【第二巻】第八章 綻び(三)
麦月十七日の朝は、二つの報せで始まった。
一つ目は、食堂の壁の貼り紙である。いわく、本戦準決勝の出場者に変更あり。推薦枠のA級剣士、遠征中の負傷の再発により棄権。いわく、欠員の扱いは古式に則り、本日夕刻の無名戦決勝の勝者が「挑戦者」として西の山の準決勝に立つ。いわく――椅子は、名なき者に。
愚者の椅子、と貼り紙の隅に、古い呼び名が添えてあった。
王冠の祭りに一脚だけ用意される、名前のない者のための席。愚者の祭りの残り火は、無名戦という枠だけではなかったらしい。空席が出た時、それを埋めるのは補欠でも次点でもなく、名を捨てた者。二百年前の祭りの理屈が、制度の古層から掘り起こされて、今年、動く。
二つ目の報せは、その貼り紙の前で聞いた。
「ヨウタ! 見たか、これ!」
ジェスターが、貼り紙と俺を三往復して、目を輝かせていた。
「無名戦の決勝の勝者が、準決勝に来る。……つまり、あの人が勝てば」
「お前と当たる。籤も何も無しでだ」
「顔合わせどころじゃない。本物の、審査の舞台でだ」
あいつの声は、綻びかけた祭りをもう一度張り直したように弾んでいた。俺は綻びの側の人間なので、弾む声の裏で、静かに帳簿をめくっていた。
推薦A級の棄権。遠征中の負傷の「再発」。時期は、教団の金が「無名の七の勝ち残り」へ移った翌日。
偶然という言葉は便利だが、便利な言葉ほど、使うたびに信用が減る。俺の中の偶然の残高は、この祭りが始まってから、もうほとんど尽きていた。誰かが、椅子を一脚、空けたのだ。名なき者のための椅子を。名なき者を、そこへ座らせるために。
教団の楽譜は、これで全ての小節が繋がった。無名の七を勝たせ、愚者の椅子に座らせ、公言済みの「戦いたい相手」としてジェスターにぶつける。全力の測定。会場は本戦準決勝。観客六万。公正の目、四本。逃げ道、なし。
見事なものである。拍手をしてやりたい。両手が塞がっていなければ。
昼、俺は「買い出し」に出て、闘技場の北の小扉をくぐった。
決勝前に、面の内側の紐を締め直しておきたかった。それだけのつもりである。控えの石の間には、先客がいた。
まだら服が、壁の白木の面の列を、順に磨いていた。
「おや、白湯の旦那」
トリルは振り向かずに言った。俺の足音で分かったらしい。俺は、自分の足音が誰かに識別される日が来るとは思っていなかった。
「今夜の決勝、相手は無名の二。恒例組の古株だ。腕は、まあ、あんたなら心配ない」
「どうも」
「心配なのは、そのあとさ」
布が、面の上で止まった。
「愚者の椅子。……座るのかい、旦那」
「勝てば、自動的に、と聞いています」
「降りることもできる。作法の上ではね。椅子は席であって、鎖じゃない」
沈黙が、落ちた。
数えて、九つ。長い沈黙だった。九つの間、道化は面を磨かず、俺は嘘を磨かなかった。磨いても無駄な相手だと、九つの沈黙が教えてくれた。
「――座ります」
「そうかい」
「座って、確かめたいことがある。それに」
それに、の先を、俺は少しだけ迷った。迷って、面の似合う言葉を選んだ。
「約束したわけじゃないが……あの椅子で待ってる、と思ってる奴がいるので」
「ふうん」
トリルは、磨き上げた面をひとつ、壁に掛け直した。
「なら、ひとつだけ、口上役から忠告だ。旦那、あんた、あの鈴の若様の前で戦うんだろ。……仮面ってのはね、覗く方向を間違えると、ただの壁になる。あんたが面の穴から若様を見る分にはいい。だが、若様の目から自分がどう見えてるかを、面の内側で考え始めたら――」
道化は、自分の顔の前で、ひらりと手を振った。
「――その瞬間、あんたの剣は、あんたのものじゃなくなる。相手の目の中の自分を殴る剣になる。それは、負ける剣より、みっともない剣だよ」
覗く方向を、間違えるな。
忠告の意味を全部飲み込むには、俺の夜は少し足りなかった。足りないまま、頷いた。頷けるだけの重さが、その言葉には確かにあった。
「……あなたは、何者なんです」
気づけば、口が先に動いていた。トリルは、初めてこちらを向いて、化粧の下で笑う。
「口上役だよ。名のある者の名を呼び上げて、名のない者の名を呼ばずにおく。それだけの商売さ」
「その口上役どのは、雨の晩に、傘もささずに誰と会うんです」
布を持つ手が、一拍だけ、止まった。
一拍である。九つの沈黙をこちらに課した道化から、一拍を取り返した。本日の帳簿に、小さな黒字がついた。
「……見てたのかい、旦那」
「窓が、たまたま、そちら向きでした」
「そうかい。窓は選んで借りるもんだね、次から」
トリルは布を畳み、畳みながら、独り言の温度で言った。
「――断ったよ、あの晩の相手には。それだけ知ってれば十分だ。誰の使いかは、あんたが知らない方が、あんたの明日の剣のためになる」
断った。あの首の横振りは、やはり否定だった。そして断った相手の素性は、明日の剣のために伏せられた。伏せ方が親切で、親切の分だけ、不穏だった。
それだけの商売のわけがない。ないが、九つの沈黙の相手に、これ以上の正面攻撃は無礼というものである。
夕刻、無名戦の決勝は、静かに終わった。
無名の二は、いい剣士である。恒例組の古株らしく、仮面の作法のとおりに戦い、作法のとおりに負けて、作法のとおりに、俺の勝ちを短い拍手で祝った。去り際、面の奥から小さく「今年は当たり年だ」と言い、「去年の決勝は客が八百だった。今年は二万だ。あんたのおかげだよ」と付け足した。仮面の興行にも景気の波があるらしい。波の頂上が、よりによって俺の年である。
派手さのない、いい決勝だった。俺の白湯もどきの技術は、最後まで大きくは剥がれなかった――と、思う。思うことにする。
勝ち名乗りの口上で、トリルは言った。
「無名戦、本年の勝者――無名の七! 名は、なし! 願いも、非公開! されど古式に則り、この者、明日――愚者の椅子に座る!」
二万の観客が、どよめきと歓声の中間の音を出した。
俺は仮面のまま、一礼した。礼の途中で、観客席の最前列が目に入った。
ジェスターが、立ち上がって、拍手していた。
まっすぐに、こちらを見て。会いたい人に会いたいと言う、と宣言した顔で。明日、審査の舞台で当たる相手を、世界で一番幸福な顔で、見上げていた。
宿に戻ると、卓の上に、一通の手紙が載っていた。
「さっき、駅逓が届けてきた。モトリーからだ」
ジェスターが言った。宛名は、俺たち二人の連名。裏の封蝋に、鈴の意匠。
バラッドからだった。
俺は、荷の底のもう一通を思い出した。宛名のない、開封の日を指定された、あの一通。今日届いたこれは、別の手紙である。指定の日は、まだ来ていない。来ていないはずである。
「バラッドさんからだ! 読もう、早く」
あいつは手紙を待ちきれず、俺の手元を覗き込んだ。連名の手紙を二人で読むときの姿勢は、モトリーの頃から決まっている。あいつが右、俺が左。読む速さはあいつの方が遅いので、頁の下で俺が待つ。
封を切ると、中身は一枚きりだった。バラッドの、飾りのない字が並んでいた。
――王都は祭りの頃だろう。二人とも、飯を食っているか。
――こちらは変わりない。陛下は元気だ。婆さんのパンも変わらない。
――ときに、老婆心からひとつ。
――祭りの終わりには、鐘が鳴る。鐘ってのは、鳴る前がいちばん静かだ。
――静かになったら、支度をしろ。何の支度かは、その時に分かる。
手紙は、そこで終わっていた。
「陛下、元気だってさ」
「猫の近況が本文の三割を占める手紙も珍しい」
「バラッドさんらしいよ。……なあ、最後の三行、どういう意味だと思う」
「さあな。酒場の主人の言うことは、詩と実務の中間と決まってる」
「支度、か。……よし、俺は素振りをしてから寝る」
単純な結論に落ちた。落ちてくれて、助かった。あいつが階下へ降りたあと、俺はもう一度、最後の三行を読み直した。
鳴る前がいちばん静かな鐘。静かになったら、支度をしろ。
窓の外、祭りの八日目の夜は、まだ十分に賑やかだった。賑やかであるうちは、まだいいのだと、酒場の主人の字が言っていた。
明日は、準決勝である。




