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【第二巻】第五章 二つの土俵(三)

「仮面の人を、見なかったか」

 人混みの真ん中で、ジェスターは俺の両肩を掴まんばかりの勢いだった。

 さて。ここでの正解を、俺の頭の中の帳簿方は三候補まで絞っていた。一つ、見ていない。嘘が一番少ないが、では夕方どこにいたのかの追撃に弱い。買い出しの経路と無名戦の会場は、地図の上で仲が良すぎる。二つ、人混みで見失った。追撃は躱せるが、以後「仮面の目撃者」として証言を求められ続ける。目撃者の座は、一度座ると降りられない椅子である。三つ、質問で返す。情報を出さず、相手の熱だけ吸い取る。熱いうちの証人尋問は、こちらの記憶が試される前に、相手に全部喋らせるに限る。

「仮面の人? なんだそれは」

 三つ目である。質問に質問で返すのは会話の作法としては下の下だが、情報戦の作法としては上の上だ。

「無名戦だ! 夕方、見たんだ。七番の仮面の人。いや、待て、順を追って話す。話させてくれ」

 あいつは俺の返事を待たずに歩き出し、屋台で串を二本買い、一本を俺に押しつけ、興奮の抜けない声で語り始めた。夕暮れの大路は祭りの二日目を閉じる客でごった返していて、あいつの声はその中でもよく通った。よく通るのが、今夜に限っては胃に悪い。

「最初はな、ただ暇だったんだ。素振りは午前の試合で体が温まってたから早めに切り上げて、それで、ドヤール殿の言っていた無名戦を思い出した」

「ほう」

「三試合目だった。七番の人は、細身で、棒一本で、最初はずっと押されてた」

「ふうん」

「客はみんな笑ってた。ああ、今年の初出場は運だけの人だって。でもな、ヨウタ。俺は途中から、笑えなくなった」

 串が、俺の口の手前で止まった。

「六本目の突きを受けたあたりからだ。あの人の受けは、受けてるんじゃない。測ってるんだ。相手の突きが伸びていくのを、一本ずつ、物差しを当てるみたいに」

 測っていたのは事実である。事実であるだけに、反応の正解が分からない。俺は取り急ぎ、串を齧って時間を稼いだ。

「最後の跳び方は不格好だった。槍を踏んだのも偶然に見えた。見えたが、あれは全部、その、なんて言うか」

「落ち着け。串を持ったまま考えるな」

「――『差し出された偶然』だ」

 あいつは、自分の言葉に自分で頷いた。

「偶然が転がってたんじゃない。偶然が、相手の足元に、そっと差し出されてた。俺はああいうのを初めて見た。強さを見せないための技術って、あるんだな。あの人は――すごい人だ」

 仮面の人はすごい。

 その一言が、夜の大路の雑踏の上に、妙にくっきりと乗った。

 褒められている。俺が。俺に。面と向かって。本人確認を経ずに。

 この状況の滑稽さを、誰かと分かち合いたいのに、分かち合える相手がこの世に一人もいない。強いて言えば分かち合えるのは仮面の俺だが、あいつは今、目の前で串を握りしめて仮面の俺を絶賛している。帳簿が、輪になって閉じない。

「……そんなにすごかったのか、その七番は」

「すごい。たぶん、観客の九割九分は気づいてない。審判も気づいてない。なあ、ヨウタ。俺は、ああいう強さがあるって、考えたこともなかった」

 あいつは串の先で、闘技場の黒い輪郭を指した。

「俺の強さは、見てもらう強さだ。見られるほど強くなる。でもあの人のは逆だ。見られないほど強くなる。同じ祭りの中に、正反対の強さが並んでるんだ。これって、すごいことじゃないか」

「……お前は、どっちが上だと思うんだ」

 聞かなくてもいいことを、聞いた。聞いてしまってから、俺は串の食いかすを数えるふりをした。

「上下じゃないだろ、これは」

 あいつは即答だった。

「山の登り口が違うだけだ。頂上で会えるなら、どっちから登ってもいい。……ただ」

 ただ?

「あの人の登り方は、たぶん、寒い」

 寒い。

「誰にも見られずに登るんだ。頂上に着いても、旗を立てない。すごいって、誰にも言ってもらえない。俺なら、三日で寂しくて死ぬ」

「三日は保つのか」

「保たない気もしてきた」

 笑ってしまった。笑いながら、胸の内のどこか一箇所だけが、笑いに参加しなかった。寒い、と来たか。三年前から登っている側としては、寒さにはとうに慣れた――慣れたと、思っていた。慣れというのは、指摘されるまでが慣れである。

「なあ、あの人はどうして仮面をつけてると思う」

 来た。来てほしくない問いほど、よく来る。

「……訳ありなんだろ。客の想像どおり、お尋ね者とか、家出した貴族とか」

「みんなそう言うな。でも俺は、違う気がする」

「ほう」

「隠れたいだけなら、あんな戦い方はしない。押されて、笑われて、それでも円の真ん中に立ってるんだ。隠れたい人は、そもそも真ん中に立たない」

 トリルの作法その三と、ほとんど同じ場所に、あいつは自分の足で着地しようとしていた。俺は串の齧り跡を見つめて、埒もない感想を持った。この幼馴染は、昔から答案の途中式を飛ばす。飛ばして、なぜか正解の隣に降りる。

「じゃあ、何のために立ってるんだ」

「分からん。分からんから――」

「だから決めた」

 あいつは串を食い終え、綺麗になった竹串を、旗のように立てた。

「俺、あの人と戦いたい」

「は?」

「無名戦の勝ち残りは、本戦の上位の者と顔合わせの一戦があるんだろう? ドヤール殿が言ってた。俺が勝ち進んで、あの人も勝ち進めば、当たれるかもしれない」

「待て。待て待て。お前の目的はA級審査だろう。顔合わせは審査と関係ない、ただの余興だ」

「関係なくても戦いたい。ああいう強さと打ち合ったら、俺の知らないことが、きっと山ほど分かる」

 まっすぐな目だった。まっすぐな目で、あいつは俺の眉間のあたりを見ている。俺は今、たいへん器用なことに、戦いを挑まれている側の顔と、挑まれていない側の顔を、同じ一枚の顔でやっている。

「……まあ、まずは二回戦だろ。南区の星が先だ」

「そうだな! うん、まずは目の前の一戦だ。……でも、いつか」

 いつか、の続きを、あいつは言わなかった。言わずに、立てた竹串を満足そうに眺めて、歩き出した。

 宿への帰り道、あいつは上機嫌に講評を並べた。曰く、明日のドヤール殿の初戦は口上の長さが鍵だ。曰く、南区の星との二回戦は、対策を立てない。

「立てないのか」

「立てない。あの人の剣は、対策した分だけこっちが硬くなる気がする。柔らかいまま行く」

「柔らかいまま、ね」

「うん。それに――対策って、相手の弱いところを探す作業だろう。あの人の弱いところは、なんだか、探したくないんだ」

 剣を振りながら泣いている、という南区の噂を、あいつはまだ知らない。知らないままで、探したくない、と言う。あいつの勘は、いつも理屈より三歩先に、体温の高いところへ届く。

 俺は相槌の在庫を計画的に切り崩しながら、頭の隅で今夜の決算をやっていた。

 本日の損益。本戦一回戦、勝ち。無名戦二回戦、勝ち。ここまでは黒字である。ただし特別損失の欄に、新規の一行が立った。

 ――幼馴染が、仮面の俺に、戦いを申し込む予定。

 これを黒字と呼ぶ帳簿係がいたら、顔が見たい。

 しかも厄介なことに、この特別損失、処理の方法が見当たらない。仮面が負けて早々に消えれば、あいつの願いは叶わない。叶わない願いを植えたのは俺だ。仮面が勝ち残れば、願いは叶う方向へ進む。進んだ先で当たるのは俺だ。どちらへ転んでも、貸借の相手方が全部俺である。蛸が自分の足を齧って腹を満たす図と、帳簿の構造がまったく同じだ。

 三日月の櫂の前まで来たとき、あいつがふと、足を止めた。

「なあ、ヨウタ。ひとつ不思議なんだが」

「なんだ」

「あの人の棒の構え……どこかで見た気がするんだ。ずっと考えてるんだが、思い出せない」

 夜風が、宿の看板を小さく揺らした。三日月を漕ぐ猫が、ぎい、と鳴いた。

「……世の中、棒を持つ人間は案外多いぞ。物干し竿とか、天秤棒とか」

「そうなんだけどな。もっと近くで見た気がするんだ」

 あいつは首をひねりながら、宿の扉をくぐっていった。

 近くも近く、毎朝隣で薪を割っている。とは、言えない夜である。

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