【第二巻】第十章 仮面の下(三)
宿に戻ると、部屋は空だった。
あいつの寝床は綺麗に整えられ、剣帯だけが、壁から消えていた。卓の上に、書き置きが一枚。「歩いてくる。昼までには戻る」。字は、いつもの字だった。いつもの字で書かれた、いつもでない外出である。
昼の鐘まで、あと一刻半。
俺は、荷袋を開けた。
底から、宛名のない手紙を取り出す。
封蝋の鈴の意匠が、窓の光の中で鈍く光った。モトリーの北門で、バラッドが言った開封の指定。着いた日でも、勝った日でも、負けた日でもない。どっちだか分からなくなった日だ。
昨日、俺は負けた。旗の上ではあいつが勝った。あいつは、勝ちを疑って、辞退を口にした。俺の負けは勝ちの形をして、あいつの勝ちは負けの味がして、二人分の帳簿のどこを開いても、勝ち負けの欄が読めなくなっている。
今日である。
どっちだか分からなくなった日は、間違いなく、今日である。
封を、切った。
中身は、一枚だった。バラッドの字が、いつもより大きく、たった三行。
――この手紙を開いたということは、勝ち負けの帳簿がひっくり返った日だろう。
――そういう日のために、鈴ってものがある。
――鈴を鳴らせ。お前の手で、お前の音で。相手の耳に届くところで。
鈴を、鳴らせ。
俺は、三行を、三度読んだ。
鈴。俺は鈴を持っていない。持っているのはあいつだ。鈴の短剣と、バラッドの手鐘。俺の持ち物は、銅貨と、札と、白木の面と――
面。
思考が、そこで止まった。止まった場所から、別の線が繋がり始めた。
旅立ちの朝、バラッドは言った。旅立ちに鈴を鳴らすのは、大昔は出席簿だった。音がした数だけ、生きて門を出たってことを、残った側が数えた。
鈴とは、音で存在を告げるものだ。姿ではなく、名ではなく、音で。ここにいる、と言うための道具。
そして、面の下で言った言葉ほど、よく届くと、あの登録係は言った。
トリルは言った。面は、隠すためにつけるんじゃない。言うためにつけるものさ。布団の中じゃ言えないことが、あるってことなのさ。
言えることまで、しまい忘れるな、とも。
……そういうことか。
バラッド。あんたという人は、ひと月も前から、こうなることが見えていたのか。見えていて、手紙一枚と開封の指定だけ寄越して、あとは俺に解かせたのか。酒場の親父の口出しは、いつも、こういう寸法である。詩と実務の中間で、しかも遅れて効く。
いや――見えていたのは、未来ではないのだろう。
あの人が見ていたのは、俺だ。隠す側に立ち続ける子供が、いつか、隠したまま身動きが取れなくなる日。その日に必要になるのは、説教でも助言でもなく、鳴らし方を思い出させる、短い一行。カウンター越しに三年、俺の畳み方を眺めてきた男の、これは処方箋である。
効き目は、抜群だった。
俺は立ち上がった。
言えないことの棚から、言えることを、探す。
あれは俺だ――は、言えない。今はまだ。言えば、あいつの三年ごと崩れる。
だが。
お前の勝ちは本物だ――これも、今のあいつには届かない。勝ちの定義が割れているからだ。
届く言葉は、たぶん、一つしかない。
勝ち負けの帳簿の外にある言葉。三年の噓に触れず、しかし三年の本当だけで出来ている言葉。仮面の男が、仮面のままで言える言葉。いや――仮面のままで言うからこそ、意味の生まれる言葉。
顔を隠しても、言ったことは、残る。
名を隠しても、音は、届く。
鈴とは、そういうものだ。面とは、そういうものだ。俺は今日まで、面を「隠すための壁」として使ってきた。今日、初めて、逆向きに使う。言うための、音を出すための、鈴として。
昼の鐘まで、一刻。
俺は白木の面を懐に入れ、部屋を出た。三段目の鳴る階段を、今日は、鳴らして降りた。
あいつの居場所は、考えるまでもなかった。
歩いてくる、と書き置きにあった。あいつが歩いて行き着く先は、この街に一つしかない。
大闘技場。
決勝を明日に控えた鉢は、設営の職人たちが桟敷を直し、旗を掛け替え、祭りの最後の一日のために動いていた。あいつは、観客のいない客席の最上段にいた。安い席。遠くて、風が強くて、祭りの日には真っ先に埋まる帯。いつか、声はあそこまで届くのかと聞いた場所である。
俺は、北の小扉から地下へ降りた。
控えの石の間で、面を着ける。
紐を結ぶ。視界が穴二つ分に狭まる。呼吸の音が近くなる。
言うことは、決めてある。長い口上は要らない。鐘は、一つ打てばいい。
俺は選手用の通路から、白い円に出た。
設営の音が、一瞬、遠巻きに止まった。愚者の椅子の敗者が、決勝前の舞台に現れたのだ。職人たちがざわつく。審判部の係が二人、通路から駆け出してくる。
その二人の前に、ひらりと、まだら服が舞い降りた。
トリルである。どこにいたのかは、聞くだけ無駄というものだ。道化は係たちに向かって、芝居がかった仕草で一礼し、それから声を張った。
「――お立ち会い! 無名戦の勝者には、祭りの終わりまで、円の上で一言の口上を残す権利がございます! 古式に則り!」
係たちが顔を見合わせる。そんな古式は、たぶん、ない。ないが、古式と言い張る道化の顔は完璧に本気で、係たちは互いの記憶を疑う方を選んだ。口上役が古式と言えば古式である。この街の仮面の周りの言い伝えは、ああやって一枚ずつ、増えてきたに違いない。
構わず、俺は歩いた。作法は破っていない。仮面は、闘技場の敷居の内でだけ、つける物である。ここは、敷居の内だ。
俺は円の中央に立ち、最上段を見上げた。
白い外套が、立ち上がるのが見えた。
六万の空席の中で、たった一人の観客と、たった一人の仮面が、鉢の一番遠い対角線で向かい合った。
二百年前の建築家に、感謝する。
この鉢は、囁きも剣戟も、等しく最上段へ配達するように出来ている。声を張る必要はない。普通に言えば、届く。そういう風に、石が切ってある。
俺は、息を吸った。
面の下で言った言葉は、外に漏れない。だが、面の下から言った言葉は――届く。
「――昨日の、五十七合に、噓はない」
俺の声が、静まり返った鉢の斜面を、まっすぐに昇っていった。
「途中の五十六合も、最後の一合も、俺の全部だ。あれより上は、俺にはない」
噓である。
噓だが、あの円の中の「無名の七」には、あれより上はなかった。無名の七の全部を、お前の剣は正面から折った。その限りにおいて、これは本当だ。仮面の言葉は、仮面の分だけ本当であればいい。
白い外套は、動かない。風だけが、最上段の旗を鳴らしている。
俺は、最後の一つを、打った。
「――お前の勝ちは、お前のものだ」
鐘は、一つ。
余韻が、鉢の中を回って、消えた。
俺は一礼して、身を翻した。
翻した足の先が、円の縁の白線の盛り上がりに、引っかかった。
二歩、たたらを踏んだ。三歩目で立て直した。無名の七、生涯最高の決め台詞の、三秒後の出来事である。設営の職人の誰かが、小さく噴き出す音がした。
……この分の帳簿は、つけないことにする。
引き止める声が届く前に、選手通路の暗がりへ降りる。降りる寸前、視界の隅で、最上段の白い影が、柵を掴んで身を乗り出すのが見えた。
何か、言おうとしていた。
聞かなかった。聞けば、足が止まる。止まった足は、たぶん、もう動かない。
通路の暗がりで、面を外した。
汗が、面の内側で光っていた。心臓は、まだ鳴っていた。鳴りっぱなしで、いい。今日の心臓は、鈴の仲間である。
遠くで、昼の鐘が鳴り始めた。
一つ、二つ、三つ。
鐘の音の間に、地下の廊下を駆けていく足音を、俺は聞いた気がした。石段を三段飛ばしで昇っていく、迷いの消えた足音を。
審判部の帳場は、地上の東側にある。
届けの紙が白紙のまま片づけられる音までは、さすがに聞こえなかった。聞こえなかったが、俺の帳簿には、聞こえた音として記帳しておいた。
たまには、希望的観測で記帳する日があってもいい。
帳簿係も、人間なのである。




