【第二巻】第十一章 決勝(二)
決勝の開演は、昼の鐘と同時だった。
観客席は、開門から半刻で埋まった。六万の席が、祭りの十日間で初めて、完全に満ちた。立ち見の帯まで人で膨れ、桟敷には貴族の礼服が並び、貴賓席の中央には、初日以来の王冠があった。王が、来たのである。
西の中段の定席で、俺は左右を確かめた。麦酒の親父。教室の生徒。ガスと、リリと、荷車を置いてきたドヤール。ミエルさんは、帳面を膝に、俺の右隣にいた。
「――役者が、揃いましたね」
ミエルさんが、静かに言った。揃った役者の中に、番外が二人いることを、この人の帳面はもう知っている。席に着くなり、俺は最小の語数で状況を渡してあった。等間隔が二つ。東の中段と、搬入口。ミエルさんは眉ひとつ動かさず、「配置は」とだけ聞き、「東はお任せしても」と俺が返し、「監査権限の使い所ですね」と頷いた。この人との共同作業は、事務の速さで進む。速い事務は、美しい。
俺の置き手紙への返事は、開門前に、鈴の音一つで届いていた。任せろ、という意味だと解釈した。道化の返事は、いつも音符一個ぶんしかない。実際、開演からこちら、トリルの口上はいつもより半歩、搬入口寄りの位置から聞こえている。あの道化の「任せろ」は、立ち位置で書いてある。
入場の口上が、始まった。
「東! 近衛騎士団長、ソロ・アダマス卿! 二十二年無敗、白銀の壁!」
地鳴りのような歓声。白銀の甲冑が、変わらぬ静けさで円に立つ。
「西! ジェスター・クラウン! 鈴の輪の旗、辺境より参りて七日、王都の空に五勝!」
歓声が、割れた。教室が跳ね、広場帰りの講談の客が「白光!」と叫び、その声が飛び火して、鉢の半分が「白光」を唱和した。あいつは、少し照れて、それから、旗に一礼した。
――試合が始まる前に、俺の仕事の話をしておく。
等間隔の足音は、二つとも、開演前に居場所が知れた。
一つは、東の中段、通路際の席。行商人の身なりで、荷を膝に抱えている。荷の抱え方で分かる。あれは商品ではない。道具だ。
もう一つは、搬入口の奥、樽の陰。設営職人の継ぎ着で、動かない。動かない職人というものは、この世に存在しない。
挟撃の形である。試合が山場に入り、六万の目が円に釘付けになった時、二つの音が同時に動く。狙いは円の中か、観客席か。どちらでも、結果は同じだ。決勝は壊れ、祭りは事故で終わり、教団は混乱の中で欲しいものを持ち帰る。
そうはならない。
今日の俺は、従者の定席で観戦する。観戦しながら、裏の帳簿を二枚、同時にめくる。三年間、モトリーの祭りの夜警で磨いた芸である。王都の決勝が相手でも、工程は同じだ。
旗が、振られた。
初合から、鉢が揺れた。
あいつの剣と卿の剣が、中央で噛み合い、火花が散った。二十二年の無敗は、噂の中の壁ではない。実物は、壁というより、山だった。打っても、打っても、崩れない。崩れないのに、卿の剣は攻めてもくる。守りの山と攻めの雪崩が、同じ体から出てくる。
だが、あいつも、退かなかった。
五合。ドヤールの届いた壁に、あいつは三合目で届いた。
十合。観客の誰かが「まだ立ってるぞ」と叫んだ。
二十合。叫びは、悲鳴に近い歓声に変わった。誰も見たことがないのだ。卿と二十合、正面から打ち合う剣士を。
「解説のガスさん、これは」
「……解説、できないっす。教本にない打ち合いっす」
ドヤールが、身を乗り出して唸った。
「見ろ、卿の踏み込みが深くなってる。あれは相手を測る足じゃねえ、獲りに行く足だ。……本気だぜ、あの人。二十二年ぶんの本気が、いま棚から降りてきてる」
リリが、ぽつりと言った。
「……卿、ちょっと、嬉しそう」
嬉しそう。たしかに、白銀の兜の奥の気配が、初日の静けさと違った。静けさの底で、何かが沸き始めている。挑む者のいない山頂に、二十二年ぶりに、登山者が来たのである。
俺は、円と、東の中段と、搬入口を、視界の三点に置いた。
動くなら、山場だ。山場はまだ先である。まだ来ない。まだ――
三十合目。
あいつの剣が、卿の袈裟がけを受け流し、返しの一撃が、白銀の肩当てを、掠めた。
鉢が、爆発した。
その爆発の中で、東の中段の行商人が、膝の荷を、解いた。
来た。
俺は、席を立たない。立たずに、隣のミエルさんに、耳打ちを一つした。ミエルさんは頷き、帳面を閉じ、通路側の係員へ歩いていった。監査人の権限というものは、こういう時、実に便利である。曰く、東の中段の通路際、賭けの不正の疑いあり、係員による荷の検分を要請する――
行商人の周りに、係員が三人、集まった。
荷は、開かれる前に、抱え直された。抱え直した腕が、震え始めた。検分ではない。中断だ。あの男の楽譜は「山場で荷を解く」の一節で書かれていて、中断の音符を持たない。楽譜にない音を処理する術も、あの体には入れられていないはずだ。処理できないまま、演奏だけが体の中で続く。行商人は、荷を抱えたまま、立ち上がり、通路を、等間隔の足取りで、出口へ向かって歩き出した。歩幅の変わらない退場だった。係員が追う。追われながら、あの男の震えは、腕から肩へ、肩から全身へ、広がっていった。
一つ。
搬入口の樽の陰は、俺の受け持ちである。
円の中では、三十五合目の打ち合いが始まっていた。六万の目が、一つ残らず、円の中にあった。つまり、六万の目のどれも、西の中段から搬入口へ緩く転がっていく林檎を、見ていなかった。
買い出しの林檎である。朝の目録の、四つ目の品目。
仕入れ値、銅貨三枚。あの継ぎ着の男が壊れ切った場合の療養の長さと、南区の道場の粥の炊き出しの手間を勘定に入れると、この銅貨三枚の投資効果は控えめに見積もって千倍を超える。……という費用対効果の計算を、俺は投げる前に一応やった。やった上で白状すると、計算の結果がどうであれ、投げた理由は別である。壊れていく音を、これ以上、聞きたくなかった。それだけだ。帳簿係の勘定は、時々、帳簿の外で決まる。
林檎は、桟敷の柱の根を二度弾み、樽の脇へ、ころりと止まった。
それだけである。それだけだが、等間隔の男にとっては、それだけではない。楽譜にない音が、足元に一つ、転がり込んだのだ。男の目が、林檎に落ちる。落ちた一拍、継ぎ着の肩が、揺れた。等間隔が、乱れたのである。
乱れた拍子は、連鎖する。調律された体は、外の拍子に従属する。従属する拍子が乱れれば、体の中の楽譜が、頁ごと乱れる。男は樽の陰で、自分の手を見た。手が、震えていた。震えを止めようと、男は手を握り、握った拍子がまた楽譜とずれ、ずれは背骨を駆け上がり――
男は、膝をついた。
自壊、である。
カデンツァの楽器の欠陥は、最初から一つだけだった。楽譜にない音に、出会わせればいい。師範代は、俺の目の前で、中断の音で切れた。あの構造は、量産品の全部に、同じ場所に入っている。壊すのに、力は要らない。要るのは、林檎一個と、置き所だけである。
人を助けながら止める頁が、俺の目録に、今日、一枚増えた。二人とも、壊れる前の、浅い場所で止めた。あとの療養は――南区に、粥のうまい道場がある。
二つ。
俺は、視線を円に戻した。
四十合目。あいつと卿は、まだ、打ち合っていた。
どちらの呼吸も、深く、熱く、生きて乱れていた。円の中には、楽譜がない。あるのは勝負だけだった。二十二年ぶりに、あの白銀の中で、何かが芽吹いていくのが、遠目にも分かった。
よし。
裏の帳簿を二枚とも閉じて、俺はようやく、ただの観客になる。
なった、その時である。
視界の右端で、何かが変わった。
最初は、光の加減かと思う。次に、隣の誰かが立ったのかと思った。どちらでもなかった。
貴賓席の脇の関係者口に、灰色の外套が、立った。
立って、円を見ず、観客席を見ず――まっすぐに、西の中段の、俺を見た。
距離、およそ百歩。雑踏も、歓声も、間にある。あるのに、フードの奥の声が、聞こえた気がした。あの夜とそっくり同じ、ゆっくりと動く、低い声が。
――見つけた。
と。




