【第二巻】第九章 準決勝(三)
控えに戻って、面を外した。
外した面の内側に、汗の跡が残っていた。
俺は、それをしばらく見ていた。
見てから、布で拭いて、懐にしまった。
着替えの儀式を、逆の順で済ませる。外套を返す。襟を戻す。歩幅を戻す。従者ヨウタが、資材置き場の陰で組み上がっていく。手順は体が覚えている。覚えているのに、今日は一つ一つが、妙に重かった。
棒は、置いてきた。
折れた樫は、無名戦の備品部が引き取った。二つに折れた得物は、作法により、円の主のもとに残るのだという。三年使った相棒との別れとしては、事務的すぎる幕引きだった。事務的で、助かった。荷物がひとつ軽くなって、胸がその分だけ重くなった。釣り合いは、取れていない。
控えの廊下の出口に、まだら服が立っていた。
トリルは、何も言わなかった。
軽口も、講釈も、鈴の音もなく、ただ、深く一礼した。
口上役が敗者に贈る、いちばん丁寧な作法らしかった。
俺も、面を懐に抱いたまま、頭を下げた。
下げた頭の上を、遠い歓声が通り過ぎていった。
北の小扉を出ると、夕方の光が斜めだった。
人の波は、まだ闘技場の余熱で騒がしい。愚者の椅子の挑戦者の話。決勝の話。倍率の話。俺は買い出しの包みを提げて、波の隙間を歩いた。誰も俺を見ない。いつもどおりである。いつもどおりが、今日はやけに、皮膚に冷たい。
宿に戻ると、あいつはまだ帰っていなかった。
卓を拭いた。湯を沸かした。干し杏の残りを数えた。数える必要のないものを数えるとき、人は何かを待っている。
あいつが帰ったのは、日が落ちてからだった。
扉が開く音で、分かった。
鈴が、鳴らなかったのである。
あいつの腰の鈴は、歩けば鳴る。鳴らないのは、歩き方が死んでいる時だけだ。
「おかえり」
「ああ」
あいつは、卓の前に座った。座って、しばらく、何も言わなかった。
俺は湯を注いだ。白湯である。皮肉な符合に気づいたのは、注いでからだった。
「決勝、進出だな」
沈黙が、長かった。
窓の外を、酔った歌が通り過ぎた。遠くで犬が鳴いた。湯気が、細くなって消えた。
「なあ、ヨウタ」
あいつの声は、静かだった。
「俺は今日、勝ったのかな」
「旗は上がった」
「旗は、な」
あいつは、白湯に手をつけなかった。
「……あの人の棒が折れたとき、俺は、嬉しかったんだ。最初の一瞬だけ。超えた、と思った。ずっと見ていた背中に、初めて手が届いたと思った」
「…………」
「でも、次の瞬間に、分かった。分かってしまった」
あいつの手が、卓の上で、ゆっくり握られた。
「あの人は、俺の剣より速く動ける。試合の間、ずっとだ。受けるたびに分かった。あの棒は、俺の剣が届く半寸先に、いつも、先にいた。先にいて――待ってたんだ」
「考えすぎだろ」
「五十七合だぞ、ヨウタ」
声は、荒れなかった。荒れないまま、深くなった。
「三十二合目、俺の袈裟がけが流れたとき、あの人の右足は、もう次の位置にあった。踏み込めば取れた。踏み込まなかった。四十八合目もだ。俺の呼吸が浅くなった瞬間があって、あそこを突かれたら、終わってた。突かれなかった。……俺は試合の間、ずっと数えてたんだ。あの人が『やらなかったこと』を。指を折るたび、寒くなった」
数えていたのか。
俺があいつの呼吸を数えていた五十七合の間、あいつは、俺の「やらなかったこと」を数えていた。同じ円の中で、二人とも、相手の帳簿をつけていたわけである。つけ終えた帳簿の中身だけが、こんなにも違う。
「五十七合、俺は全力だった。全力で、一度も、あの人の芯を捉えられていない。捉えられないように、ずっと、半寸ずらされてた。最後の一本だけ、急に、届いた。……届いたんじゃない。あれは」
言うな。
言わないでくれ。
「――通してもらったんだ」
湯気の消えた白湯が、二つ、卓の上で冷えていった。
「手を、抜かれた。いや、違うな。抜くのとも違う。あの人は最後まで丁寧だった。丁寧に、丁寧に、俺の勝ちを、作ってくれた。俺が今まで見てきた中で、いちばん綺麗な負け方だった。綺麗すぎて、吐きそうだ」
あいつは、自分の掌を見た。
「この手は、今日、何も勝ち取ってない。もらったんだ。なのに旗は上がって、六万人が俺の名前を呼んで、俺は明日、決勝に立つ。卿と戦う。もらった勝ちを踏み台にして、あの人と、本物の勝負をしに行く。そんな資格が、俺にあるか?」
「ある」
即答した。即答してから、俺は自分の声が、少しだけ速すぎたことに気づいた。
「あるだろ。相手が何を考えてたにせよ、五十七合、お前は全力だった。全力は、資格だ」
「全力は、資格じゃない。届くことが、資格だ」
あいつは、静かに首を振った。
「A級ってのは、そういうものだろ。書類じゃなく、動きで示す。示せなかった。俺の剣は、あの人に、届いてなかった。なのに書類の上では、俺が勝ってる。これじゃ、モトリーの頃と同じだ」
モトリーの頃と、同じ。
心臓が、一度、大きく鳴った。
「俺の戦績は綺麗だ。綺麗すぎるって、ギルドの人にも言われた。ずっと、変だと思ってたんだ。俺はどこかで、誰かに、勝たせてもらってるんじゃないかって。今日、初めて、その『誰か』の手を、この目で見た気がする」
あいつは、両手で顔を覆った。
覆ったまま、長いこと、動かなかった。
俺は、何も言えなかった。
言える言葉は、この世に一つしかない。あれは俺だ。手を抜いたんじゃない。お前の勝ちを本物にしたくて、俺の全部の技術で、負けに行った。でも、届かなかった。俺の負けは、お前の目には、施しに見えた。
その一つは、言った瞬間に、あいつの三年間を、俺の三年間ごと、壊す。
言えば、あいつは知る。モトリーの三年の戦績の下に、俺の夜業が敷かれていたことを。今日の疑いが、疑いではなく、ずっと事実だったことを。あいつの言う「誰かの手」が、毎朝隣で薪を割っていたことを。
黙れば、あいつは決勝を降りる。
言っても壊れる。黙っても壊れる。壊れ方を選ぶだけの夜が、音もなく更けていく。
やがて、あいつは顔を上げた。
上げた顔は、泣いていなかった。泣いていない顔が、泣いている顔より、ずっと悪かった。
「決勝、辞退しようと思う」
窓の外で、祭りの歌が、遠ざかっていった。
「もらった勝ちで立つ決勝に、意味はない。卿にも、失礼だ。あの人は、本物の勝負を待ってる人だ。もらいものの挑戦者じゃ、あの人の二十二年に、釣り合わない」
「ジェスター」
「明日の朝、審判部に届けを出す。悪いな、ヨウタ。ここまで来て、こんな」
あいつは立ち上がり、寝床の方へ歩きかけ、途中で一度、止まった。
「なあ。ひとつだけ、聞いていいか」
背中を向けたまま、あいつは言った。
「お前、今日、どこで見てた」
心臓が、止まった。
「西の中段だ。いつもの」
「そうか」
あいつは、それ以上聞かなかった。
聞かないことが、答えを保留したのか、答えを聞くのが怖かったのか、それとも――もう半分、答えを持っているのか。背中からは、読めなかった。読めない背中を、俺は初めて見た。八つの頃から読み続けてきた背中である。
寝床に入る音がして、部屋が暗くなって、あいつの呼吸は、朝まで一度も、眠りの拍子にならなかった。
俺は窓辺に座っていた。
卓の上の白湯は、二つとも、冷え切っていた。
あいつの剣帯が、壁に掛かっている。
鈴の短剣と、バラッドの手鐘。腰の鈴がふたつ。
鳴らせる場所で鳴らしな、と亭主は言った。
あの鈴は、今夜、一度も鳴らなかった。
勝たせるつもりだった。本物の勝ちを、渡したつもりだった。
渡したものは、届いていなかった。届いたのは、別のものだった。三年間、見えない場所で積み上げてきたものと、同じ形のもの。あいつの言う「誰かの手」。
俺の手である。
窓の外に、闘技場の黒い環が見えた。
昼間、あの環の中で、俺は言ったのだ。お前は強い。お前の強さは本物だ。棒で言って、負けで証明したつもりだった。
証明は、逆さまに届いた。
俺の負けは、あいつの勝ちを、偽物にした。
三年間で、いちばん丁寧にやった仕事が、三年間で、いちばん深くあいつを傷つけた。帳簿をどうめくっても、この貸借は合わない。合わない帳簿を前にした帳簿係にできることは、頁を破ることではなく、明日の日付を書くことだけである。
明日。
決勝の、朝。
環の上の空に、星は、なかった。




