【第二巻】第十章 仮面の下(一)
眠れないまま、未明になった。
あいつの寝床からは、浅い呼吸が続いていた。眠っていない人間の、眠ったふりの呼吸である。ふりを見抜いた側も、起きているふりの起きている側で、つまりこの部屋には、夜通し、嘘が二つ並んでいた。
俺は音を立てずに部屋を出た。
三日月の櫂の階段は、三段目だけが鳴る。三年前からの癖で、俺は三段目を飛ばした。飛ばしてから、飛ばす必要のない夜だと気づいた。誰も、俺の外出を数えていない。
外は、まだ暗かった。
祭りの九日目の未明。大路に人はなく、屋台の骨組みだけが、灯の消えた影で並んでいた。
俺は歩いた。
夜明け前の王都は、祭りの化粧を落としている。昼間は見えない物ばかりが見えた。桟敷の下に畳まれた古い敷物。屋台の裏の、潰れた果実の山。石畳の隙間で眠る犬。祭りというものは、こういう物たちの上に、毎朝、建て直されている。裏方の目は、こういう時ばかり、よく利く。利いてほしくない夜に限って、よく利く。
あてはなかった。あてのない歩きというものを、俺はたぶん、三年ぶりにやった。俺の歩きには、いつも用件がある。買い出し。偵察。仕込み。回収。用件のない足は、どこへ向かえばいいのか分からないまま、それでも交互に前へ出た。
灯の消えた屋台の列を過ぎ、旗職人の閉じた店の前を過ぎた。軒先に、仕上がりを待つ旗が何枚も掛かっている。決勝の日の分だろう。どの旗も、暗がりの中では、ただの黒い布だった。旗というものは、光の下で、見上げる者がいて、初めて旗になる。
俺の旗は、どこにもない。
最初から、作らなかった。作らないことを、選び続けてきた。選び続けてきた結果が、この未明の路上である。
気がつくと、闘技場の外周にいた。
黒い石の環が、星のない空を、丸く切り抜いていた。
昼間、この中で、俺は負けた。
負けて、あいつを壊した。
壁に手を当てる。石は冷たかった。二百年、音を運び続けた石である。昨日の五十七合の音も、あいつの「会いたかった」も、この石のどこかに、染みて残っているのだろうか。
守るつもりだった。
最初から、最後まで、守るつもりしか、なかった。
三年前、俺は力を隠すと決めた。怖がられたくなかったからだ。それだけの、子供の理由だった。
十年前の朝を、覚えている。
八つの俺と、九つのあいつ。フェルマータ村の街道の入口で、あいつは王都行きの荷馬車に乗った。騎士学校に行く。強くなって帰ってくる。そしたらヨウタ、一緒に冒険だ。
荷馬車の上から、あいつは手を振り続けた。見えなくなるまで振っていた。
俺は振り返さなかった。振り返す代わりに、道端の石を、川まで運んで捨てた。馬車の車輪が跳ねた石だった。次の馬車が、跳ねないように。
八つの俺は、もう、そういう子供だった。
見送りより、石を拾う方を選ぶ子供。あの朝から俺の帳簿は始まっていたのかもしれない。誰にも見えない場所の、誰にも頼まれていない仕事の、長い長い台帳が。
あいつが村に帰ってきて、俺の隣に立って、俺は決めごとを一つ増やした。あいつの邪魔をしない。あいつの光を、俺の影で汚さない。
モトリーで、決めごとは仕事になった。夜業。間引き。お膳立て。あいつの英雄譚の裏で、理不尽だけを処理する係。誇りに思っていた。誰にも見えない仕事を、誰よりも丁寧にやることが、俺の性に合っていた。
王都に来て、俺は仮面をつけた。
仮面の下でなら、隠したまま、守れると思った。
思って、この様である。
守る技術が、あいつの誇りを折った。
三年間、一度も間違えなかった帳簿が、いちばん大事な頁で、いちばん大きく間違えた。いや――違う。
間違えたのは、帳簿ではない。
前提だ。
俺はずっと、あいつを「守られる側」に置いて、勘定を立ててきた。あいつの強さは本物で、俺が処理するのは人間の外の理不尽だけ。その線引きを、俺は一度も疑わなかった。疑わないまま、線のこちら側で、勝手に負けて、勝手に渡して、勝手に、守ったつもりになった。
あいつは、守られたかったのか。
一度でも、聞いたか。
聞いていない。
三年間、一度も。
いや――。
聞いては、いた。
答えも、もらっていた。
規約第二条。先月、モトリーで、あいつが自分から言い出した改正である。危険は二人で分ける。無茶をしない。異変は、隠さず言う。
あの条文は、あいつの答えだった。守られるだけは嫌だ。分けてくれ。隠さないでくれ。契約書の体裁を借りて、あいつは、まっすぐに、そう言っていた。
俺は条文に署名して、署名した手で、仮面を受け取りに行った。
第二条の違反者は、最初から、決まっていたのだ。
石の壁に、額を当てた。
冷たさが、骨まで届いた。
あいつの言葉が、順番に戻ってくる。俺の強さは、見てもらう強さだ。あの人の登り方は、たぶん、寒い。誰にも見られずに登るんだ。俺なら、三日で寂しくて死ぬ。
あいつは、最初から全部、言っていたのだ。
見てもらえない強さは、寒い。言ってもらえない勝ちは、偽物になる。あいつは自分の言葉で、俺のやり方の欠陥を、出会った日からずっと、無自覚に、正確に、言い当て続けていた。
聞いていたのは、俺だ。
聞いて、笑って、聞き流した。俺は寒さに慣れている、と思っていたからだ。
慣れというのは、指摘されるまでが慣れである。
これも、あいつの隣で覚えた理屈だった。
空の端が、僅かに白み始めた。
モトリーなら、俺の早起きの時間である。森の間引き。水汲み。パンの窯の火。あの街の平和は、俺の早起きで出来ていた。あいつの英雄譚は、俺の夜更かしで出来ている。どちらの帳簿も黒字で、俺はそれで、世界が回っていると思っていた。
回っていたのは、世界ではなく、俺の帳簿だけだった。
懐の中で、指が、冷たい金属に触れた。
預け賃の銅貨。
一枚の銅貨で、俺の三年は、だいたい説明がつく――そう思っていた頃が、遠い。
銅貨を、空にかざしてみた。
白み始めた空の下で、銅貨は、ただの銅貨だった。旅人の絵も、犬の絵も、この暗さでは見えない。見えないまま、俺はそれを、強く握った。
これをくれた子供は、言った。落とした飴の代わりに拾った銅貨を、俺に差し出して、預けておく、と。いいものを見つけたら、いいものをあげる。婆様に教わったおまじないに、あの子は勝手に、そう付け足した。
預けられたものは、返すまで、預かった者の仕事である。
俺はあの銅貨を、まだ、誰にも返せていない。返せる日の帳簿を、まだ、書けていない。
どうすればいい。
問いは、それだけだった。
言葉の候補なら、いくつも並べた。
考えすぎだ、と言う。――昨日、もう言った。効かなかった。
お前は強い、と言う。――強さの話ではないのだ、もう。
卿が待っている、と言う。――他人の願いで、あいつの足は動かない。動かせてはいけない。
全部話す、と言う。――それは告白ではなく、とどめという。三年の噓の上に立っていた男に、辞退を思いとどまらせる資格の話を、噓の張本人がする。世の中に、これほど筋の悪い交渉はない。
候補は全部、卓上で沈んだ。
答えは、出なかった。
帳簿方も、書記官も、倉庫番も、俺の中の事務方は全員、頁を開いたまま黙っていた。三年間、あらゆる工程を組んできた頭が、工程の組めない問いの前で、初めて、白紙のまま立っていた。
言えば、壊れる。
黙れば、壊れる。
どちらも選べないまま、夜が明けていく。
東の空が、屋根の稜線を、細く金色に縁取り始めた。
その時。
闘技場の壁の上――高い所で、ちりん、と音がした。
見上げた。
外周の壁の上、明け方の空を背にして、小柄な影が座っていた。
まだら服。三叉帽。
トリルが、二百年の石の上で、膝を抱えて、俺を見下ろしていた。
いつからいたのかは、分からない。たぶん、最初からである。あの道化は、いつも、最初からいる。
「――旦那」
降ってきた声は、静かだった。
「顔が、ないよ」
俺は、自分の顔に手を当てた。
面は、着けていない。着けていないのに、言われた意味は、分かってしまった。
トリルは、壁の上から動かず、白み続ける空の下で、ただ、こちらを見ていた。
俺も、動けなかった。
明け方の大路に、鈴の音の残りだけが、長く、細く、消え残っていた。




