相槌を打ちながら歩く男は俺くらいのものだろう。名誉なのか刑罰なのか、判定は保留する。
夕方、野営の支度をしながら、あいつがふと、旗の筒を撫でた。鈴の輪の旗。王都の職人が「猛獣じゃない一枚目」と笑った、あの意匠である。
「なあヨウタ、うちの家紋って、なんで鈴なんだろうな」
手が、一瞬止まった。俺のではない。世界のほうが、半拍だけ止まった気がした。
「考えたこともなかったんだ、ずっと。家紋なんて、あるのが当たり前で。でも王都で係の人があんなに騒ぐんだから、鈴の輪ってのは、何かの由来があるんだろう? 父さんは……教えてくれる前に、逝っちまったからさ」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
俺は、王都の書庫の抽斗と、塗り潰された頁の噂と、司書長の細い目を思い出していた。思い出した上で、口から出したのは一言である。
「――帰ったら、親父さんにでも聞いてみるんだな」
「バラッドさんか。そうだな、あの人、妙に何でも知ってるからな!」
あいつは明るく笑って、鍋の番に戻った。
鈴の音というのは、鳴り終わってからのほうが長い。
あの旗の鈴は、まだ一度も、本当の音を鳴らしていない気がした。




