【第二巻】第十二章 王冠の影(二)
麦月二十二日の朝は、旅支度の匂いで始まった。
祭りが終われば、客は帰る。ドヤール一行は明日の朝、南へ発つという。ミエルさんの監査も今日で仕舞いで、帰りは俺たちと同じ街道を、一日遅れで戻るそうだ。俺たちの出立も、明日と決めた。A級の登録替えの書類は今日中に仕上がり、俺の従者札は返納、宿の精算は明日の朝。帰りの路銀の勘定を三度やり、三度とも同じ答えが出たので、旅の帳簿は健全である。祭りの後の街で健全な帳簿を持っているのは、たぶん俺たちと胴元だけだ。
そして昼、王宮の使いは、予告どおりに来た。
来たのは、昨日の使者団ではなかった。
三日月の櫂の食堂に現れたのは、白髪を綺麗に撫でつけた、小柄な老人が一人。供も護衛もなく、地味な濃紺の外套を羽織って、まるで隠居の散歩の途中のような風情だった。だが、俺は入ってきた瞬間に姿勢で分かった。あの背筋は、散歩の背筋ではない。宮仕えの背筋が、外套を着ているだけである。
「――ジェスター・クラウン殿とお見受けする」
「はい」
「王宮書庫寮の司書長を務めます、アルヒフと申します。本日は、内々の使いにて」
司書長。
使者でも騎士でもなく、書庫の長が来た。この人選の意味を、俺は卓の脇の従者の位置で、静かに計り始めた。
老人は席に着き、宿の主人の茶を丁寧に褒めてから、革の包みを卓に置いた。中から出てきたのは、二枚の紙である。
一枚は、見覚えのある写し。鈴を三つ、輪のかたちに並べた紋様。登録の日に、老係員が取った、あの別写しである。
もう一枚は――古い、羊皮紙の写しだった。色褪せた図案。輪のかたちに並んだ、三つの鈴。そして、その輪の上に、小さな王冠が載っている。
同じ紋である。王冠の有無を除けば、寸分違わず、同じ紋だった。
「単刀直入に伺います、クラウン殿。この紋を、どちらで」
「家伝の短剣の柄に、刻まれていたものです。……俺は、家の事情をよく知りません。物心つく前に、辺境の村に預けられたので」
「さようですか」
老人は、驚かなかった。驚かない、ということが、答えの半分だった。
「では、こちらの古い方の図案について、ご説明を。……これは、王宮書庫の、封印庫にある紋章台帳の写しです。二百年前の台帳の、最後の頁に載っております」
二百年前。
愚者の祭りが、まだ生きていた時代である。
「この紋の家名は、台帳では、墨で塗り潰されております。理由は不明。塗り潰した者も、不明。ただ、紋の脇に、当時の司書の手で、短い注記が一つだけ残っておりましてな」
アルヒフ司書長は、そこで一度、茶を含んだ。急がない。急がない語りが、聞く側の呼吸を絞っていく。書庫の人間は、間の取り方まで書物の頁めくりに似る。
「時に、賭け屋の相場では、クラウン殿の優勝は『大番狂わせ』だったそうですな。お気になさいますな。書庫の言葉では、番狂わせと書いて――『記録の側の誤記』と読みます。正しかったのは、貴殿の剣の方です」
絹で包んだ賛辞である。賛辞の絹の下に、賭け屋への針が一本、綺麗に入っていた。書庫寮、敵に回したくない部署である。
「注記には、こうあります。――『鈴は、王冠より古い』」
鈴は、王冠より古い。
こういう局面を言い表す四字熟語を、俺は寡聞にして知らない。知らないので、今、作った。「符合過多」である。出典は俺、初出はこの食堂、用例は目下の状況。捏造の熟語も、白状してから使えば、罪が軽い。
あいつは、写しと写しを見比べて、眉を寄せていた。
「すみません。意味が、分からない」
「われわれにも、分かりません」
司書長は、あっさりと言った。
「分からないので、調べます。それがわれわれの職分です。本日伺ったのは、その調べの許しを頂くため。クラウン殿の短剣の紋を、書庫の台帳と正式に照合する許可を――それと」
老人の目が、初めて、書庫の目から、宮廷の目に変わった。
「――陛下から、言伝を預かっております」
卓の空気が、変わった。
王の言葉である。決勝の日、貴賓席で立ち上がった、あの王冠の。
「陛下は、決勝を大層お慶びでした。仰せには――『良い祭りであった。二百年ぶりに、祭りが祭りの顔をしていた』と」
「二百年ぶり」
「はい。そして、こうも。……ここからは、陛下のお言葉のまま、お伝えします」
司書長は、居住まいを正した。
「『愚者の椅子に座った仮面の者に、会うことは叶わなかった。惜しいことをした。あれは、良い愚者であった。――愚者の祭りの古式では、祭りの終わりに、愚者の王が本物の王に、一つだけ本当のことを言う。その一言を、余は二百年ぶんまとめて、聞き損ねたままでいる』」
俺は、従者の位置で、茶器を片づける手を止めなかった。
止めなかった、と思う。少なくとも、音は立てなかったはずである。
王は、知っている。愚者の祭りの古式を。無名戦がその残り火であることを。そして、今年の愚者が、何かを言わずに消えたことを。二百年ぶんの「本当のこと」を聞き損ねている、という言い方は、教養の披露ではない。あれは――待っている者の言い方だ。
「言伝は、以上でございます。ああ、それと、これは司書長としての私見ですが」
アルヒフ司書長は、包みを仕舞いながら、世間話の調子に戻った。
「近頃、封印庫の周りで、埃の動きがよろしくない」
「埃、ですか」
「書庫の埃は、正直者でしてな。人が触れば、動く。触った覚えのない台帳の埃が、この半年で、二度動きました。二百年前の頁ばかりが、静かに読まれている。……われわれの他に、あの時代を調べている者が、この王都のどこかに、おるようです」
俺の背中を、細い冷気が降りた。
二百年前を調べる者。教団の楽譜の、まだ見ていない頁。ミエルさんの、七年前から流れ続ける宛先のない金。塗り潰された家名。鈴は、王冠より古い。
符合が、符合を呼んで、輪になっていく。輪の中心に何があるのかは、まだ見えない。見えないが、輪の縁に、あいつが立っていることだけは、確かだった。
「では、クラウン殿。照合の許可、有難く。結果は、追ってモトリーの支部へ文にてお報せします。急ぎません。書庫の仕事は、急がないのが取り柄でしてな」
老人は立ち上がり、外套を直し、それから、ふと思い出したように言った。
「時に、お連れの従者殿」
俺に、である。
「よく仕えておられる。……昨日の式典で、空の椅子を見ましたかな」
「ええ。遠目に」
「あの椅子はな、二百年前の古式では、王のすぐ隣に置かれたものです。愚者の席が玉座の隣にあった時代が、この国にはあった。――良い時代であったと、書庫の古い頁は言うております」
それだけ言って、司書長は、散歩の背筋に戻って、出ていった。
愚者の席は、玉座の隣。
あの老人が、最後の一言を、なぜ俺に向けたのかは、考えないことにした。考えない、という帳簿の科目が、この王都に来てから、ずいぶん太くなった。
卓の向かいで、あいつが写しを見つめていた。
「鈴は、王冠より古い、か。ヨウタ、これ、どういう意味だと思う」
「さあな。ただ――」
俺は、茶器を盆に載せながら、事実だけを言った。
「――お前の家の話が、二百年前の、塗り潰された頁に届いた。届いた以上、頁の方から、いつか歩いてくるだろうよ」
「歩いてくる、か」
あいつは写しを畳んで、大事そうに懐へ入れた。
「なら、その時までに、もっと強くなっておかないとな」
単純で、正しくて、そしてたぶん、いちばん怖い結論だった。
その夜、荷造りの合間に、俺は今回の巻の帳簿を中締めした。
貸方。A級昇格、一件。本物の勝ち、一件。無敗の騎士の二十二年ぶりの勝負、一件。南区の道場の療養、二名。祭りの平穏、概ね一式。
借方。三年の秘密の露見未遂、数回。規約第二条への違反、継続中。教団の関心、俺個人へ移行。王家の関心、あいつの家へ接近中。そして――塗り潰された二百年前の頁、一枚。
差引の残高は、出さないことにした。
出せば、たぶん、まだ借方が重い。重いまま、明日、俺たちは家に帰る。帰れるうちに帰るのが、旅の帳簿の正しい締め方である。




