【第二巻】第九章 準決勝(一)
麦月十八日の朝は、静かに来た。
鐘ってのは、鳴る前がいちばん静かだ――バラッドの手紙の一行が、窓の外の空気とそっくり同じ顔をしていた。祭りの八日目にして、王都は初めて声をひそめている。今日は準決勝である。東の山、ドヤール対ソロ・アダマス卿。西の山、ジェスター・クラウン対――愚者の椅子の挑戦者、無名の七。
組み合わせは、昨夜のうちに正式の貼り紙になった。
貼り紙を見上げるあいつの横顔を、俺は食堂の窓越しに見た。あいつは長いこと動かず、やがて、誰にも聞こえない声で何かを言い、拳をひとつ、静かに握った。聞こえなくても分かる。会える、の類の言葉である。
朝食の卓は、二人とも、いつもどおりを装った。
「今日は早めに出る。支度がある」
「ああ。俺も、席取りがある」
「西の中段か」
「西の中段だ」
嘘である。今日の俺は、観客席には座らない。座れない。俺の席は、鉢の底の、白い円の中に用意されている。あいつの向かいに。
「そういえば、宿の払いは」
「昨日、三日ぶん足しておいた」
「洗濯物は」
「取り込んである。……お前、決戦の朝に何の確認だ、それは」
「いや、なんとなくな。今日みたいな日は、普段のことをちゃんとしておきたくなるんだ」
言われてみれば、あいつは昔からそうだった。武術大会の朝に鶏の餌をやり、初討伐の朝に雨樋を直した。大一番の朝の日常仕事は、あいつなりの、地面の踏み固め方である。今朝の議題が宿代と洗濯物で、俺は少しだけ安心した。地面は、まだ固い。
「なあ、ヨウタ」
匙を置いて、あいつが言った。
「今日の相手……無名の七の人と、俺は戦う。ずっと望んでたことだ。望んでたのに、昨日から、変な感じがしてるんだ」
「変な感じ」
「うまく言えない。……試合の前って、いつもは相手のことを考える。どう来るか、どう受けるか。でも今日は、考えようとすると、なぜか、お前の顔が出てくる」
匙が、俺の手の中で、僅かに重くなった。
「……そりゃ、あれだろ。俺が毎朝、飯の心配ばかりしてるからだ」
「かもな」
あいつは笑った。笑って、それ以上は追わなかった。追わない優しさに、俺は今日も甘えた。甘えの帳簿は、もうずいぶん前から、返済の目処が立っていない。
「よし。行ってくる」
あいつは立ち上がり、剣帯を締め、腰の鈴をひとつ鳴らした。戸口で一度だけ振り返る。
「ヨウタ。見ててくれ」
「……ああ」
「ちゃんと、見ててくれよ。今日の俺を」
見ている。誰よりも近くで。それだけは、今日という日の、唯一の嘘偽りのない事実である。
あいつが出て、四半刻の後、俺も宿を出た。
階下の帳場の前で、ミエルさんと行き合った。今日も監査へ――ではないらしい。罫線の人は、外出の身支度で、手には観戦用の帳面があった。
「サイキ様。本日は、どちらの席で」
「……立ち見です。人が多いので」
「そうですか」
ミエルさんは、それ以上聞かなかった。聞かずに、一礼して、それから、顔を上げた時には、いつもの敬語に、一滴だけ違う温度が混ざっていた。
「よい観戦を。……どちらの席から見ても、よい試合でありますように」
どちらの席から見ても。
その言い回しを、俺は背中で受け取って、宿を出た。あの人の帳面に、今日、何が記帳されるのかは、考えないことにした。考えても、閉架される頁である。
準決勝の日の王都は、変な静けさをしていた。人出は祭りの最多を更新しているのに、声が低い。大路を流れる人波の全部が、同じ方向へ、同じ話題を運んでいる。愚者の椅子。二十二年の無敗。鈴の輪の新星。噂の乗り合い馬車は今日、超満員で、それでも妙に、車輪の音だけが静かだった。
道すがら、俺は本日の工程表を、頭の中で最後にもう一度めくった。
議題は、負け方である。
白紙だった頁は、この数日で埋まった。埋めたのは俺だが、埋めさせたのは状況である。要件を再掲する。一、俺は負ける。あいつの剣で、あいつの勝ちとして。二、ただし手を抜いたと悟られてはならない。あいつにも、六万の観客にも、四本の公正の目にも。三、その上で、教団に「測定」の成果を渡さない。俺の全力は、出さない。
一と二だけなら、難題で済む。三が加わると、これは曲芸である。
俺の解は、こうだ。全力は出さない。だが「全力に見える最大」まで出す。あいつの剣が実際に俺を上回る瞬間を、作るのではなく――待つ。あいつは強い。この祭りで、あいつの剣は伸び続けている。どこかで必ず、俺の「見せられる最大」を、本物の力で超えてくる。その瞬間に、俺は本当に負ければいい。演じるのは敗北ではない。敗北までの、道のりだけである。
念のため、負け筋の候補も三つ用意した。第一候補、打ち合いの末の武器落とし。棒は剣より落としやすい。自然に見える。第二候補、場外。ただしこれは初戦で使った絵だ。二度目は疑いを買う。第三候補、有効打を体で受ける。痛いが、いちばん美しい。美しさで負け方を選ぶ日が来るとは、我ながら因果な商売である。
どれを使うかは、円の中で決める。あいつの剣が決めてくれる、と言う方が正確か。
問題は、待っている間、俺の技術が俺を裏切らないかどうかだ。
三年間、俺の体は「勝たない」ように出来ている。とっさの瞬間、力は自動で隠れ、棒は自動で緩む。今日は、その自動を半分だけ解除して、しかも残り半分は固く締めておく必要がある。緩めすぎれば測定され、締めすぎれば茶番になる。針の穴に、体ごと通るような仕事である。
できるか、と自問して、やめた。
できるかではない。やるのである。今日の円の中で、あいつは本物の全力で来る。本物には、本物の準備で応えるのが礼儀だ。俺の本物が「本気の負け支度」であることだけが、世間の礼儀と少しずれている。
闘技場の北の小扉の前で、俺は一度だけ立ち止まった。
懐から、白木の面を出す。
目と口だけの穴が、朝の光の中で俺を見上げた。八日前、この面は軽かった。今朝は、ずしりと重い。重くなったのは面ではなく、面の下に持ち込む荷物の方である。
――仮面は、隠すためじゃなく、言うためにつけるものさ。
道化の作法その三を、俺は面の裏に、指でなぞった。
言うため、か。
今日、俺があいつに言うべきことは、たぶん一つだけある。言葉では言えない。言葉で言えば、全部が崩れる。だから、棒で言う。七十三合でも、百合でも、あいつの剣が俺を超えるまで、逃げずに円の中に立ち続けることで言う。お前は強い。お前の強さは本物だ。俺が三年、裏から膳立てしてきたのは、偽物を育てるためじゃなかった。それを、今日、俺は俺の負けで証明する。
……重い荷物だが、椅子は席であって、鎖ではないと、道化も言っていた。
座りに行くとしよう。
控えの石の間で、面を着けた。
紐を結ぶ。視界が穴二つ分に狭まり、世界が静かになる。この静けさにも、ずいぶん慣れた。慣れた静けさの中で、今日だけは、自分の心臓の音が、いつもより大きい。
大きくて、いい。
今日の心臓は、隠さなくていい部類の荷物である。緊張は、挑戦者の作法だ。愚者の椅子に座る名なき者が、王冠の候補を前に心臓を鳴らすのは、二百年前からの正しい伝統に違いない。伝統に敬意を払い、俺は心臓を鳴らしっぱなしにしておいた。
懐の奥で、預け賃の銅貨と、愚者の札が、そっと触れ合った。
バラッドから借りたままの、番号のない札。旅人と犬の絵。考えてみれば、俺は今日、あの札の絵とそっくり同じ場所に立つ。崖っぷちを、犬に吠えられながら、荷物を担いで歩く旅人。足元を見ていないのか、見た上で歩いているのか、絵師だけが知っている構図である。
――見た上で、歩くのだ。今日は。
廊下の先から、地鳴りのような歓声が届いた。
東の山の準決勝が、始まったのである。ドヤール対、ソロ・アダマス卿。講談師の口上が、二十二年の無敗に、どう切り込むのか。聞きたかった。聞けないのが、心底惜しい。
歓声は、二度、大きくうねった。
二度目のうねりの後、長い、長い静寂が来た。
静寂の意味を、俺は控えの石の間で、音だけで読んだ。決着である。そして、あの静寂の長さは――ただの決着ではない。観客が、何かとんでもないものを見て、拍手を忘れている長さだった。
やがて、割れるような、今日一番の歓声。
どちらが勝ったのかは、音では読めなかった。読めないまま、係の男が廊下の角から顔を出し、事務の声で言った。
「無名の七殿。――出番です」




