【第二巻】第七章 調律(三)
雨は、夜半に本降りになった。
ジェスターは眠っていた。眠りの浅い夜だろうと思っていたが、あいつは悩みごとを体力で解決する型の人間である。悩んだまま素振りを二百本やって、飯を大盛りで食い、倒れるように寝た。健全というのは、ああいう肉体の使い方を言うのだと思う。
寝る前に、一度だけ、暗がりから声がした。
「……ヨウタ。起きてるか」
「起きてる」
「明日の見舞い、何を持っていけばいいと思う」
「見舞いの定番なら、果物か、花だ」
「そうか。……あの人、果物は食えるかな。飯を食わなくなってた、って噂だったろ」
「…………粥にしよう。婆さんのパンの残りで、パン粥が作れる」
「いいな、それ。うん。それがいい」
安心した息が一つ聞こえて、それきり寝息に変わった。倒した相手の食事の心配をしながら眠る優勝候補というものを、王都の賭け屋はまだ知らない。知らないまま倍率をつけている。いい商売だ。
俺は眠れなかった。
眠れないので、窓辺で雨を見ながら、いつもの帳簿ではない頁を開いてしまった。開けるつもりのなかった頁である。
――調律と、俺は、何が違うのだろう。
今日、俺は人がひとつ、壊れるのを見た。三月で「並」から「化け物」に整えられ、絞られ、切れた男である。あの男の三月と、俺の十七年を、比べる必要はない。ないのだが、比べてしまうのが夜というものだ。
俺の力は、物心ついた時からあった。修行をした覚えがない。師匠もいない。剣も棒も、初めて握った日から、こうだった。的は当てれば消え、剣は受ければ折れ、十五の年に一度だけ全部を出しかけて、噂の中で化け物になった。
力を数えなくなって三年、俺は自分の力を「在庫」として扱ってきた。出所を問わない在庫である。倉庫番は在庫の出し入れだけ管理して、仕入れの伝票は見ない。見ないで済んでいたのは、伝票の存在を疑う機会がなかったからだ。今日、俺は伝票というものがこの世にあるのを見てしまった。三月前の南区で、誰かが一枚、切ったのを。
問おう。俺の弦は、誰が張ったのか。
仮に、誰も張っていないとする。生まれつきだとする。すると俺は、生まれつき、人間の帳簿の外にいることになる。外にいる者が、内側の帳簿を毎日つけて、内側の顔で暮らしている。この仮定は、俺の三年間の実務と矛盾しない。矛盾しないが、証明もされない。
では仮に、誰かが張ったのだとする。
俺の知らない時に。俺の覚えていない場所で。あの師範代が三月で整えられたように、もっと幼い俺が、もっと長い時間をかけて――
……この仮定を進めると、二つの問いが同時に立つ。誰が。そして、俺の曲は、どこまで書かれているのか。
思い出すのは、モトリーの夜に読んだ、あの黒い手帳である。教団の観測者が几帳面な字で埋めた頁の、最後の一行。――設計者の欄が、空白のままである。あの男は、モトリーの平和の設計者を探して、名前のない欄を一つ残して去った。あの空白は、俺の形をしていた。
空白、という言葉を、今夜の仮説に重ねてみる。設計者の欄が空白なのは、俺の仕業の側だけではない。俺という帳簿そのものが、最初の頁から空白なのだ。生まれ、力、名前の由来。俺の台帳の冒頭には、記入者不明の白紙が何枚か綴じられている。白紙の上に、俺は三年かけて「雑用係ヨウタ」を手書きしてきた。手書きの下に、誰かの印刷が透けていないかどうか。それを確かめる術を、俺はまだ持っていない。
背理法で潰そう、と俺の帳簿方が言った。仮に俺が誰かの楽器なら、弦はとうに切れているはずだ。あの師範代は三月で切れた。俺は十七年、切れていない。よって俺は楽器ではない。証明終わり。異議のある者は挙手を。
挙手が一つあった。俺である。
……とはならないのが、今夜の困った所である。三月で切れる張り方と、十七年保つ張り方が、同じ工房の仕事でない保証はどこにもない。急いで沸かした湯は冷めやすく、ゆっくり沸かした湯は冷めにくい。それだけのことかもしれないのだ。熱の出入りの理屈は、湯にも人にも、たぶん等しく適用される。ゆっくり温められた俺は、自分が温められたことにすら、気づかないままでいられる。
雨音が、屋根の上で等間隔に揃い始めた。
揃うな、と思った。雨まで十六拍に聞こえる夜は、精神衛生に悪い。
……いや。
揃っているのではない。俺の耳が、揃いを探しに行っているのだ。今日から俺の耳は、音の中に「整えられたもの」を探す耳になってしまった。一度手に入れた測り方は、返品が利かない。
俺は頁を閉じることにした。閉じる前に、事務として二行だけ記帳しておく。
一行目。俺の力の出所は、不明のまま保留。ただし「誰かが張った」可能性を、初めて仮説の棚に正式登録する。棚の名前は「開かずの抽斗」でいい。開ける鍵が見つかるまで、開けない。
二行目。仮に俺が誰かの楽器だとしても――弾く者は、俺が決める。今日までも、これからもだ。俺の棒が誰のために振られるかは、楽譜ではなく、俺の帳簿が決めてきた。この一点だけは、証明抜きで採用する。証明抜きの採用を、世間では信念と呼ぶらしい。呼び名は何でもいい。
頁を閉じた。閉じた音の代わりに、雨が一段強くなった。
――と。
その雨音の中に、鈴の音が、ひとつ混ざった。
窓の下の路地である。俺は灯りを消したまま、窓の縁から目だけを出した。
雨の路地に、まだら服が立っていた。
傘もささず、三叉帽から雨垂れを落として、トリルが、宿の向かいの軒下にいた。いや――立っているのではない。誰かと話している。軒の陰にもう一人、小柄な人影。外套の形も顔も、雨と闇で読めない。
会話は聞こえない。聞こえないが、トリルの手だけが見えた。道化の手は、雨の中で、ゆっくりと三つの動作をした。
一つ。闘技場の方角を指す。
二つ。首を、横に振る。
三つ。自分の顔の前に手のひらをかざし――仮面を、着ける仕草。
人影が、頷いた気配がした。そして軒の闇の中へ、溶けるように消えた。トリルはしばらく雨の中に立っていたが、やがて三叉帽の鈴を一度だけ鳴らして、大路の方へ歩き去った。
雨だけが、残った。
……今のは、何の取引だ。
闘技場。否定。仮面。三つの手振りを、俺は頭の中で並べ替える。並べ替えても、確定する読みは出ない。出ないが、一つだけ確かなことがある。あの道化は、雨の夜に、鈴を鳴らさずに人と会う技術を持っている。会っていた相手も、雨の夜に、音もなく消える技術を持っていた。
王宮付きの道化。無名戦の口上役。作法の管理人。そして――夜の取引者。
トリルの帳簿には、俺の知らない頁が、まだ何枚もあるらしい。
敵か、と問えば、根拠はない。味方か、と問えば、それも根拠がない。ただ、あの三つの手振りのうち、二つ目の「否定」だけが、妙に強かった。何かを断ったのだ、あの道化は。雨の中で、傘もささずに会うような相手の、何かの申し出を。断り方の強さは、断った内容の重さに比例する。比例するとすれば、あの首の振り方は、かなり重い何かを断っていた。
願わくは、断った側が、こちらの岸でありますように。
祈りに似た何かを一行だけ記帳して、俺はこの件も保留の棚に載せた。保留の棚が、今夜だけでずいぶん賑やかになった。
俺は寝台に戻った。戻って、天井を見た。
隣の寝台の寝息は、規則正しく、しかし等間隔ではなかった。時々深くなり、時々止まりかけ、寝返りで乱れて、また戻る。生き物の拍子である。この不揃いを聞いていると、耳の測り癖が少しずつ緩んでいくのが分かった。処方箋としては上等の部類である。効能、安眠。用法、隣で眠る幼馴染一名。入手経路、十年前から常備。
明日は南区の道場に行く。切れた弦の見舞いと、張り替えた指の跡の調査。それから、次の相手の音を聞きに行く算段。仕事は山積みである。山積みなのが、今夜だけは、ありがたかった。
開かずの抽斗は、仕事の山の一番下に沈めておくに限る。
雨は、朝まで降り続いた。




