【第二巻】第七章 調律(二)
後半は、前半の続きから始まらなかった。
構えを見た瞬間に分かった。師範代の剣が、もう一段、上がっている。十六拍が十八拍になった、という意味ではない。拍の一つ一つが、深くなった。踏み込みが半歩ぶん遠くから届き、払いが半寸ぶん鋭く曲がる。整えられた最大が、いよいよ楽譜の主題に入ったのだ。
北側の日陰で、灰色の指が、大きく動いた。
ジェスターは、受けた。
受けて、受けて、受けた。三合目で籠手の端を掠られ、五合目で外套の裾を裂かれた。それでも足だけは下がらない。下がらない足が、じりじりと削られていく。観客席は、もう歓声を忘れていた。六万人が、音を立てずに、一方的な演奏を聴いている。
「……クラウンの、兄ちゃん……」
親父の声が掠れていた。ミエルさんは帳面を閉じ、両手を膝の上で組んでいた。祈りの形に似ていたが、あの人のことだから、たぶん検算をしている。俺は――
俺は、西の中段の定席で、指の一本も動かせずにいた。
動かせないのだ。ここは王都の大闘技場で、四隅には公正の目が回り、六万の目が鉢の底を見ている。落石も、仲間割れも、道に迷う魔物も、ここには呼べない。俺の三年間の目録は、この鉢の中で一頁も開けない。開けないと分かっていて、それでも指が目録をめくろうとする。めくりかけては、止める。その繰り返しだけが、俺の「観戦」だった。
十九合目だった。
音が、変わる。
師範代の剣が、ジェスターの剣を巻き上げるように払った、その瞬間である。がん、という濁った音がして、あいつの剣が半ばから大きくしなり、体勢が崩れた。客席が悲鳴の形に息を呑む。師範代の次の一拍が、崩れたあいつの肩口へ、正確に振り下ろされ――
止まった。
剣が、止まったのではない。
剣士が、止まったのだった。
振り下ろしの途中の姿勢のまま、南区の星は、彫像になった。一拍、二拍。何も起こらない。三拍目に、その右腕が、目に見えて震え始めた。震えは肘へ、肩へ、全身へ広がり、剣先ががくがくと踊り、そして――男は、膝から崩れた。
どう、と音がした。
六万人の静寂の中で、それはひどく大きく聞こえた。
審判が駆け寄る。医師が呼ばれる。ジェスターは、崩れた相手に真っ先に駆け寄ろうとして、審判に制された。制されて、それでも去らずに、輪の外で膝をついた。
俺は、北側の日陰を見た。
灰色の指は、もう動いていなかった。動いていない指の上で、フードの奥の顔が、ゆっくりと、満足げに頷くのが見えた。頷いてから、灰色は立ち上がり、観る価値のあるものはもう何もないという足取りで、静かに人混みへ消えた。
弦が、切れたのだ。
曲の途中で。いや――たぶん、あれが曲の終わりだった。楽譜は最初から、あそこまでしか書かれていなかった。ジェスターの全力を最後の一小節まで搾り出させ、記録し、そして楽器の寿命が来た。測定は完了。演奏会は終わり。会場費は前払い。
担架が、南区の星を運んでいく。
意識はあるらしい。あるのに、目は開いたまま、何も見ていなかった。幕の下りた後の、誰もいない客席の目。あの目のまま、細い声で、何かを繰り返し呟いているのが、風の加減で一度だけ、西の中段まで届いた。
――まだ、振れる。まだ、振れる。
拳が、膝の上で音を立てた。俺の拳である。
行儀のいい言葉で今の気分を書く方法を、俺は知らない。知らないので、行儀の悪い帳簿を一行だけつける。上等じゃないか。人ひとりを弦に張り替えて、切れるまで弾いて、切れたら頷いて帰る。その一部始終を、俺は指一本動かせずに、いい席で拝見していた。世界で一番高い見物料を払った気分である。払った相手に、いつか必ず、領収書を書かせる。
周りの席では、六万人ぶんの困惑が、ざわめきに変わり始めていた。
「祭りの興奮ってのはよ、こういう時、どこに置けばいいんだろうな」
親父が、誰にともなく言った。誰も答えなかった。ガスは腕を組んだまま目を閉じ、リリは膝を抱えて、担架の消えた通路の暗がりを見ていた。ミエルさんだけが、閉じた帳面を開き直し、静かに何かを記帳した。後で聞いたら、時刻を書いたのだという。「倒れた時刻は、証言として価値を持ちますので」。この人の祈り方は、いつだって記録の形をしている。
裁定が、下りた。
続行不能により、ジェスター・クラウンの勝ち。
旗が上がっても、歓声は起こらない。まばらな、途方に暮れた拍手が、鉢の中に所在なく散った。勝ち名乗りの位置で、ジェスターは動かなかった。動かないまま、担架の消えた通路を、ずっと見ていた。
やがてあいつは、審判に何かを告げ、深く一礼して、舞台を降りた。
勝者の花道を、俯いて歩く勝者だった。
その日の夕方、無名戦は行われた。
俺は勝った。相手が誰で、どう勝ったのか、正直、細部の記憶が薄い。白湯の勝ち方の手順だけが、体の外側で勝手に仕事をした。手順を組んでおいてよかったと、初めて心の底から思った。頭の中身が留守でも、工程は回る。工程とは、そういう時のためにある。
控えの廊下で、トリルとすれ違った。道化は何も言わなかった。言わずに、三叉帽の鈴をひとつ、指でつまんで、鳴らないように押さえて見せた。今日は鳴らす日じゃない、という意味に、俺は勝手に受け取った。あの道化の弔意は、たぶんああいう形をしている。
夜、宿の部屋で、ジェスターは窓の外を見ていた。
卓の上には、手つかずの夕食が二人分。俺は椅子に座って、あいつの背中の帳簿をつけていた。今夜の背中は、読みやすくて、読みたくない頁だった。
「……ヨウタ」
「ここにいる」
「勝った、って言うのかな。今日のは」
「裁定は勝ちだ」
「裁定は、な」
あいつは振り向かなかった。
「あの人、最後、俺の剣を巻き上げた。あそこまで、全部あの人が上だった。……なのに、倒れたのはあの人で、勝ったのは俺だ。……こんな勝ち方が、あるのか」
あるのだ。作られた強さには、作った者の都合で終わる仕組みが、最初から埋め込まれている。と、俺は知っている。知っているが、言えない。言えば、なぜ知っているのかの帳簿を開くことになる。
「医務所には行けたのか。容態は」
「命に別状はない、と。ただ……医師が言ってた。腕の筋も、目も、どこも壊れていないのに、あの人はもう、剣を握れないだろうって。握り方を、体が忘れてるんだと」
握り方を、体が忘れる。
三月ぶんの「整え」の、精算である。
「医務所の前で、少しだけ話せたんだ。意識が戻った時に」
あいつは、窓の桟を握った。
「俺の顔を見て、言ったんだ。『勝ったのか、俺は』って。俺が首を振ったら、あの人、少しだけ笑って……『そうか。じゃあ、返さないと』って」
「返す?」
「分からない。それきり、目を閉じた」
返さないと。借りたものがある側の言葉である。三月前に、あの人が何かを借りて、対価に何かを差し出した。その取引の証文を、俺は明日、探しに行くことになる。
「なあ、ヨウタ。俺は明日、南区の道場に行こうと思う」
あいつは、ようやく振り向いた。
「あの人の、見舞いに。……変かな。倒した相手の見舞いなんて」
「変じゃない」
俺は即答した。即答してから、付け足した。
「俺も行く」
見舞いは本心である。ついでに、と言うには重すぎるついでも、俺にはあった。切れた弦の傍には、弦を張り替えた者の指の跡が、まだ残っているはずだった。
あいつが寝床に入った後、俺は窓辺で、今夜の帳簿を締めた。
締めながら、決めたことが二つある。一つ。あの灰色の男の楽譜を、これ以上この祭りで演奏させない。方法は明日から探す。二つ。あいつの次の相手が誰であれ、試合の前夜に、俺は相手の「音」を必ず聞きに行く。整えられた音かどうかは、塀の外からでも分かる。分かる耳を、俺はもう持ってしまった。
窓の外で、雨の最初の一粒が、屋根を叩いた。
予報どおりの雨である。天気だけは、楽譜のとおりに降る。




