【第二巻】第六章 王都の夜(二)
その日の夕方、俺たちは思わぬ人物と、思わぬ場所で行き合った。
場所は闘技場裏の鍛冶屋通りである。ジェスターが明日の二回戦に備えて刃引きの点検を頼み、仕上がりを待つ間、俺は隣の店で棒の先の補修を頼んでいた。棒の先、と店の親父に言うと「杖かい」と聞かれ、「天秤棒です」と答えると、親父は何も聞かなかった。王都の職人は詮索をしない。詮索は隣の賭け屋の商売である。
刃引きの点検は、例の三軒目の親父の店だった。
「明日は南区の星とだろう。いい試合をしな」
「ああ。全力でやる」
「そうしてやんな。……あの師範代の剣もな、うちで刃引きを預かったんだよ」
親父は、砥石の手を止めずに、少しだけ声を落とした。
「持った瞬間、妙な剣だった。手入れは完璧なんだ。完璧なんだが、癖がない。癖ってのは、持ち主が剣と喧嘩したり仲直りしたりした痕でね。それが、一本もねえ。まっさらだ。三月で化けた腕ってのは、ああいうもんかね」
「剣は正直、ということですか」
「剣は正直だよ、従者さん。嘘をつくのは、いつだって持ち主の側だ」
嘘をつくのは持ち主の側。今日び、王都の職人は金言の安売りをしている。ミエルさんと合わせて、額が二枚増えた。
で、その帰り道だった。
鍛冶屋通りの外れ、人気の絶えた武具倉の前で、白銀の甲冑が、一人で立っていた。
従者も、供回りも、旗も、ない。近衛騎士団長ソロ・アダマス卿が、倉の壁に立てかけられた無銘の稽古槍を、ただじっと見ていた。
ジェスターの足が、止まった。
あいつの目は、開幕の儀式でも、貴賓席でも、ずっとあの白銀を追っていた。二十年無敗。膝をついたことがない。噂の乗り合い馬車が運んできた男が、いま、手を伸ばせば届く距離にいる。
「――卿、ですよね」
あいつは、声をかけてしまった。かけてしまうのである、こいつは。
白銀の甲冑が、静かに振り向いた。
近くで見る卿は、噂より小さく、噂より静かだった。白髪の混じる短髪。傷のない顔。四十代の体に、消耗の匂いがまるでない。強い、というのとは少し違う。減っていない、という印象だった。
「西の山の、クラウン殿か」
声も、静かだった。名乗ってもいないのに、名前が出た。ジェスターが目を丸くすると、卿は事実だけを付け足した。
「出場者の顔と戦い方は、全員分覚える。務めだ」
「三十二人全員を?」
「予選の二百人もだ。忘れる方が難しい。俺の頭は、戦いに関する事柄だけ、質の悪い倉になっている」
冗談なのか事実なのか、判定に迷う言い方だった。後で分かったことだが、この人の発言は全部、事実の側である。
「初戦を拝見した。良い拍子だった」
「見て――くださったのか!」
「務めでな。全出場者の初戦は見る。貴殿のは、二度見た」
二度。あいつの顔が、分かりやすく輝いた。俺は半歩後ろの従者の位置で、卿の言葉の帳簿をつけていた。二度見た、を照れも誇張もなく言う。この人の言葉には、飾りの重さが一匁もない。
「あの、卿。ひとつ、伺ってもいいだろうか」
「どうぞ」
「二十年、負けていないというのは、本当ですか」
直球であった。俺は胃のあたりを押さえた。卿は、気を悪くした様子もなく、少し考えて、答えた。
「二十二年だ」
「にじゅうに……」
「最後に負けたのは、十九の年。相手は俺の師匠で、その年に死んだ。以来、記録の上では負けていない」
「記録の上では?」
ジェスターが聞き返した。卿は稽古槍から手を離し、初めて、俺たちの方へ体ごと向き直った。
「クラウン殿。無敗という言葉を、貴殿はどう聞く」
「……強い、ということだと」
「そうだな。二十二年前の俺も、そう聞いていた」
夕日が、白銀の甲冑の上で、ゆっくり赤くなっていく。
「無敗というのはな、記録ではない。状態だ。俺が強くなるほど、挑む者は減った。挑む者が減るほど、残った者は俺に勝つ気で来なくなった。善戦が目標になり、一合保てば誉れになり、この頃では、俺と当たった時点で客に同情される。そういう状態を、二十二年、積んだ」
「それは」
「勝負というものは、二人でやるものだ。だが俺の試合は、もうずっと、一人でやっている。相手はいるが、勝負がいない。……無敗とは、勝負を失った者の記録だ」
淡々とした声だった。淡々としすぎていて、途中から、独り言に近くなっていた。たぶん、この話を最後まで聞いた人間は、この王都に幾らもいない。皆、途中で「ご謙遜を」と遮るのだろう。遮らずに聞く男が、目の前に一人いた。
「――卿は」
ジェスターの声は、静かだった。
「本気で挑まれたいのですね。勝つためじゃなく、勝負をするために」
卿の目が、僅かに、見開かれた。
「……ふむ」
沈黙が、五つ数える間、続いた。
「クラウン殿。貴殿、東の山に来ないか」
「組み合わせは変えられないと聞いています」
「冗談だ。近衛は冗談を言わないことになっているから、今のは独り言だがな」
ジェスターは、倉の壁の稽古槍に目をやった。
「その槍を、見ておられたのですか」
「ああ。師匠の得物と、同じ型でな。年に一度、祭りの前に見に来る。験担ぎというやつだ」
「お師匠は、どんな方でした」
「弱かった」
即答だった。ジェスターが瞬きをする。
「六十を過ぎて、膝が笑って、手元も揺れて、それでも俺が二十二年勝てなかったのは、あの人が最後まで、俺に勝つ気で来たからだ。強さと勝負は、別の才能だ。あの人は後者の天才だった」
弱かった、から始まって、そこへ着地する。この人の話は、山道の下りに似ている。素っ気ない入口から、いつの間にか深いところへ降りている。
卿は稽古槍を倉の中へ戻し、去り際に、一度だけ振り向いた。
「決勝で待つ、とは言わん。トーナメントとは、そういう約束のできない仕組みだ。だが――もし貴殿が上がってきたら」
その時だけ、声にわずかな、熱のようなものが、混ざった。
「二十二年ぶりに、支度をして待つ」
白銀の甲冑は、夕日の中を、音もなく歩き去った。あの体格と装備で足音が薄いのは、技術ではなく、たぶん歩き方の年輪である。
ジェスターは、しばらく動かなかった。
「……ヨウタ」
「なんだ」
「俺は今、ものすごい約束をもらった気がする」
「もらってたな。支度をして待つ、だとさ」
「支度って、なんだろう」
「さあな。本気の支度、じゃないか」
あいつは自分の掌を見て、それから、拳を握った。握って、開いて、もう一度握った。言葉にする代わりの動作である。こういう時のあいつに、言葉は要らない。
「なあ、ヨウタ。強さと勝負は別の才能、って言ってたな」
「言ってたな」
「俺は、どっちの才能があると思う」
「……さあな。ただ、お前は昔から、負けてる時のほうがうるさい」
「うるさいか」
「うるさい。まだだ、もう一回だ、今のは今のだ。八つの頃から、負け際の語彙だけ妙に豊富だった」
「それは、つまり」
「勝負の側の才能、ってことじゃないか。諦めの悪さは、あの人の言う『勝つ気で来る』の原料だろ」
あいつはしばらく黙って歩き、それから、嬉しさを隠すのが下手な声で「そうか」と言った。そうか、だけで済ませたのは、あいつなりの照れである。
帰り道、俺は一人分後ろを歩きながら、帳簿を整理した。
無敗とは、勝負を失った者の記録。挑む者のいない山頂で、二十二年、雪をかぶってきた男。あの人の願いは優勝でも防衛でもなく、たぶん、たった一度の「勝負」である。
いい話だ。いい話なのだが、俺の帳簿方は、いい話の裏の頁に、冷たい一行を書き込んでいた。
――東の山の頂点は、あの人である。あいつが決勝まで行けば、当たる。
そして決勝まで行く道の途中、明日の二回戦には、整えられた剣が待っている。勝たせたい金に押された、壊れかけの音が。
祭りの空は、今夜もよく晴れていた。晴れているのに、遠くの空の端で、雲が一列、行儀よく並んで待っているのが見えた。ああいう雲は、二日後あたりに雨を連れてくる。
雨の日の試合の帳簿を、俺はまだ、つけたことがない。




