【第二巻】第六章 王都の夜(三)
その夜、俺たちは麦酒の親父の店にいた。
親父は観客席の常連であると同時に、大路の裏で酒場をやっている。教室の生徒が受け持ちの席に、ドヤール一行と、監査帰りのミエルさんまで加わって、卓は満員だった。名目はドヤールの本戦初戦の祝勝会である。名目、と言ったのは、講談師の宴に名目以上のものが要らないからだ。
モトリーを出て二十日足らずで、王都の酒場に「いつもの席」ができている。あいつの人徳の複利は、相変わらず利率がおかしい。俺はその複利の隅で、利息のおこぼれのように席を一つもらっている。悪くない配当である。
「――というわけでだ! 明日、俺様は二回戦、クラウンも二回戦! 東西の山で雷鳴と鈴が鳴る、豪華二本立ての興行というわけよ!」
ドヤールの音頭で麦酒が回り、ガスが黙々と皿を均等に分配し、リリは早くも壁際で船を漕いでいた。ミエルさんは果実水で、帳面を膝に置いたまま宴に参加するという新しい様式を開発していた。時々、宴の会話の何かが帳面に書き足されるのが見えたが、何が記帳の対象なのかは謎である。
宴の中盤には、ドヤールの新作講談が披露された。題して「雷鳴、王都に轟く・初戦の段」。本人の今日の試合を本人が講談にするという、手前味噌の極みのような演目だったが、これが妙に面白い。自分の失敗――口上の途中で舌を噛んだ――まで筋に織り込んで、笑いに変えて、最後は勝ち名乗りで締める。手前味噌は、味噌の質が良ければ手前でも売れるのである。
「……というわけで、雷鳴は轟いた! 明日も轟く! 以上、木戸銭は麦酒でいい!」
喝采。麦酒が三杯、舞台代わりの椅子の足元に集まった。講談師の稼ぎ方は堅実である。
「クラウンの兄ちゃん、明日は南区の星とだろ。どう戦うんだい」
教室の生徒が身を乗り出す。ジェスターは麦酒を一口――この男の限界は一杯である。一口で頬が薄赤い――含んでから、いつもの調子で答えた。
「全力でやる。それだけだ」
「対策なしかよ!」
「対策はしない。あの人の剣とまっすぐ打ち合って、それで届かないなら、俺のA級はまだ早いということだ」
「言うねえ! よし、俺は明日も兄ちゃんに賭けるぜ」
宴の温度が上がっていく。俺は卓の端で、干し杏の残りを摘まみながら、話の流れの水位だけを見張っていた。見張っていた、のだが。
流れというものは、見張っている場所以外から溢れる。
「時にクラウンよ」
ドヤールが、麦酒のジョッキを置いて、講談の呼吸で切り出した。
「貴様、無名戦の七番に岡惚れしてるって噂は本当か」
「岡惚れ?」
「観客席で身を乗り出して、拍手して、追いかけ回してるって聞いたぜ。祭りの噂は足が速いんだよ」
卓の視線が、一斉にジェスターへ集まった。俺は干し杏を、噛まずに飲み込んだ。
「岡惚れという言い方は変だが――すごい人だとは、思ってる」
ジェスターは、否定しなかった。しないのである、こいつは。
「へえ! あの運だけの仮面がかい」
「運じゃない」
声の強さに、卓が少し静かになった。あいつは慌てて声量を戻し、しかし言葉は戻さなかった。
「運じゃないんだ。あの人の強さは、見えないように出来てる強さなんだ。うまく言えないが……ああいう強さを、俺は他に一人しか知らない」
一人しか。
干し杏が、喉の途中で止まりかけた。おい、待て。その先は言うな。言うなよ。
「誰だい、そりゃ」
「内緒だ」
あいつは笑って、麦酒の残りを――飲まずに、卓に置いた。置いてから、宴の喧噪のただ中で、実に自然な、湯を注ぐような動作のついでみたいな調子で、言った。
「だから俺、決めてるんだ。この祭りで勝ち進んで――顔合わせの一戦で、無名の七の人と戦う」
一瞬、宴が止まった。
止まってから、爆発した。
「言ったな! 言ったぜこいつ!」
「公言かよ! おい、聞いたか皆!」
「聞いた聞いた!」
ドヤールが立ち上がり、講談師の声量で店中に触れ回る。曰く、西の山の新星ジェスター・クラウン、本戦優勝候補への挑戦に先んじて、仮面の挑戦者との一戦を天下に予告! 店の客が沸き、誰かが酒を追加し、賭け屋の若いのがいそいそと帳面を出した。その帳面に何の相場が立つのかは、考えたくもない。
「おいおい、本戦を勝ち進まないと顔合わせは組まれないんだろ?」
「そうだ! つまりこれは、二重の宣言というわけよ! 勝ち進む宣言と、仮面への果たし状! 講談の筋が良すぎるぜ、クラウン!」
「筋で言ったんじゃないんだが……」
「兄ちゃん、なんでまた仮面の人なんだい。相手の顔も名前も分からないんだろ」
教室の生徒の一人が、もっともな質問をした。ジェスターは少し考えて、答えた。
「顔と名前が分からなくても、剣は分かる。……逆かもしれないな。顔と名前がないから、剣だけが分かる。あの人と打ち合えば、剣と剣だけの話ができる気がするんだ」
「変わってるねえ」
「よく言われる」
剣と剣だけの話。仮面の内側で聞いたら、たぶん、悪い気はしない台詞である。悪い気がしない、と感じてしまった自分の帳簿を、俺は慌てて締め直した。当事者が相場に参加してどうする。
当の本人は、酒場の熱狂を少し持て余しながら、それでも取り消さなかった。取り消さない横顔が、篝火の色で照れとも決意ともつかない色に焼けていた。
俺は。
俺は、卓の端で、干し杏の種を握りしめていた。
公言された。衆目の前で。取り消しの利かない形で。あいつの性分では、口にした以上、必ずやる。つまり、あいつは勝ち進む。勝ち進んで、顔合わせの一戦を要求する。相手は無名の七。無名の七は、俺である。
この因果の紐を、どこかで切る方法はないか。帳簿方が高速で頁をめくる。仮面が途中で負ければいい? だが仮面が負けて消えれば、無名戦側から調律の剣士を検分する目論見ごと消える。では顔合わせの当日、仮面が「辞退」すれば? 駄目だ。公言まで出た顔合わせを断れば、断った理由の詮索が始まる。詮索は御法度だが、御法度は人の口に鍵をかけないと、これは俺自身が書いた条文である。そもそも明日の二回戦、あいつは整えられた剣と当たるのだ。俺の仕事は明日が山場で、山場の向こうには、今夜生えたばかりの新しい山が、もう次の山場の顔をして待っている。
――ん。
待て。
俺は今、途方もなく嫌な符合に気づいた。
教団は、あいつの全力を測りたい。測るには、あいつが全力を出す相手が要る。整えられた師範代は、その第一候補だった。だが今夜、あいつは公衆の面前で宣言してしまった。「仮面の七番と戦いたい」。あいつの全力を引き出す相手として、これ以上の指名があるだろうか。
教団の楽譜に、今夜、新しい音符が書き足されたとしたら。
その音符の名前は、無名の七である。
「――どうした、おい荷物。顔が白いぜ」
「……飲みすぎです」
「果実水でか?」
ドヤールの突っ込みを受け流しながら、俺は窓の外を見た。祭りの夜空に、昼間の雲の列が、少しだけ厚くなって広がり始めていた。
避けようとする動きが、かえって的を立てる。そういう種類の因果があることを、俺は今夜、全身で学習した。学習したところで、既に的は立っている。
帰り際、店の前で、ミエルさんが俺の隣に並んだ。
「サイキ様。今夜の公言、台帳的には、三つの相場を動かします」
「三つ」
「一つ、クラウン様の優勝倍率。二つ、無名の七の勝ち残り倍率。……三つ目は、口にしないでおきます。口にすると、私の帳面に書かなければならなくなりますので」
「書かない主義ですか」
「閉架の技術は、モトリーで習得しました」
罫線の目が、ほんの一瞬だけ、俺の全身を、上から下まで静かに通過した。棚卸しの目である。何を数えられたのかは、分からずじまいである。気のせいかもしれない。気のせいでないかもしれない。この人の視線は、どちらでも同じ顔をする。
「明日は、二つの試合を拝見します。昼の二回戦と――夕の、無名戦を」
「……ごゆっくり」
「はい。ごゆっくり、拝見します」
ミエルさんは一礼して、宿の方へ歩き去った。
宴は続く。あいつは笑っている。窓の内側の灯りの中で、公言した男は上機嫌に笑っていて、窓の外の俺は、厚くなっていく雲を数えていた。




