【第二巻】第十一章 決勝(一)
麦月二十日。決勝の朝は、よく晴れた。
宿の食堂に降りてきたあいつは、いつもの顔で、いつもの倍の朝飯を食った。
「今日は決勝だ」
「知ってる」
「勝ってくる」
「知ってる」
それだけの会話だった。それだけで足りた。辞退の二文字は、卓の上のどこにもなかった。皿の上にも、あいつの目の中にも、もうなかった。
食い終わって、あいつは剣帯を締めながら、ふと言い添えた。
「昨日な、仮面の人に会った」
匙を持つ俺の手が、粥の中で一拍止まった。
「円の真ん中に立って、俺に言ってくれたんだ。……内容は、内緒だ。ただ、あの人の言葉で、分かったことがある」
「……ほう」
「俺の勝ちを、俺のものにできるかどうかは、これからの俺で決まるんだ。昨日までの勝ちの帳尻を、昨日の中で合わせようとするから、動けなくなる。帳尻は、今日で合わせる。今日勝てば、昨日の勝ちも生きる。そういう理屈だ」
理屈の筋は、会計的にはかなり乱暴である。乱暴だが、あいつの帳簿はそれで回る。回るなら、それが正しい簿記だ。
「なあ、ヨウタ。あの人、今日も観てると思うか」
「……観てるだろ。あれだけの騒ぎの種を撒いた張本人だ。刈り取りを見ずに帰る百姓はいない」
「そうか。観てるか」
あいつは、嬉しそうに剣帯の鈴を鳴らした。
「なら、いい試合をしないとな。あの人と、いつかもう一度やる時のために、今日の俺を上書きしておく」
いつかもう一度。その予約席の重さについては、今日のところは考えない。考えないと決めて、俺は考えないことに三割ほど失敗した。
「行こう、ヨウタ。今日は、最後まで見ててくれ」
「ああ。最後まで見てる」
今日の俺の席は、西の中段である。従者の定席。それでいい。今日の円の中は、あいつと、あいつの相手のものだ。
――闘技場の前の広場は、開門前から人で膨れていた。
その人だかりの中心で、聞き覚えのある声量が、朝の空気を割っていた。
「――寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 木戸銭は要らん、席も要らん、要るのは耳だけだ!」
ドヤール・マウンティ。準決勝で敗れた講談師が、決勝の朝の広場に、髙座代わりの荷車を据えて立っていた。
「本日これより打ちますは、新作にして真打ち、題して――『白光の段』!」
教室の面々が、既に最前列に陣取っていた。麦酒の親父が振り向いて、俺たちに手を振る。「またこの流れよ」と、その顔が言っていた。ドヤールの高座は、もう祭りの恒例である。恒例は、三度目から恒例と呼ばれる。この人だかりの半分は、たぶん講談が目当てで、もう半分は、恒例に立ち会うのが目当てだ。祭りの終わりの朝というものは、恒例の在庫が一斉に棚から出る。
ガスが荷車の脇で木戸口代わりに立ち、リリが荷台の隅で、今日は寝ずに座っていた。一座の全員が、今日の一席の重さを知っている配置だった。
だが、今日のは、違う。
一声目から、違った。
「――辺境に、男がいた」
声量ではない。声の、芯が違った。
「名はジェスター・クラウン。緑の目の――いや、空色の目の、鈴を提げた剣士である。俺様は、この男に負けた男である。ゆえに、この段を打つ資格がある。負けた者だけが知る強さの形ってものを、諸君、今朝のうちに耳に入れておけ。昼の決勝が、百倍うまくなるぞ」
広場が、静まる。
講談師は、外套を翻さなかった。二つ名も名乗らなかった。芸の衣装を全部脱いで、負けた男の声だけで、語り始めた。
モトリーの大猪の段。夜霧の帯の段。迷い猫の陛下を三日探した段まであった。教室の常連が合いの手を入れ、初見の客が「陛下って誰だ」と聞き、常連が「猫だよ」と答え、初見が「猫!?」とのけぞる。恒例の様式まで含めて、講談は回っていく。俺の知っている事実と、講談の誇張が、絶妙の配合で編まれていく。だが今日の誇張は、嘘の方向へ膨らまない。全部、真実の輪郭を太くする方向へだけ、膨らむ。
誇張で笑わせ、事実で泣かせる。講談師の配合は、今日、生涯の冴えを見せていた。
「――ここで諸君に問う! この男の強さは、どこから来るか!」
ドヤールは、荷車の上から、聴衆を見渡した。
「剣の速さか。否! 拍子の妙か。否! 俺様は負けた身だから知っている。あの男の強さはな――勝った相手を、一人も置き去りにしないことだ!」
声が、割れんばかりに響いた。
「グオルグは今、あの男の勝ちを誰より喜んで観に来ている! カザンは自分の敗戦を酒の肴に、方々で自慢して回っている! 南区の星は――」
一拍、置いて。
「――床の上で、粥を食いながら、今日の決勝の刻限を聞いたそうだ。行けない代わりに、勝てと言ったそうだ。倒した相手が、回復の一口目で応援に回る。そんな勝ち方をする剣士を、俺様は他に知らん!」
俺は、あいつの横顔を見た。
あいつは、泣いてはいなかった。泣いてはいなかったが、講談のあいだじゅう、一度も瞬きをしなかった。
「結びに一言! 本日の決勝、相手は無敗の騎士団長! 二十二年、負けを知らん白銀の壁! だが諸君、忘れるな――」
講談師は、息を吸い、その日一番の声で、打ち切った。
「――壁ってのはな、越えるためにあるんじゃねえ! 全力でぶつかって、砕けた奴の数だけ、高くなってきたんだ! ならば白光、貴様の仕事は一つ! 砕けに行くんじゃねえ、鳴らしに行け! 白銀の壁を、鐘みたいに、王都中に鳴らしてこい!」
喝采が、爆発した。
投げ銭が荷車に降り注ぎ、ドヤールは木戸銭は要らんと言った手前、全額を「白光の優勝祝いの前受金」として麦酒の親父に預けた。講談師の帳簿も、なかなかどうして、乱暴で正しい。
あいつは人垣を抜けて、荷車の下へ歩いていった。
「ドヤール殿」
「おう」
「……ありがとう」
「礼を言うな。負けた分の元を取ってるだけよ。貴様が勝てば、この段は名作になる。負ければ駄作だ。俺様の演目の出来は、貴様の剣にかかってる。……覚えとけ」
二人は、拳を合わせた。講談師の拳と、剣士の拳である。周りで教室が湧き、親父が泣き、ガスが頷き、リリが小さく拍手をしていた。
いい朝だった。
モトリーを出て、ひと月足らず。あの三人組と俺たちの帳簿は、貸し借りの線が絡まって、もうどちらが貸方か分からない。分からないままでいいのが、たぶん、旅の連れというものである。
いい朝の隅で、俺は一人分の帳簿を、静かに開いていた。
広場の人だかりの、外周である。
等間隔の足音が、二つ。
人混みの雑踏というのは、音の泥である。泥の中で、あの足音だけが、綺麗に拍を刻んでいた。歩幅の変わらない足音。祭りを楽しんでいない足音。一つは広場の北の縁を、もう一つは東の屋台の裏を、それぞれ等速で流れていた。
二つ。
南区の星は、一人だった。今日は、二つ。
そして、どちらの足音も、闘技場の方角へ向かっている。
無名の五の忠告が、耳の奥で埃を払った。雇い主の本命は、決勝の先だ。あんたが勝ち残った「後」に、用がある――俺は勝ち残らなかった。だが、教団の楽譜が白紙になったとは、誰も言っていない。楽譜は書き直されるものだ。それも、締切の朝に、大急ぎで。
視線を、広場の南の端へ滑らせた。
いた。
灰色の外套が、日陰の柱にもたれて、講談の人だかりを――正確には、人だかりの中心の白い外套を、静かに見ていた。フードの奥の目が、ゆっくりとこちらへ動き、俺の目と、合った。
合って、逸れない。
数拍、俺たちは雑踏を挟んで見合った。あの夜の言葉が、視線の中で反響した。あなたの音は、聞き取りにくい。……聞き取りにくいままだ、と俺は視線で返した。返事の代わりに、灰色は柱を離れ、人混みに溶けた。
挨拶、のつもりだろうか。それとも、予告か。
どちらでも、やることは変わらない。
俺は、講談の余熱で沸く広場を後にした。
従者の定席に着く前の買い出しの目録が、少しばかり増えた。一つ、闘技場の観客口と搬入口、全部の動線の最終確認。二つ、西の中段の周辺の席の顔ぶれの検分。三つ、北の小扉の奥への、短い置き手紙。宛先は口上役。文面は決めてある。「等間隔が二つ、そちらへ向かう。開演前に、耳を貸されたし」。
あの道化の耳なら、これで足りる。
足りることを祈りながら、俺は雑踏を縫って歩き出した。祭りの最終日が、頭の上で、大きく晴れていた。




