【第二巻】第九章 準決勝(二)
通路を歩きながら、係の男の世間話で、東の結果を知った。
卿の勝ち。ただし、五合。
二十二年、一合保てば誉れとされた無敗の騎士から、講談師は五合を取った。しかも三合目で、卿の甲冑の肩当てに、雷鳴の一撃を届かせたという。決着の後、倒れたドヤールは仰向けのまま口上を打った。曰く――「本日の負けは、明日の演目! 題して『雷鳴、白銀に触れたる日』! 木戸銭は取らん、酒場で会おう!」
観客が拍手を忘れたのは、負け姿が惨めだったからではない。負けた男が、負けたまま、誰より大きく見えたからだった。
いい話である。いい話を聞いた直後に、俺は俺の負け支度を最終確認しながら、光の中へ出た。
鉢の底は、白かった。
六万人の視線が、重さを持って降ってくる。西の中段の定席から何百回も見下ろした円が、下から見上げると、まるで違う場所だった。空が遠い。旗が高い。そして、円の向こうに――あいつが、立っていた。
白い外套。陽色の髪。腰に鈴の短剣と手鐘。掲揚台には鈴の輪の旗。
視界の隅で、いつもの座標を確かめる。西の中段に、教室の一団。麦酒の親父が身を乗り出し、ガスが腕を組み、リリが今日は最初から目を開けている。その並びに、罫線のようにまっすぐな姿勢がひとつ。ミエルさんは、帳面を膝に置いて、開いていなかった。貴賓席の隣の関係者席には、白銀の甲冑。決勝進出を決めたばかりの卿が、次の相手を検分する軍務の顔で座っている。そして北側の日陰に――灰色。
全員、揃っている。この試合を観る資格と理由のある者が、全員。
ジェスター・クラウンが、俺を見ていた。
仮面の穴二つ分の視界の中で、あいつの目は、まっすぐにこちらへ来た。憧れの人に会えた子供の目と、強敵を前にした剣士の目が、同じ顔の上に同居している。あの同居を、俺は八つの頃から知っている。知っているのは、世界で俺だけである。
「西! ジェスター・クラウン! B級、鈴の輪の旗! 東! 愚者の椅子より、無名の七!」
トリルの口上は、今日は装飾を全部削いであった。
「――名のある者と、名なき者。古式に則り、これは審査にして、祭りの心臓! 双方、悔いなきように!」
悔いなきように。口上役は、時々、呪いみたいに正確なことを言う。
審判が旗を構えた。
あいつが、剣を抜いた。抜いて、切っ先を俺に向け、澄んだ声で言った。
「――会いたかった」
六万人の前で、あいつはそれを言った。歓声が湧いた。俺は、答えられなかった。答えれば声が割れる。割れなくても、割れる。だから俺は、作法どおり、棒を斜めに構えることで返事をした。あいつは笑って、頷いた。
「行きます」
旗が、振られた。
最初の一合で、分かった。
あいつは、仕上がっている。
剣が重い。速い。深い。グオルグ戦の拍子、カザン戦の伸び、南区の星戦で削られながら学んだ耐えの呼吸。この祭りの全部が、あいつの剣の中で編み上がっている。踏み込みの鋭さは半月前の倍で、しかも、まだ伸びる。打ち合いながら、伸びていく。こういう生き物なのだ、こいつは。
俺は、受けた。
見せられる最大、の少し内側で、受けて、流して、返した。返しながら、呼吸を数えた。今日の計量は、呼吸である。あいつの呼吸は四拍で回る。吸って、二合。吐いて、二合。乱れない。乱れないのに、生きている。等間隔なのに、生きた呼吸というものが、この世にはある。師範代の十六拍と、似て、まるで違う。この違いを言葉にできる者は、たぶんこの鉢の中に、俺しかいない。
そして――白状する。
楽しかった。
この期に及んで、楽しかったのである。三年間、俺は誰とも、まともに打ち合ったことがなかった。力は隠すもので、棒は畳むもので、勝負は起こす前に終わらせるものだった。それが今、目の前で、あいつの剣が来る。俺の棒を、本気で叩きに来る。受ければ腕が痺れ、返せば読まれ、読み返せば超えてくる。勝負というものは、二人でやるものだ――卿の言葉の意味を、俺は円の中で、体で理解していた。
二十合。三十合。
観客の声が、遠くなった。
棒と剣の会話だけが、円の中に残る。あいつの剣は、一合ごとに何かを聞いてくる。あんたは誰だ。なぜ棒なんだ。なぜ、そんなに受けられる。俺の棒は、答えない。答えない代わりに、正確に返す。正確に返すことが、俺にできる唯一の、嘘のない返事だった。
途中、一度だけ、あいつの剣が短剣の柄の鈴に触れて、ちりんと鳴った。
円の中で、鈴の音がした。それだけのことで、あいつの剣がまた半段、深くなった。あの鈴は、あいつの原点の音である。原点の音を燃料にできる剣士と、原点の音を隠して立つ棒使い。同じ鈴の下で育った二人が、六万人の前で、それを知られずに打ち合っている。
四十合を過ぎて、あいつの呼吸が変わった。四拍が、三拍になる。ギアが一段、上がったのだ。剣速が増し、俺の「見せられる最大」の輪郭を、あいつの切っ先が掠め始めた。
まだだ。まだ、超えられていない。
俺は待った。棒を振りながら、待った。あいつが俺を、本物の力で超える瞬間を。その瞬間だけが、この茶番を茶番でなくす。あいつの勝ちを、本物にする。
五十合。
あいつの目から、憧れが消えた。
いい徴候である。円の中に、憧れの人はもういない。倒すべき、強い敵がいるだけだ。あいつの剣が、その認識の速度で研がれていく。三拍の呼吸が、さらに詰まる。二拍半。踏み込みが、俺の予測の半寸先に着き始める。
来る。
そう思った、五十七合目だった。
あいつの剣が、俺の読みの、外から来た。
右下段からの跳ね上げ。軌道は読めていた。読めていたのに、速さが、読みを追い越した。俺の棒は受けの位置に半拍遅れ――遅れたのは、演技ではなかった。
本物だった。
棒の真ん中を、あいつの剣が打ち抜いた。
乾いた音がして、三年間俺の相棒だった樫の棒が、二つに折れて宙を舞った。
折れた棒の先が、白い円の上に落ちて、跳ねて、転がって、止まった。
静寂。
俺は、両手に残った半分の棒を見た。見てから、あいつを見た。あいつの剣は、俺の喉元の一寸手前で、止まっていた。完璧な、止めだった。人を傷つけない位置で止まる剣を、あいつは全力の中でも失わなかった。
――今のは、負け筋の第一候補ではない。
武器落としを演じる必要は、なかった。あいつの剣は、本当に、俺の受けを超えたのだ。俺の「見せられる最大」を、正面から、打ち砕いた。
審判の旗が、上がった。
「勝者――ジェスター・クラウン!」
鉢が、割れた。
六万人の歓声が、天井のない空へ噴き上がる。愚者の椅子の挑戦者は敗れ、鈴の輪の新星が決勝へ進む。祭りの筋書きとして、これ以上のものはない。賭け屋が泣き、教室が跳ね、どこかで麦酒の親父が吠えているのが、音の彼方に聞こえた。
歓声の膜の向こうで、俺は一つだけ、確かめるべきものを確かめた。
北側の日陰。灰色の指は――動いていなかった。膝の上で、組まれたまま、止まっていた。フードの奥の顔は、俺の敗北を見ている。見ているのに、あの夜の満足の頷きが、ない。
当然である。測定は、失敗したのだ。俺は全力を出していない。「見せられる最大」の内側で折れた棒は、あの男の楽譜に、不完全な音符しか書かせていない。灰色は長いこと動かず、やがて、指を一本だけ、フードの縁に当てた。考える者の仕草だった。考えさせておけばいい。答えの出ない計算ほど、いい時間泥棒はない。
俺は、半分になった棒を持ったまま、立っていた。
負けた。
工程表の上の敗北ではなく、本物の敗北が、胸の真ん中に、静かに置かれていた。置かれてみると、それは想像していたどの感情とも違った。悔しさが、三割。それから、誇らしさが、七割。配分のおかしい帳簿である。おかしいまま、俺はその帳簿に、生涯消さない印を押した。
――強くなったな、ジェスター。
面の下で、声にならない声で、俺はそれだけ言った。面の下の言葉は、外に漏れない。漏れないが、よく届くと、あの登録係は言っていた。
届け、とは思わなかった。届いてはいけない宛先である。それでも言った。言うために、俺はこの面をつけたのだと、言ってから分かった。
あいつは、剣を収めた。
収めて、勝ち名乗りの位置へ――行かなかった。
行かずに、円の真ん中で、俺をじっと見ていた。
歓声の中で、あいつの顔から、ゆっくりと、何かが引いていくのが見えた。喜びの潮が引いて、その下から、別の色の岩が現れる。あいつは、自分の剣を見た。折れた棒の転がる先を見た。それから、もう一度、俺の面を。
目が、合った。
穴二つ分の視界の中で、あいつの唇が、声にならない形に動いた。
――どうして。
と、動いた気がした。




