【第二巻】第七章 調律(一)
麦月十四日、二回戦の朝は、薄曇りだった。
雲の列は予報どおり近づいていたが、雨はまだ落ちてこない。落ちてこない雨というのは、落ちる雨より人を落ち着かなくさせる。観客席は初日より埋まるのが早く、賭け札を握る手が多く、そして西の中段の俺の定席の周りには、いつもの顔が全員揃っていた。麦酒の親父、教室の生徒、ガスとリリ、監査を半日抜けてきたミエルさん。ドヤールだけは東の山の二回戦が同刻で、「雷鳴の轟きを聞き逃すなよ」と言い残して控えに消えた。
ジェスター対南区の星は、昼の一番である。
「なあ従者の兄ちゃん、倍率見たかい。ひどいもんだぜ」
麦酒の親父が、今日は麦酒抜きの顔で言った。
「兄ちゃんの相棒が勝つ方に張って、実入りは雀の涙。星の方は、朝からまた大口が入ったとよ」
「大口、ですか」
「ああ。素人の張り方じゃねえって、賭場の若いのがぼやいてた。……気味が悪いよな。祭りの金ってのは、もっと馬鹿みたいに散らばるもんだ」
ミエルさんが、帳面から目を上げずに言った。
「散らばらない金の話は、監査でも進行中です。本日の観戦は、その実地調査を兼ねます」
「調査ってあんた、試合を見て何が分かるんだい」
「金が何を買ったのかが、分かります」
金が何を買ったのか。その答え合わせを、これから六万人が見物するわけである。
開始までの半刻、俺は観客席の帳簿をつけた。貴賓席に王の姿はなく、近衛の白銀が一領。ソロ・アダマス卿は今日も定位置で、定位置のまま静かだった。組んだ籠手の上に顎を載せる、あの姿勢。全出場者を記憶する男が、今日の昼の一番をどう帳簿につけるのか、俺は半分、商売敵の気分で見ていた。
そして、もう一つ。
北側の日陰の席に、灰色があった。
灰の外套。フードの下の、ゆっくり動く白い指。あの夜の男である。指は膝の上で、何かの拍子を数えるように、規則正しく揺れていた。
教団の術者が、観客席で、指揮を執っている。
証拠はない。あるのは、南区の塀の外で聞いた声と、あの指の拍子が、これから始まる試合の主導権をもう握っているような、嫌な確信だけである。
銅鑼が鳴った。
「昼の一番! 西の山、二回戦!」
トリルの口上が、鉢の底から立ち上がった。
「東より、南区の星! ひと月で化けた男、その剣は時報より正確! 西より、ジェスター・クラウン! 鈴の輪の旗の下、対策は『しない』と天下に公言! ――さあ、正確と正直、どちらが強いか、とくとご覧あれ!」
正確と正直。あの道化、商売の口上で本質を言い当てていく。
両者が入場した。師範代は、予選と同じ顔で歩いてきた。顔というより、顔のなさで歩いてきた。ジェスターは、いつも通りだった。客席に手を振り、旗に一礼し、剣を抜いて、構えた。
旗が、振られた。
初手から、違った。
師範代の剣が、予選の三割増しで来た。等間隔の、あの十六拍。刃引きの剣が空気を裂く音が、正確に、正確に、正確に重なる。ジェスターは受けた。受けて、いつもの拍子を差し込もうとした。
入らない。
差し込む隙間、つまり人間の剣が必ず持つ「継ぎ目」が、あの十六拍にはないのだ。疲れで遅れない。呼吸で揺れない。感情で乱れない。グオルグ戦であいつの武器だった三拍子は、継ぎ目のない壁に弾かれて、宙に浮いた。
観客席が、静かになっていく。
素人目にも分かるのだ。何かが、おかしい。人間と人間の試合は、押して引いて、乱れて戻って、波の形をしている。今、鉢の底で起きているのは、波と防波堤である。
あいつは、それでも工夫をやめなかった。三拍子が駄目なら二拍子。二拍子が駄目なら、拍子そのものを崩した変則。剣速を落として誘い、落とした分を足で補い、一度は師範代の小手すれすれまで剣先を届かせた。届いた、と客席が沸きかけた瞬間、十六拍の十三拍目が、あいつの剣を正確に払った。
払われても、あいつは下がらない。下がらないことだけが、今のあいつの反撃だった。
俺の頭の中で、観察の帳簿が勝手に論文の体裁を取り始める。本試合の中間報告。仮説一、対象の剣は外部の拍子に従属する。根拠、北側日陰の指揮と半拍の先行同期。仮説二、対象の防御は完璧だが、完璧であることそのものが不自然である。人間の防御には必ず「賭け」が混ざる。賭けのない防御は、防御ではなく再生である。あらかじめ決められた楽譜の、再生。
考察。ならば楽譜にない音は、どう処理される。
これが本日の、俺の研究課題だった。
「……クラウンの兄ちゃん、押されてる、よな」
「押されてるっす。というより――」
ガスが、解説の声を落とした。
「――削られてるっす。あれ、受けるたびに腕に来るやつっす」
リリは、寝ていなかった。目を開けて、身を乗り出して、それでも何も言わなかった。言葉になる前の違和感で、眉だけが動いていた。
俺は、数えていた。
十六拍。静止、呼吸半つ。また十六拍。塀の外で聞いたあの楽譜が、そっくりそのまま、あいつの上に降っている。予選で三割落としていた速度は、全部戻っていた。戻った上で、まだ余裕がある。あの剣士の「整えられた最大」を、俺はまだ見ていない。
そして北側の日陰で、灰色の指が、揺れ続けている。
拍子と、指。重ねて見ると、分かった。指が先で、剣が後だ。半拍だけ、指が先行している。
あれは応援ではない。あれは――演奏である。
前半、ジェスターは守勢のまま終わった。
中入りの銅鑼が鳴り、両者が距離を取る。あいつの息は上がっていた。籠手の上の腕が、細かく震えている。削られた分である。それでも、あいつの目は死んでいなかった。死んでいないどころか、困っているのに、輝いていた。
水を飲み、汗を拭い、あいつは客席を見上げて――笑った。心配するな、の顔である。六万人へ向けた顔だが、俺は知っている。あの顔は昔から、一番心配な時に出る。八つの頃、木から落ちて腕を折った日も、あいつはあの顔で「平気だ」と言った。平気の在庫が切れている時ほど、あの顔は明るい。
「兄ちゃん、こりゃ、まずいんじゃねえのか」
「まずいっすね。後半、あのままだと」
教室の面々の声が重い。リリだけが、ぽつりと言った。
「……でも、あの人、まだ楽しそう」
楽しそう。たしかに、困って、削られて、それでもあいつの構えには、宴の骨組みが残っていた。強い相手と打ち合えている、という骨組みが。あれが折れない限り、あいつの試合は終わらない。
「なあ、ヨウタ」
と、隣で急に声がした。ミエルさんではない。教室の生徒でもない。いつの間にか、俺の右隣の席に、鈴の音もなく、まだら服が座っていた。
「……トリル。口上は」
「中入りは休憩さ。あたしも観客をやる」
道化は、売り子から買った炒り豆を一粒、口に放り込んだ。
「時に旦那、『調律』って言葉を知ってるかい」
豆を噛む音の合間に、世間話の顔で、その単語が置かれた。
「……初対面の相手に、ずいぶん気安い世間話ですね」
「初対面かい? おっと、そうだったかもしれないね。あたしはほら、口上役だから、客席の顔はみんな常連に見えるのさ」
見えるのさ、で済ませる顔ではなかった。済ませておくのが作法らしいので、俺も済ませることにした。
「――で、調律。楽器の、ですか」
「そ。弦の張りを整えて、正しい音に合わせる。ところでこの『正しい音』ってのが曲者でね」
トリルは、豆をもう一粒つまんで、講釈の指を立てた。
「昔の調律は、響きの綺麗さで合わせた。純正の律だ。和音が水みたいに澄む。……ただし、この合わせ方には欠点がある。ひとつの調で完璧に澄むように合わせると、別の調に移った途端、濁るんだ」
「それで」
「後の時代の調律は、全部の調を等分に、少しずつ濁らせることにした。平らに均す律だ。どの曲でも弾ける。便利だよ。便利だが――どの和音も、ほんの少しずつ、嘘をついてる」
完璧に澄む代わりに、一つの曲しか弾けない律。少しずつ濁る代わりに、何でも弾ける律。
「……その話、今の試合と関係が」
「さあね。あたしは豆の話の続きに、律の話をしただけさ」
豆の話などしていなかった。していなかったが、道化の目は、鉢の底ではなく、北側の日陰の灰色を、まっすぐに見ていた。
「――ひとつの曲のためだけに、澄むまで締め上げられた弦はね、旦那」
トリルの声から、初めて、笑いの衣が抜け落ちた。
「曲が終わったら、切れるのさ」
後半の銅鑼が、鳴った。




