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【第二巻】第六章 王都の夜(一)

 麦月十三日の朝、三日月の櫂の食堂に降りていくと、見慣れた制服が帳場の前に立っていた。

 罫線のようにまっすぐな背筋。旅装の上からでも分かる、一分の狂いもない襟。ミエル・ルシードさんである。モトリー支部の受付にして、俺たちの移動届の作成者にして、俺の第十三号案件の閉架担当者が、王都の宿の帳場で、宿の主人と何やら折衝していた。

「――ですので、領収書は宿泊と食事を分けて発行してください。合算は、後で誰かが泣きます」

「へ、へえ」

「泣くのは大抵、私です」

 主人が気圧されて頷いている。俺は階段の途中で立ち止まり、挨拶の言葉を三種類ほど用意してから降りた。この人と話すときは、在庫がないと危ない。

 それにしても、と思う。王都のミエルさんは、モトリーのミエルさんより、歩幅が二寸広い。街に合わせて歩き方が変わるのではない。古巣の街が、歩き方を思い出させるのだ。この人がこの街の石畳を何年踏んでいたのかを、俺はまだ知らない。

「おはようございます、ミエルさん」

「サイキ様。おはようございます。……新しい従者札、拝見しても」

 挨拶より先に札の検分だった。俺が首から提げた木札を、ミエルさんは両手で受け取り、焼き印の角度まで確かめて返した。

「正規の発行品ですね。結構です。偽造品が出回っていると本部で聞きましたので」

「従者札の偽造なんて、何の得があるんです」

「従者は、どこにでも入れて、誰にも覚えられません。得しかありませんよ」

 言われて、返す言葉が一拍遅れた。どこにでも入れて、誰にも覚えられない。俺が三年かけて磨いた技術の要約を、この人は札の説明のついでに言ってのける。

 朝食の席に、ジェスターが駆け下りてきて、合流は賑やかになった。

「ミエルさん! 来てくれたのか!」

「クラウン様。一回戦の勝利、おめでとうございます。台帳的には、賭けの倍率が初日で四割動きました。あれは支部の誇りです」

「よく分からないが、ありがとう!」

「分からないままで結構です。倍率の話を分かる冒険者は、大抵ろくなことになりません」

 ミエルさんの出張の用件は、王都本部の監査補助だという。武闘祭の年は、ギルド本部の帳簿が一年分膨らむ。地方支部から算勘の立つ者を集めて、祭りの金の流れを検算するのが恒例なのだそうだ。

「祭りの金は、足が速いんです」

 朝食の粥を綺麗な所作で片づけながら、ミエルさんは言った。

「入るのも出るのも速い。速い金は、埃が立ちません。埃の立たない金の中に、埃を立てたくない金が紛れ込みます。ですから祭りの後より、祭りの最中に数えるのが監査の作法です」

「泥棒がいる前提の作法ですね」

「泥棒がいない前提の帳簿は、帳簿ではなく願い事です」

 朝から金言が出た。この人の会話は、時々そのまま額に入れて売れる。

「それで、モトリーからミエルさんが」

「私は数字が専門ですので」

「前から聞きたかったんだが」

 ジェスターが、干し杏を齧りながら無邪気に踏み込んだ。無邪気というのは、時々、俺の三倍の踏み込み速度を出す。

「ミエルさんは、どうしてモトリーに来たんだ? 王都の人なんだろう。それだけ数字ができるなら、王都の方が仕事も多いだろうに」

 ミエルさんの匙が、皿の上で、半拍だけ止まった。

「――以前は、王都の会計院におりました」

「会計院! すごいじゃないか」

「すごくはありません。数字を数える役所です。税と、上納と、王家の出納。国というものを、数字の側から眺める仕事です」

「なぜ辞めたんだ?」

 俺は干し杏の袋を差し出して、話題の腰を折る準備をした。この質問は、たぶん、机の上に出していい書類ではない。だがミエルさんは、匙を置き、いつもの敬語のまま、静かに答えた。

「数えてはいけないものを、数えたからです」

「数えてはいけない、もの?」

「はい。……この話は、貸方も借方も、まだ閉じていませんので。続きは、いつか帳簿が閉じたときに」

 それきり、ミエルさんは食事に戻った。戻り方が綺麗すぎて、追いかける隙がなかった。数えてはいけないものを数えた。会計院を辞めた。モトリーの辺境支部に来た。三つの事実の間の線は、引かれないまま、皿の上に残った。

 昼は、揃ってドヤールの本戦初戦を観に行った。

 東の山の一回戦である。相手は王都の道場主で、貫禄では負けていた。貫禄で試合が決まらないのが幸いで、ドヤールは開幕の口上を長めに打ち、客を全部自分の側につけてから、勢いの乗った三連撃で押し切った。勝ち名乗りの「王都に響く雷鳴!」に、客席の三割くらいが唱和した。三日で三割なら、上々の浸透率である。

「あの方の戦いは、興行として正しいですね」

 ミエルさんの講評は独特だった。

「一試合あたりの盛り上がりを銅貨に換算すると、あの方は同じ勝ち一つで、他の方の倍を稼いでいます。ギルドは口上に手当を出すべきです」

「本人に言うと、明日から口上が倍になりますよ」

「では黙っておきます。興行と冗長は紙一重ですので」

 紙一重の判定基準がこの人の中のどこにあるのか、いつか帳簿を見せてほしいものである。

 午後、ミエルさんは本部の監査へ出かけ、夕方、妙な顔で帰ってきた。

 妙な顔といっても、この人の場合、眉の角度が一度傾く程度である。三年分の観察でようやく読める、罫線の歪みだ。

「ミエルさん。監査で何か」

 水を向けると、ミエルさんは俺を食堂の隅の卓へ呼び、声の帳簿を一段小さい字にした。

「監査はどうでした」

「本部の帳簿は、美しかったです」

「それは何より」

「美しすぎて、三箇所ほど、現実と合っていません。明日、現実の方に事情を聞きに行きます」

 帳簿が美しい、はこの人の語彙で褒め言葉ではない。現実と喧嘩していない帳簿だけが、この人の言う「正しい帳簿」である。

「それとは別に、ひとつ、サイキ様のお耳に入れておきたい数字があります」

 ミエルさんの声が、一段小さい字になった。

「賭けというものは、金の流れで読むと、二種類しかありません。勝ちたい金と、勝たせたい金です」

「……ほう」

「勝ちたい金は、倍率のいい所へ散らばります。素人の夢の買い方ですね。勝たせたい金は、一点に集まります。しかも、負けても懲りずに、同じ場所へ積み増される。今日の監査で、後者を見ました」

「どこに積まれてるんです」

「南区の星、と呼ばれている方に。それも――優勝、ではなく」

 ミエルさんは、そこで一度、周囲の耳を測った。

「『二回戦の勝利』に、です。一試合だけ。明日の、クラウン様との一戦にだけ、店が三軒傾くほどの金が積まれています」

 勝たせたい金。それも、優勝までは要らない。明日の一勝だけでいい金。

 教団の楽譜の、金額の欄を見た気がした。測定は明日で、費用は前払いということらしい。金で賭けを重くしておけば、興行側も「二回戦の番狂わせ」を軽く扱えなくなる。舞台を整える金だ。楽器に払う金ではなく、演奏会の会場費である。

「その賭け、俺にも買えますか」

「買えますが、お薦めしません。サイキ様が買うべきは」

 ミエルさんは、俺の目を見て言った。

「賭けではなく、保険でしょう」

 保険。転ばぬ先の、杖のことである。この人の語彙で言われると、杖の本数まで指定されている気がしてくる。

「出所は」

「追いました。三重に迂回してあります。四重目を追うには、私の権限が足りません。……ただ、迂回の手口に、見覚えがあります」

「見覚え」

「会計院時代に、数えてはいけなかったものと、同じ癖の迂回です」

 ミエルさんは、それだけ言って立ち上がった。立ち上がってから、思い出したように付け加えた。

「明日のクラウン様の試合、私は支部の誇りに賭けます。倍率は悪くなりました。構いません。……サイキ様も、どうかお手元の帳簿を、お確かめください」

 お手元の帳簿を、お確かめください。

 それが挨拶なのか、忠告なのか、それとも何かの照合依頼なのか、罫線の顔からは読めなかった。読めないまま、俺は階段を上がり、部屋の窓から闘技場の黒い環を見た。

 明日。二回戦。整えられた剣と、あいつが当たる。

 そして観客席のどこかには、三重に迂回した金の出し主が、たぶん、座る。

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