【第二巻】第十二章 王冠の影(三)
王都最後の夜、あいつが妙なことを言い出した。
「ヨウタ。屋根に上がろう」
「……またか」
「またって何だ」
「モトリーでも上がっただろう、宴の夜に」
「だから上がるんだ。締めの場所は、揃えるものだろ」
締めの場所は、揃えるもの。あいつの中には、俺の知らない作法書が一冊あるらしい。あるらしいが、その作法書の言うことは、時々、妙に正しい。
三日月の櫂の屋根は、宿の主人が「先代も上がってました」と快諾してくれた。川船の船頭だった先代は、陸に上がってからも、時々屋根で櫂を漕ぐ真似をしていたそうである。退路の上の見物席には、先客の伝統があった。
屋根に上がる途中、階段の三段目が、今夜も鳴いた。最後の夜くらいは鳴かせてやろうと思って、俺は今夜も飛ばさずに踏んだ。……いや、正直に帳簿につけよう。この宿に来てから、俺は一度も三段目を飛ばしていない。飛ばす理由が、この街では最後まで、一度もなかったのである。いい宿だった。
瓦の上に並んで座ると、王都の夜が、足の下に広がった。
祭りの灯はもう半分に減って、その分、星が濃くなっていた。大闘技場の黒い環が、街の真ん中で静かに冷えている。十日間、六万人の声を受け止めた石の鉢は、今夜はただの、大きな月見の器だった。
祝杯は、果実水が二つと、麦酒が一つ。
麦酒はあいつの分である。一杯だけの、優勝の杯だ。
「――改めて。優勝と、A級昇格に」
「おう」
器を合わせた。ちん、と小さい音がした。鈴には遠いが、いい音だった。
あいつは麦酒を一口含んで、早くも赤い頬のまま、王都の灯を眺めた。
「長かったなあ、ひと月」
「長かったな」
「色々あったな」
「色々あった」
「まとめが雑じゃないか、ヨウタ」
「お前が先に雑にまとめたんだろう」
「そうだった」
二人で笑った。色々あった、で済むなら帳簿は要らない。要らないが、屋根の上の総括としては、あれで正しい。細目は胸の中に綴じてあるから、目次だけ読み合わせれば、それで済む。済む相手と屋根に座っている。それがたぶん、この旅でいちばんの黒字である。
「来た日のこと、覚えてるか。門で、お前の区分がなくて」
「忘れてない。俺は公式には『従者』だった。今日返してきたがな、あの札」
「返しちゃったのか。記念に貰えばよかったのに」
「木の札に思い出を預ける趣味はない」
嘘である。返す前に、焼き印の面を一度だけ指でなぞったことは、帳簿に載せていない。
あいつは笑って、それから、少し黙った。
黙って、麦酒の残りを見つめて、それから、言った。
「……なあ、ヨウタ。俺はやっぱり、あの人に、もう一度会いたい」
三度目である。
仮面の人はすごい、が一度目。ちゃんと会いたいって言う、が二度目。そして今夜が、三度目。同じ願いが、祭りの間に三度、形を変えて繰り返された。三度目の今夜がいちばん静かで、いちばん深いところから出た声だった。
「顔合わせも流れた。無名戦も終わった。あの人は消えた。でもな、不思議と、焦ってないんだ」
「焦ってない」
「うん。会えなくなった、って気がしないんだ」
あいつは、麦酒の器を両手で包んで、夜空を見た。
「準決勝の前の日から、ずっと考えてた。あの人の棒の構え、どこで見たのか。円の真ん中で貰った言葉、どうしてあんなに、まっすぐ入ってきたのか。……考えて、考えて、途中でやめた」
心臓が、瓦の上で、音を殺した。
「やめたのか」
「やめた。答えを出すのを、やめた。……うまく言えないんだけどな。答えの手前まで行ったら、急に分かったんだ。ああ、これは、俺が追いかけて剥がしていい仮面じゃない。あの人が自分で外してくれる日まで、待つのが礼儀だ――って。作法ってやつだ、たぶん」
仮面は、剥がすものではなく、外すもの。
詮索は御法度。剥がすのも御法度。祭りの作法を、あいつは誰に教わるでもなく、自分の胸で再発明していた。再発明の途中で、答えの手前で足を止めた。止めた理由が、礼儀ときた。
俺は、果実水を一口飲んだ。飲まないと、声が出そうだった。
「だから、決めたんだ」
あいつは、器を掲げて、王都の夜に宣言した。
「俺は、もっと強くなる。A級のその先まで行く。あの人が仮面を外して、胸を張って会いに来られるくらい――いや、違うな」
言い直して、あいつは笑った。
「――俺が、胸を張って『会いたかった』って言えるくらい、強くなる。それまで、この話はお預けだ。なあヨウタ、預けたものは、いつか返ってくるんだよな?」
預け賃の銅貨が、懐で小さく鳴った気がした。
「……ああ」
声は、思ったより普通に出た。
「返ってくるさ。この街の連中も、同じことを言ってた。預けておく、いいものを見つけたら、いいものをあげる、ってな」
「なら、安心だ」
あいつは麦酒を飲み干して、器を置いて、瓦の上に寝転がった。
「あの人にもう一度会いたい。――いつか、きっとだ」
「会えるさ」
俺は、言った。
言えた。仮面なしで、素顔のままで、夜空の下で。三年ぶんの言えないことの棚から、言えることを一つ、ちゃんと取り出して。
あいつは満足そうに目を閉じて、それきり、星を数える呼吸になった。
眠ってはいない。眠っていない呼吸の証拠に、しばらくして、ぽつりと付け足した。
「なあ、ヨウタ。俺の家の紋、鈴だったろ」
「ああ」
「鈴は、王冠より古い、って言ってたな、あの司書長の人」
「言ってたな」
「……俺は、王冠より、鈴の方が好きだ。王冠は頭に載せるだけだけど、鈴は、鳴らせる」
載せるだけの王冠と、鳴らせる鈴。
二百年前の塗り潰された頁が何を隠していようと、あいつの答えは、たぶんもう、これで決まっている。頁の方から歩いてくる日が来ても、あいつは鈴の側に立つだろう。立つ隣に、俺も立つ。予定表に書くまでもない予定である。
俺は隣で、荷袋の口をそっと確かめた。
底に、白木の面が畳まれている。目と口だけの穴の開いた、何の意匠もない、俺の鈴。返さなかった。返せば、無名の七は本当に消える。消さずに、持って帰る。あいつが胸を張って会いに来る日まで、あの面は、俺の荷の底で眠る。荷物がひとつ増えて、胸が、その分だけ軽い。釣り合いは、あいにく取れていない。取れていない帳簿を、今夜は、そのまま閉じる。
――翌朝、俺たちは南門を出た。
見送りは、賑やかだった。麦酒の親父と教室の連中、三日月の櫂の主人、旅装のミエルさんは一日遅れで発つといい、ドヤール一行は途中のトレモロまで道連れになった。曰く「雷鳴と白光の凱旋道中、講談の種に困らねえ」。騒がしい帰り道になることだけは、出発前から確定している。
門の手前の土産物の屋台で、あいつが急に足を止めた。
「ヨウタ、忘れるところだった。約束だ」
買ったのは、狐の面である。来る途中の宿場で、行きに買うと荷物になる、なら帰りだな、と交わした、あの口約束だ。あいつはこういう約束を、決して落とさない。狐の面は俺の荷の外側にくくりつけられ、荷の底の白木の面と、荷物一つ分の距離で、背中合わせになった。言うための面と、土産の面。俺の荷は、面の在庫だけ妙に充実して、モトリーへ帰る。
門の手前で、鈴の音がひとつ、聞こえた。
振り向くと、雑踏の屋根の上、まだら服が、三叉帽を揺らして座っていた。道化は何も言わず、右手を軽く挙げて――それから、自分の顔の前に手のひらをかざし、すっと外す仕草をした。
仮面を、外す仕草である。
またおいで、の意味か。次は素顔で、の意味か。どちらでも、返事は同じだ。俺は、誰にも見えない角度で、小さく頷いた。鈴の音が、ちりんと一つ、笑うように鳴った。
南門をくぐる。
ひと月前、俺はこの門で、名前の区分がなくて立ち往生した。今日は誰にも呼び止められない。A級剣士とその連れは、書式の上では、来た時よりずっと立派になった。書式に載らなかった分については――まあ、書式に載らないのが、俺の商売である。
街道の先で、あいつが振り返った。
「ヨウタ! 見ろ、王都があんなに小さい」
「ああ」
「また来ような。次は、もっと強くなって」
「ああ。また来よう」
俺も一度だけ、振り返った。
王冠のかたちの街が、朝の光の中で輝いていた。あの街には、名前が多すぎる。門にも、壁にも、椅子にも名前があり、名前のない者のための枠まで、ちゃんと名前がついている。
そして、この夏の祭りをひとつ越えて――
名前のない男が一人ぶん、この街には増えた。




