【第二巻】第十一章 決勝(三)
灰色の外套は、三拍の間、俺を見ていた。
三拍の後、ゆっくりと一礼した。演奏会の終わりの、指揮者の礼だった。そして、関係者口の闇に溶けて、消えた。
追わない。
追えば、席が空く。今日の俺の仕事は、この席で最後まで観ていることだ。あの礼の意味も、「見つけた」の勘定も、全部、祭りの後に回す。後回しの棚に、また一つ荷物が載った。載せる棚が軋んでいるのは、気のせいだと思うことにする。
円の中では、五十合を超えた。
打ち合いは、常識の外に入り始めていた。決勝の観点は、もう合数では数えられない。俺は途中から、数え方を変えた。今日の計量は「熱」である。石の円の温度が、一合ごとに上がっていく。剣戟の火花の数ではない。六万人の呼吸と、二人の呼吸が、同じ拍子に揃い始めた、その摩擦の熱だ。鉢全体が、一つの心臓になりかけていた。
あいつの息は上がっている。卿の白銀にも、初めて汗が光った。二十二年、消耗の匂いのなかった男が、目の前の一戦で、惜しげもなく減っていく。減ることを、あの人はたぶん、二十二年、待っていた。
そして、五十三合目に、誰の目にも見える変化が来た。
卿が、兜を、脱いだのである。
打ち合いの間合いが切れた一瞬、白銀の兜が、無造作に円の外へ放られた。六万人が息を呑む。露わになった白髪まじりの頭、傷のない顔。その顔に――笑みが、あった。
「――クラウン殿。貴殿に、敬意を」
卿の声が、音響の鉢に乗って、隅々まで届いた。
「二十二年、この時を待った。挑む者は多くいた。だが、最後の一合まで俺を獲りに来る者は、貴殿が初めてだ」
あいつは、肩で息をしながら、笑い返した。
「……買い被りです、卿。俺はまだ、あなたの芯に、一度も届いてない」
「届く。この先の十合の内に」
卿は、剣を構え直した。構えが、変わった。今までの守りの山が、ほどけて、前へ出る形になった。
「ここからは、俺も獲りに行く。二十二年ぶりの、勝負である。――来い、白光」
鉢が、沸騰した。
そこから先の攻防を、俺は生涯の記憶に、一合ずつ綴じてある。
卿の剣は、山が雪崩に変わったようだった。二十二年の孤独が、全部、剣速に換わっていた。あいつは受けた。受けて、押されて、膝が一度、石を噛んだ。噛んだ膝で、あいつは前に出た。下がって立て直す型を捨てて、押される力を前進の燃料に変える、無茶苦茶で、あいつにしか出来ない拍子だった。
六十合。
この十合の間、俺は呼吸を忘れていた。忘れていたのは俺だけではない。六万人の鉢が、時々、思い出したように一斉に息を吸った。吸う音が、波のように石の斜面を降りていった。
攻防は、もう技の応酬ではない。二十二年と、十八年。二人の人間が積んできた時間そのものが、円の中で打ち合っていた。孤独の山頂で積んだ二十二年と、隣に誰かのいる場所で積んだ十八年。どちらが強いかを決める試合ではない。どちらも本物だと、互いに証明し合う試合だった。
六十三合目。
あいつの剣が、初めて、卿の芯を掠めた。胸甲の中央、心臓の上を、刃引きの剣先が、細く鳴らした。
卿が、笑った。声を出して、笑った。
二十二年ぶんの笑い声である。
そして、六十七合目。
決着は、一瞬だった。
卿の渾身の袈裟がけを、あいつは半歩の踏み込みで潜り、潜った勢いのまま、体ごと卿の懐に入った。剣と剣が交差し、鍔と鍔が噛み、力比べになる――と、誰もが思った刹那、あいつは力比べを捨てた。捨てて、手首だけを返した。
手首だけの返しに、渾身の袈裟がけの全重量が、行き場を失った。力比べを予期して固めた卿の握りが、予期の分だけ、遅れた。遅れは半拍。半拍あれば、あいつの拍子は、いつだって間に合う。
卿の剣が、宙に、舞った。
二十二年、誰も舞わせたことのない剣が、麦月の青空を、ゆっくりと回る。
回り切って、石の上で鳴った。
静寂。
旗が、上がった。
「――勝者! ジェスター・クラウン!」
その後の音を、どう書けばいいのか、俺は今でも語彙を持たない。
六万人が、一斉に立った。歓声というより、地響きである。鉢の底から空へ、音の柱が立った。教室が抱き合い、親父が吠え、ドヤールが「白光!」の音頭を取り、鉢の全部がそれに唱和した。リリが立ち上がって、両手で、長く、拍手をしていた。ミエルさんは――泣いてはいなかったが、帳面を胸に抱いて、目を閉じている。
円の中で、あいつと卿は、向かい合っていた。
卿が、何か言った。歓声で聞こえない。あいつが、何か返した。それも聞こえない。ただ、二人が同時に笑って、固い握手を交わすのは見えた。勝者と敗者ではなく、勝負を成立させた二人の、共犯の握手だった。
卿は、落ちた自分の剣を拾い、それを――あいつに、差し出した。
六万人が、また息を呑んだ。
後で知ったことだが、あれは近衛の最高の礼だという。己の剣を勝者に預けるのは、「我が剣は貴殿に届かなかった」の意味だそうだ。二十二年、誰にも渡されなかった剣が、辺境から来た十八の剣士の手に、確かに渡った。
あの人は今日、負けた。
負けて、たぶん、この二十二年でいちばん満ちた顔をしていた。無敗という名の空白の記録が終わり、代わりに、一つの勝負が記録された。負けることを許される場所を、あの人は、二十二年かけて、ようやく手に入れたのである。それを渡したのが、俺の幼馴染だった。
あいつは、両手でそれを受け取り、深く一礼して、返した。
返してから、何か言った。卿が目を見開き、それから、破顔した。
この問答の中身を、俺は夜に、本人から聞くことになる。曰く、あいつはこう言ったそうだ。「この剣は、預かれません。次にやる時も、あなたはこの剣じゃないと困る」――次、ときた。無敗の記録が終わった日に、次の約束を取り付ける。あいつの談判は、いつも、こういう寸法である。
貴賓席では、王が立ち上がっていた。
遠目にも分かる。手すりに両手を置き、身を乗り出して、円の中の二人を見ている。臨席の礼法がどうであれ、あの立ち方は、王冠の立ち方ではない。一人の観客の立ち方である。そして王の傍らの侍従が、何かを耳打ちされ、足早に階段を降りていくのが見えた。
その足の向かう先を、俺はまだ、気に留めていなかった。留めておくべきだったと知るのは、少し後の話である。
表彰の壇上へ呼ばれる前、あいつは観客席を見上げた。
西の中段。俺の席。
目が、合った。
あいつは、拳を突き上げなかった。代わりに、腰の鈴の短剣の柄に、そっと手を当てた。それから、手鐘の柄にも。
鳴らせる場所で、鳴らしてきた。
そういう報告に、見えた。俺は、頷き返した。頷きながら、視界の下の方が少し滲んで、勘定を間違えそうになったので、今日の涙の科目は「祭りの埃」で処理することにした。六万人が立って泣いている会場である。埃くらい、舞っている。
「――素晴らしい! 素晴らしいですぞ、皆さん! いま、王都の歴史が変わりました!」
隣の隣で、ドヤールが立ち上がって叫んでいた。
敬語である。
俺様の講談師が、生まれてこの方使ったことのない丁寧語を、興奮の頂点で誤射していた。ガスが二度見し、リリが目を丸くし、本人は三文ほど敬語で叫び続けてから、はっと我に返った。
「……違う。今のは違うぞ。歴史が変わった、だ。覚えとけ!」
「手遅れっす」
教室が爆笑し、笑いながらまだ半分泣いていた。ああいう決壊の仕方は、狙って出来る芸ではない。人間の器から中身が溢れる時は、いつもの注ぎ口からではなく、使ったことのない縁から零れる。
「よお、従者の兄ちゃんよお」
隣で、麦酒の親父が、洟を啜りながら言った。
「あんたの相棒、王都一になっちまったよ」
「ええ」
「寂しくなるかい」
「……いえ」
寂しくは、ならない。あいつが高くなるのは、いつものことだ。いつものことが、いつもより高いだけである。
「誇らしいです」
素直な言葉が、素直なまま出た。仮面なしで言えた自分に、俺は少しだけ驚いた。ドヤールの講談ではないが、負けた者だけが知る強さの形、というものがあるなら――負けた者だけが言える誇り、というものも、あるらしい。
と。
俺の視界の端、通路の階段を、場違いな一団が降りてくるのが見えた。
礼服。近衛の白銀とは違う、濃紺の礼装。胸に、王家の紋章。
王宮の使者団である。表彰の壇の方ではなく、まっすぐ、選手控えの口の方へ。
その先頭の男の手に、書状と――見覚えのある、小さな写しがあった。
鈴を三つ、輪のかたちに並べた紋様の、写しが。




