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【第二巻】第八章 綻び(一)

 麦月十五日は、試合のない中日である。雨は昼前に上がった。

 俺たちは約束どおり、南区の道場へ見舞いに行った。ジェスターが提げた鍋の中身はパン粥である。婆さんのパンを牛乳で煮て、蜂蜜を落としたやつだ。作ったのは俺だが、味見で三回匙を入れたのはあいつである。

 道場は、静かだった。

 門下生の姿はまばらで、稽古の音もない。師範代は離れの寝床にいた。目は開いている。開いて、天井を見ていた。俺たちが入ると、目だけがゆっくり動いて、ジェスターの顔で止まった。

「……あんたか」

「起きていて、大丈夫なのか」

「寝てても、やることがない」

 声は細いが、呟きの「まだ振れる」よりは、人の声に戻っていた。ジェスターが鍋を掲げる。

「見舞いだ。パン粥を持ってきた」

「勝った側が、負けた側の見舞いに来るのか」

「勝ってない」

 ジェスターは、きっぱり言った。

「あんたが倒れて、裁定が俺に付いただけだ。だから、これは勝者の見舞いじゃない。途中までしか出来なかった勝負の、相手への挨拶だ」

 師範代は、しばらく黙っていた。黙って、それから、体を起こそうとして失敗し、二度目に成功した。

「……食う。匙を貸せ」

 匙は、震える手で三度落ちた。三度とも、師範代は拾い直した。ジェスターは手伝わなかった。手伝わずに、落ちるたび、黙って匙を拭いて返した。拾うのは本人の仕事で、拭くのは見舞い客の仕事、という分担を、あいつは誰に教わったわけでもなく守っていた。四度目に、口まで届いた。届いた粥を飲み込んで、あの男は、ひどく静かな声で言った。

「……味がする」

「そうか」

「三月ぶりだ。飯の味がするのは」

 それから師範代は、ゆっくりと、パン粥を半分食べた。半分で力尽きて、残りは後で食うと言って笑った。笑えるようになっていた。

 帰り際、離れの外で、道場主が俺たちに頭を下げた。深く、長く、床板に額がつくかというほどの下げ方だった。

「……申し訳、ない。あんたの相手に、儂は、あんなものを」

「顔を上げてください」

 ジェスターが困っている間に、俺は職業柄の質問を一つだけ挟んだ。

「――灰色の外套の男は、何と名乗りました」

 道場主の肩が、跳ねた。

「名乗らなかった。皆、『先生』と呼んでいた。三月前に来て、金と、術を置いていった。うちは、借財で潰れかけていた。門下生を食わせる米もなかった。あの男は、それを全部知った顔で来た」

「術の中身は」

「知らん。儂には見せなかった。ただ、週に一度、あの男が離れで何かをする。すると、倅の――師範代の腕が、上がる。上がるたび、倅の飯が、細くなる」

 倅。師範代は、道場主の息子だった。

「最後に先生が来たのは、五日前だ。帰り際に、言っていた。『この楽器はもう仕上がった。次の調律に移る』と。……それから、こうも」

 道場主は、遠くを見る目になった。

「『いい素材を見つけた。今度のは、締めがいがある』と」

 いい素材。締めがいがある。

 俺の背中を、雨上がりの冷気とは別のものが降りた。次の調律。教団の楽譜は、もう次の頁をめくっている。その頁に書かれた音符の名前を、俺はまだ知らない。知らないが、候補の一覧なら、嫌になるほど絞れている。

 ――麦月十六日。準々決勝。

 空は洗い立ての青で、観客席は満員だった。ジェスターの相手は「疾風のカザン」。貼り紙の名前遊びで、いつかあいつが読み上げた名前である。二つ名のとおりの速さ自慢で、そして速さ以外も揃った、まっとうな強敵だった。

 まっとうな、というのが今日の眼目である。

 試合前夜、俺は約束どおりカザンの宿の裏まで「音」を聞きに行った。素振りの音は、揺れていた。疲れて遅れ、呼吸で戻り、力むと乱れた。生き物の音だった。俺は安心して帰り、今朝は安心して観客席に座っている。この安心の値段は、誰にも請求できない。

 試合は、快晴の空によく似合う内容になった。

 カザンは速い。ジェスターは、その速さを正面から受けて、受け切って、中盤から拍子を握った。二回戦で通じなかった三拍子が、生き物の相手には綺麗に通る。終盤、二人の打ち合いは観客の手拍子を呼び、手拍子の中で、あいつの剣がカザンの剣を高々と巻き上げた。

 今日の数え方は「巻き上げ」である。あいつは今大会、相手の得物を三度、宙に舞わせている。グオルグの大剣、カザンの剣、そして予選見学の時に見た誰かの何か――と教室の生徒たちが数え始め、三度目の男が「二度だろ」と訂正し、四度目の男が「いや三度だ、賭けてもいい」と言い出し、五度目の男が「何を賭ける」と応じて、話が試合から離れていった。祭りの観客というのは、数えることと賭けることで出来ている。

 決着。文句なしの、まっとうな勝負だった。

 カザンは巻き上げられた自分の剣が落ちてくるのを眺め、落ちてから、大の字に寝転がって笑った。客席は今日、ためらいなく沸いた。二日前に置き場を失った祭りの興奮が、まとめて払い戻された音だった。

「――ベスト4! ベスト4だぞ、おい!」

 麦酒の親父が、俺の背中を規定の三倍の力で叩いた。

 東の山でも、番狂わせが起きていた。ドヤールが、準々決勝を勝ち上がったのである。相手は推薦枠のA級で、下馬評は十対一。講談師は開幕の口上で客を全部取り込み、中盤の劣勢を「ここからが雷鳴の本領!」の一声でひっくり返し、最後は気迫の押し出しで決めた。勝った瞬間、外套を三回翻した。三回とも成功した。本人史上初の快挙である。

 これでベスト4は、ジェスター、ドヤール、推薦のもう一人、そして――東の頂点、ソロ・アダマス卿。準決勝は、ドヤールが卿と、ジェスターが推薦のもう一人と当たる組みになる。講談師と近衛騎士団長。あの取り合わせを想像すると、今から楽屋の口上が楽しみで、そして少し、胃が痛い。

 昼飯は、いつもの食堂が祝賀会場になった。

 そして、ここからが本日の後半の見世物である。ジェスター・クラウンは、勝った日に、食う。

「親父さん、大盛りで」

「おう、任せな!」

「あと、串を四本と、芋の煮付けと、パンを二つ。それから――」

「まだいくのかよ!」

 湯気の向こうで、陽色の髪の優男が、上品な顔のまま、荷車一台分の飯を順序よく畳んでいく。初見の客が二度見し、三度見し、賭けを始める。あの細身のどこに入るのか、というのは、モトリーでも解決しなかった学術的難問である。

「相変わらず、いい食いっぷりだねえ」

「勝った日の飯は、うまいんだ」

「負けた日は」

「負けた日は、次に勝つための飯だから、もっと食う」

「どっちも食うんじゃねえか!」

 教室の笑いが弾け、つられて店中が笑った。二日ぶりに、あいつの周りに祭りが戻っていた。

 その祝いの輪の外で。

 俺は、店の入口に立った人影に気づいた。

 ミエルさんだった。監査の帰りらしい。だが、輪に入ってこない。入口で俺と目が合うと、小さく顎で外を示した。

 外に出る。ミエルさんは、往来の音で声が消える位置に立って、いつもの敬語で、いつもより低く言った。

「サイキ様。監査の続報です。例の三重の迂回の金、南区の星が敗れた日の夜に、全額、引き上げられました」

「賭けは外れたはずでは」

「外れた金は、戻りません。引き上げられたのは、まだ賭けられていなかった残りの金です。そして今日の昼――」

 ミエルさんの目が、店の中の、笑っている陽色の髪を一度だけ見た。

「――同じ癖の迂回で、新しい賭けが立ちました。決勝の勝敗、ではありません。『無名戦の最終日に、無名の七が勝ち残っていること』。……そこに、前回と同じ額が」

「……妙な賭けですね。無名戦は裏の名物でしょう。そんな相場が立つんですか」

「立ちません、普通は。ですから胴元が新しく樽を用意しました。用意させた金がある、ということです」

 ミエルさんは、帳面を開かずに続けた。開かない、ということの意味を、俺は後で知ることになる。

「サイキ様。金は、噓をつくのが下手です。この金は、無名の七という方に、最後まで舞台の上にいてほしがっています。理由は書いてありません。ですが――勝たせたい金の隣には、いつも、戦わせたい相手がいます」

「……忠告として、承ります」

「忠告ではありません。監査の中間報告です。報告先は、私が決めます」

 報告先は、私が決める。監査人の職分を半歩踏み外した一言を、この人は罫線の顔のまま言った。言ってから、一礼して、雑踏に消えた。

 無名の七が、最後まで勝ち残っていること。

 教団の金は、俺の名前のない名前に、張られていた。

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