【第二巻】第十章 仮面の下(二)
トリルは、壁の上から音もなく降りてきた。
二階分の高さである。降りた、というより、置かれた、に近い着地だった。道化の芸は、時々、芸の範疇を超える。
「歩こうか、旦那。じきに水汲みの時間だ。立ち話は目立つ」
俺たちは、明け方の大路を歩いた。
道化と従者が並んで歩く構図は、傍から見ればさぞ珍妙だろうが、幸い、傍がまだ寝ていた。
「昨日は、いい試合だった」
「皮肉ですか」
「口上役は皮肉を言わない。言うのは、口上と、本当のことだけさ」
トリルは、三叉帽の鈴を指で押さえたまま歩いていた。鳴らさない歩き方である。この道化の敬意は、音の消し方で測れる。
「旦那。あんたの負けは、いい負けだった。あたしは口上役だから、円の中の噓は大抵見える。あんたの負けに、噓はなかったよ。あんたの棒は、ほんとうに折られた」
「なら、なぜ」
「なぜ、若様は壊れたか」
道化は、先回りした。
「簡単さ。若様が見てたのは、円の中じゃない。あんたの三年、だからだよ」
足が、止まりかけた。
「言ったろう。あたしは見抜くのが商売だ。あの若様も、たぶん、同じ病気の気がある。円の中の五十七合は本物だった。でも若様は、五十七合の向こうに、もっと長いものを見ちまった。見えちまったものは、旗が上がっても、消えない」
「…………」
「で、旦那。あんたはこれから、どうするんだい」
「分かりません」
正直に言った。正直というものは、燃料が切れた時に初めて出る排気に似ている。
「言えば壊れる。黙っても壊れる。……夜通し考えて、その二行から先に、頁が進まない」
「ふうん」
トリルは、屋台の骨組みの一つに、ひょいと腰掛けた。
「なら、定義から始めようか。旦那、『壊れる』って、何だい」
「何だとは」
「あんたはさっきから、壊れる壊れると言う。何が、どう割れたら、壊れたことになるんだい。あたしはものの定義にうるさくてね。道化ってのは、王様の言葉の定義がずれた時に、笑って直す係だから」
壊れる、の定義。
考えたことも、なかった。俺は夜通し、その言葉を割れ物のように抱えて歩いて、中身を一度も検めていなかった。
「あいつが、俺を信じられなくなること。三年が、全部噓だったと思われること」
「ほう。じゃあ聞くが」
道化は、膝の上で頬杖をついた。
「三年は、噓だったのかい」
「違う」
即答していた。
「噓じゃない。隠してはいた。だが、あの三年は――」
言葉が、出た。出てから、自分で驚いた。
「――あの三年は、俺の、ほんとうだ」
明け方の大路に、俺の声だけが落ちた。
トリルは、頬杖のまま、目を細めた。
「なら、壊れないよ」
「根拠は」
「ほんとうは、割れない。割れるのは、噓の殻の方だけさ。殻が割れる時ってのは、そりゃあ痛いし、派手な音もする。でもね、旦那。殻の中身が本物なら、割れた後に残るのは、中身だよ」
定義のうるさい道化は、俺の「壊れる」を取り上げて、分解して、別の形にして返してきた。受け取った形は、元の形より、ずいぶん軽かった。
「あなたの言葉は、いつもそうやって人を軽くするんですか」
「軽くはしないさ。荷物の持ち方を直すだけ。重さは、そのままだよ」
トリルは骨組みから降りて、それから、初めて聞く種類の、静かな声で言った。
「昔ね、あたしの先輩に、鐘みたいな道化がいた」
「鐘」
「そ。王宮の道化ってのは代々、王様に本当のことを言う係だ。でも、言い方は色々ある。あたしは笑わせて言う。あの人は――鳴らして言った。ここぞという時だけ、どんな叱責より深く響く一言を、鐘みたいに一つだけ打つ人だった」
鈴と、鐘。
どこかで繋がりかけた線を、俺は慌てて手繰った。手繰る前に、トリルは続けた。
「その人は、ある時、王宮を出た。理由は聞かなかった。聞かなかったが、最後に一度だけ、あたしに言ったよ。『道化の本当は、王様のためにある。だがな、トリル。いちばん深く鳴る本当は、たった一人のために打つ鐘だ』――ってね」
たった一人のために、打つ鐘。
俺は、腰の高さで鳴る二つの鈴と、カウンター越しに投げられた古い手鐘と、「鳴らせる場所で鳴らしな」の声を、順番に思い出していた。
「その人は、今」
「さあ。南の方で、酒場でもやってるんじゃないかね」
南の方で、酒場。
鈴鳴り亭の、大小七つの鈴が、頭の中で一斉に鳴った。開店以来一度も音程の揃わない、あの鈴たちが。
トリルは、俺の顔を見て、何も言わなかった。言わないことが、答えの形をしていた。
「――さて、旦那。夜が明ける。あたしは開門の口上がある」
道化は伸びをして、三叉帽の鈴から指を離した。ちりん、と音が戻る。
「最後に、口上役として一つだけ。今日の決勝、若様が辞退の届けを出すなら、刻限は昼の鐘までだ。それを過ぎれば、名簿は確定する。ま、これはただの、事務の話だけどね」
「事務の話、どうも」
「それと、これは道化の話」
トリルは、俺を振り返った。
「昨日の夜、審判部の帳場で、若様を見た。届けの紙を前に、半刻座って――書かずに、帰った」
書かずに、帰った。
審判部の帳場の灯りの下で、届けの紙を睨んで半刻。あの背中の形が、見なくても見えた。
「迷ってるんじゃない。あれは、待ってるんだよ。誰かが何かを言うのを。誰が何を言えばいいのかは、あたしの口上の範囲じゃない。範囲じゃないが」
道化は、自分の胸を、とん、と叩いた。
「――鳴らしていいかい、旦那。一度だけ」
「何をです」
「あんたの背中の鐘。まだ鳴らし方を思い出せない様子だからね、代わりに一度だけ、音の見本を」
トリルは、息を吸って、明け方の大路の真ん中で、口上役の声でもなく、道化の声でもない声で、言った。
「――言えないことは、言わなくていい。でもね、旦那。言えることまで、言わずに死蔵するのは、倹約じゃなくて、ただのしまい忘れだ」
言えることまで、しまい忘れるな。
鐘は、一つだけ鳴って、消えた。
道化は身を翻し、鈴を鳴らしながら、目覚め始めた大路の向こうへ歩いていった。まだら服が朝の光に溶けて見えなくなるまで、俺は、その場に立っていた。
宿への帰り道、角の井戸の前で、水汲みのミエルさんと行き合った。
この人の朝は、出張先でも正確である。桶を二つ、天秤棒で担いで、朝日の中で罫線のように立っていた。
「サイキ様。早いですね」
「……散歩です」
「そうですか。散歩の帰りに、少し、荷物を持っていただけますか」
桶を一つ受け取って、俺たちは並んで歩いた。しばらく、水の揺れる音だけがした。先に口を開いたのは、ミエルさんだった。
「――昨日の夜、監査が一段落しました。例の、三重の迂回の金。四重目の壁の向こうが、少しだけ見えました」
「見えた、というのは」
「会計院の、封印された古い帳簿に繋がっています。……ここから先は、監査の話ではなく、私の話です」
桶の水面が、朝日を細かく割った。
「七年前、私は会計院で、王家の出納を検算する係でした。ある年、支出の柱の一本に、宛先のない金を見つけました。名目はあるのに、実体がない。実体がないのに、毎年、決まった月に、決まった額が流れていく。……私はそれを、数えました。数えて、上申して、翌月、辺境への転属辞令を受け取りました」
「数えてはいけないものを、数えた」
「はい。あの時は、何の金かも分からないまま、数えただけで飛ばされました。今回の監査で、同じ癖の迂回に再会しました。宛先のない金は、七年経った今も、同じ月に、同じ様式で、流れ続けています。そして、その様式が――教団の賭け金の様式と、同じ手癖なのです」
王家の中の、宛先のない金。教団と同じ手癖。
七年前から流れ続ける、誰も数えてはいけない支出。
「……それは、つまり」
「まだ、何も『つまり』には至りません。監査人は、証拠の揃わない『つまり』を口にしない生き物です。ただ――」
ミエルさんは、井戸の角を曲がる手前で、立ち止まった。
「――あの時数え残した数字を、今度は、最後まで数えます。そのために、七年、数える腕を磨いてきましたので」
罫線の目が、まっすぐ前を向いていた。この人の帳簿にも、開かずの抽斗があったのだ。そして、この人は、抽斗を開ける鍵を、七年かけて自分で削ってきた。
「桶、ありがとうございました。サイキ様」
別れ際、ミエルさんは、いつもの敬語のまま言った。
「言えないことと、言わないことは、台帳の上では別の科目です。仕分けを、お間違えなきよう」
言えないことと、言わないことは、別の科目。
道化と同じことを、帳簿の言葉で言われた。
言えないこと。言えること。
俺の帳簿の仕分けが、根本から間違っていたのだとしたら。
全部を「言えないこと」の棚に積んできた三年の在庫の中に、言えることが、混ざっていたのだとしたら。
――探せ。
昼の鐘まで、まだ少しある。




