【第二巻】第八章 綻び(二)
その夜、俺は無名戦の準決勝に向かった。
相手は、無名の五である。
準決勝、と口の中で転がすと、妙な味がした。仮面の枠に潜り込んだ日、俺の工程表の終点は「調律の剣士を検分し、必要なら仮面の内で始末をつける」だった。その剣士は、もう舞台にいない。切れた弦は南区の離れで粥を食っている。目的を失った工程表の上を、しかし俺は、まだ勝ち進んでいる。教団の金が「俺の勝ち残り」に張られていると知った、その晩にである。
罠だと分かっている道を進むのは、間抜けのすることだ。
だが、罠の仕掛け人の顔を拝むには、罠の真ん中まで歩くのが一番早い。それに――言い訳を一つ足すなら、あいつの公言が生きている限り、仮面が中途半端に消えるほうが、むしろ危ない。消えた仮面をあいつは探す。探す男の足は、教団の楽譜より読みにくい場所へ踏み込みかねない。
というわけで、夕刻の円である。
無名の五は、細身の長剣を提げて、等速で歩いてきた。
足音に、祭りがない。無名の三の言った「仕事の足音」。近くで聞くと、それはもっと具体的な音だった。歩幅が変わらない。石畳の目地を踏んでも、砂を踏んでも、音の高さだけ変わって、拍が変わらない。
――整えられた音か?
違う。俺の耳は、二日でずいぶん肥えた。あの十六拍の、生き物の一滴が抜けた音とは違う。これは、一滴を自分の意思で殺している音だ。師範代が「整えられた楽器」なら、こちらは「弾き手が自分の楽器を殺して弾いている」。つまり――同業である。それも、たぶん、俺よりずっと場数の多い。
トリルの口上が、今日は短かった。
「夕刻の一番、無名戦、準決勝! 西、無名の七! 東、無名の五! ……口上は以上。あとは、静かに観るのがよろしいでしょう」
道化の声が、それだけで観客の私語を消した。ああいう芸当は、声量ではできない。
旗が、振られた。
無名の五は、動かなかった。
俺も、動かなかった。
二万の観客の前で、仮面が二枚、微動だにしない。普通なら野次が飛ぶ。飛ばなかったのは、たぶん、円の中の空気が張り詰めて、野次の入る目地がなかったからである。
動けなかったのだ、正確には。
あの構えには、誘いがない。隙もない。攻めの気配すら置かず、ただ「こちらの出方の全部に対応する」という宣言だけが、静かに据えてある。白湯の勝ち方の、遥か上位版。俺が三年で自作した技術の、完成形が目の前に立っている。
仕掛けたのは、俺だった。
三歩で間合いを詰め、棒を低く払う。五は最小で躱す。躱しの軌道が、綺麗すぎた。綺麗すぎる躱しは、次の一手を読まれている証拠である。俺は二の手を捨て、退がった。五は追わない。追わずに、また等速の構えに戻る。
それを、三度繰り返した。
三度目の後、仮面の奥で、五が初めて口をきいた。
「本気で来ないのか、七番」
低い、乾いた声だった。
「あんたの初戦と二回戦は見た。あれは、隠してる者の勝ち方だ。俺と同じだと思って、楽しみにしていた。だが、今のあんたは、隠すために隠してる。守りたいもののために隠してる奴は、そういう手を打たない」
図星の連打である。仮面の下の顔が、勝手に強張った。
「あんたこそ、仕事で来てるんでしょう」
「仕事だった。――昨夜までは」
五の構えが、僅かに緩んだ。緩めて見せた、のかもしれない。
「雇い主の依頼が、昨夜、変わった。『決着まで勝ち残れ』から、『七番と当たったら、全力を引き出して、測れ』に。気に食わないんでな。測られる痛みは、俺も知ってる」
測れ。
教団の指が、この円の中まで届いていた。目の前の同業は、その指の存在を、こちらに明かしている。明かすのは、契約違反のはずである。
「……なぜ、それを俺に」
「言ったろう。気に食わない。それにな、七番」
五は、長剣を下段に流した。初めて見る構えだった。
「俺は測り屋じゃない。剣士だ。だから――測らずに、ただ全力で戦う。あんたも全力で来い。それで雇い主への義理は果たしたことにする。嫌なら、今すぐ場外へ出ろ。追わん」
全力で来い。
その言葉が、円の中で、どれだけ久しぶりに俺へ向けられたものか、目の前の男は知らない。知らないまま、まっすぐに言った。まっすぐに言われてしまった。
俺は、棒を構え直した。
全力は、出せない。出せば公正の目が拾い、六万の目が拾い、三年の畳み方が全部ほどける。それでも――白湯でもなく、様子見でもなく、「隠しながら出せる最大」までなら。
そこから先の数十合を、俺は生涯、忘れないと思う。
五の剣は、速く、深く、そして正直だった。二十合目で、俺は相手の癖をようやく一つ見つけた。四十合目で、その癖が撒き餌だったと知った。五十合を過ぎたあたりから、駆け引きの層が一枚ずつ剥がれて、残ったのは、来た剣を返し、返した棒を受けられる、それだけの往復になった。それだけの往復が、こんなに――こんなに、うるさいほど、生きている。
俺の棒は、受け、流し、返した。円の中に、演出のない試合がひとつ、生まれていた。観客の歓声は、聞こえなかった。聞こえていたのかもしれないが、耳の帳簿が、目の前の一本の剣で満杯だった。三年ぶりに、俺は帳簿をつけずに棒を振っていた。
決着は、七十三合目に来た。
五の踏み込みが、初めて半寸深くなった。誘いだと分かっていて、俺は乗った。乗って、相手の剣の腹を棒で殺し、そのまま柄を押さえた。五の左手が短剣に伸びかけ――止まった。俺の棒の先が、先に、五の喉元の一寸手前で止まっていたからである。
「……参った」
無名の五は、短く言って、剣を引いた。
旗が上がる。歓声が、遅れて鉢を満たした。俺はそれを、遠い雨音のように聞いていた。
すれ違いざま、五が低く言った。
「――決勝は、出るな。とは言わん。あんた、出るんだろう」
「……ええ」
「なら、忠告を一つ。雇い主の本命は、決勝の先だ。あんたが勝ち残った『後』に、用がある。何の用かは、聞いてない。聞かない契約だ」
勝ち残った、後。
五は円を降り、仮面の群衆に消えた。同業の背中は、最後まで等速だった。
宿に戻ったのは、いつもの買い出しの帰りより、半刻遅かった。
部屋の扉を開けると、ジェスターが起きていた。起きて、卓の上の冷めた夕食を前に、座っていた。
「……遅かったな」
「ああ。悪い。買い出しの列が長くて」
「そうか。なあ、ヨウタ。最近、夜――」
「ん?」
「いや。夜は、冷えるから。上着を」
「着てる」
「そうか。ならいい」
夜、の続きを、あいつは自分で飲み込んだ。飲み込んだ形が、はっきり見えた。最近、夜、どこに行ってるんだ。喉まで出かかったその問いを、あいつは「上着」にすり替えた。すり替えの下手さで、元の問いの輪郭がかえって濃くなった。
規約第二条。異変は、隠さず言う。
あいつは今、その条文を、自分の側から踏まないように歩いている。俺を疑うことが、規約に対する違反であるかのように。違反しているのは、俺の方だというのに。
「疲れてる顔だな。あれだ、果物を剥こう。ミエルさんに貰った梨がある」
「いや、いい」
「よくない。疲れには甘い物だ。待ってろ」
あいつは立ち上がり、慣れない手つきで梨を剥き始めた。皮が半分、実を連れて落ちた。四角くなった梨が皿に載って出てきた。慰めというものは、下手なほど効く。効くから、困る。
あいつは、それから、俺の顔をまっすぐ見て、見ないことに決めたように目を逸らした。
「なあ、ヨウタ。今日、無名戦の準決勝があったんだ」
「……へえ」
「行こうと思ってた。でも、やめた。なんでか分かるか」
「いや」
「怖かったんだ」
あいつは、冷めた芋を箸でつつきながら、ひどく静かに言った。
「あの人の試合を見ると、俺はどんどん、あの人と戦いたくなる。戦いたくなるほど――なんだろうな、うまく言えないんだが、胸の奥が変に騒ぐんだ。会いたいのに、会うのが怖いみたいな。変だろ、こんなの」
変じゃない、とは言えなかった。言えないまま、俺は冷めた夕食の椅子に座った。
「それでな、ヨウタ。俺は決めた。無名戦の決勝は、見に行く。ちゃんと見て、ちゃんと、あの人に会いたいって言う。顔合わせの籤がどうなろうと、俺の口で言う。――会いたい人に会いたいって言うのは、変じゃないよな?」
変じゃない。
変じゃないことが、今夜だけは、いちばん痛かった。




