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【第二巻】第五章 二つの土俵(二)

 同じ麦月十二日の夕刻、俺には無名戦の二回戦があった。

 昼の勝利の後、ジェスターは「午後は素振りをする」と言い、俺は「買い出しに行く」と言った。双方の申告はどちらも本当で、どちらも全部ではない。申告というものの品質は、こうして日々、静かに劣化していく。

 ここで、俺の二重生活の実務について記録しておく。誰にも見せない帳簿だが、工程というものは書き出しておかないと、いつか必ず、どこかの手順を飛ばす。飛ばした手順の分だけ、人は転ぶ。

 まず、名目である。従者ヨウタは毎夕、「買い出しと湯の手配」で宿を一刻半空ける。これは王都到着の翌日から毎日続けている習慣で、つまり無名戦のためにわざわざ作った空白ではない。アリバイというのは、必要になってから作ると継ぎ目が見える。必要になる前から敷いておくのが上物である。買い出しの品は毎回実在する。今日の品目は、油紙と、糸と、ジェスターの好物の干し杏。手順の最後に本物の買い物を必ず済ませるのが、この工程の背骨だ。嘘は、九割の本当に薄く塗るに限る。

 次に、着替えである。

 北の小扉の手前、資材置き場の陰が更衣室になる。外套を裏返す。俺の外套は表が旅塵の灰色、裏が濃紺で、裏返すと別人の持ち物に見える仕立てになっている。仕立てたのは俺である。モトリーの夜業時代からの愛用品に、王都で改修を加えた。襟の折り方で肩幅の印象が変わり、帯の位置で背丈の印象が変わる。人間の目は、輪郭を三箇所変えると別人と判定する。三箇所。それ以上は不要で、それ未満は不足である。

 時間差の設計も書いておく。無名戦の出番は夕刻の部の三番目まで、と登録時に希望を出してある。早い出番なら、試合と着替えを済ませても、買い出しの一刻半に収まる。宿と闘技場の距離、市場の混雑、湯屋の列。全部を足しても、俺の帰りは「少し遅い買い出し」の範囲に落ちる。範囲に落ちるように、そもそもの習慣の方を設計してあるのだが。

 最後に、歩き方を替える。

 従者ヨウタは、半歩遅れてついていく歩き方をする。無名の七は、円の中央へまっすぐ歩く。歩幅で三寸、目線で二寸、別人になる。この切り替えの一連を、俺は資材置き場の陰で、毎回同じ順序、同じ所作でやる。順序を固定するのは、考える余地を消すためだ。考える余地は、迷いの入口である。着替えというより、儀式に近い。神官が祭服を着る手順に迷わないのと同じ理屈で、俺は無名の七を着る。

 ――と、ここまでの工程を、俺は俺で少し離れた場所から眺めている。

 哀れといえば哀れな男がいる。夕暮れの資材置き場の陰で、外套を裏返し、襟を折り、歩幅を測り直している十七歳である。故郷を出て三年、彼はついに、公衆の面前で戦うために変装をする段階まで来た。傍から見れば完全に不審者であり、事情を全部知っている俺から見ても、七割がた不審者である。残りの三割は、まあ、友情ということにしておく。

 控えの廊下で、鈴の音がした。

「おや、白湯の旦那。二連勝おめでとう――の、一勝目の方を先に言っておくよ」

 トリルだった。三叉帽の鈴を指で止めて、目だけで笑っている。

「白湯、というのは」

「あんたの初戦の感想さ。うまく煮てあるのに、誰の舌にも残らない。あれは狙って淹れた白湯だろ」

「偶然です」

「そうかい。なら今日も、いい偶然を」

 鈴がちりんと鳴って、道化は口上の階段を上がっていった。図星を鈴の音で包んで置いていく。ああいう手土産は、受け取り拒否ができないから性質が悪い。

 無名戦の二回戦の相手は、無名の九だった。

 長身、細腕、得物は短槍。構えを見る。腰が高い。対人の経験は浅い。代わりに、突きの初速だけが妙に鍛えられている。何かの護衛職か、あるいは的当ての選手か。いずれにせよ、悪い人ではないが、俺の白湯の相手としては悪くない人である。

「夕刻の三番! 西より無名の七、初戦を運で拾った男! 東より無名の九、突きの早さは天下一品、ただし本人談!」

 トリルの口上が回り、客席が笑い、旗が振られた。運で拾った男、の紹介はありがたい。ありがたいついでに言えば、あの道化はたぶん、ありがたがらせるために言っている。恩を着せる天才である。

 工程は初戦と同じ骨組みでいく。押される。粘る。相手の得意を出させて、得意の出しすぎで転んでもらう。今日の計量は「突きの数」である。

 一本目、胸元。棒の腹で外へ流す。二本目、喉。半歩引いて空を突かせる。三本目、四本目。速い。確かに速いが、速さの種類が一種類しかない。五本目を受けたところで、客席の拍子が相手の味方についた。突くたびに湧く。湧くたびに、無名の九の突きは調子づいて、深くなる。深くなるのを、俺は棒の先で丁寧に測り続けた。六本目まで受けると、相手の突きは必ず伸びる。伸びた突きは、戻りが遅い。七本目の戻り際に、半身を入れて――

 というところで、計画に事故が起きた。

 六本目を受けた瞬間、視界の隅に、白い外套が入ったのである。

 観客席の最前列。陽色の髪。身を乗り出して、目を輝かせて、こちらを見ている。

 ジェスター・クラウンが、無名戦を観に来ていた。

 道理で今日の夕方は「素振りをする」と言っていたわけである。素振りの場所が観客席の最前列だとは聞いていない。噛み合っていない情報の隙間を、嫌な汗が一筋降りた。

 まずい。

 いつからいた。最初からか。少なくとも六本目までの俺の「押されぶり」は、全部あの目に入っている。心配、してくれているのだろうか。それとも純粋に仮面の観戦か。どちらでも同じことである。問題は次の一手だ。

 あいつは初戦の「ひょいと勝った」を見ている。あの半歩は素人じゃなかった、とまで言っている。同じ絵をもう一度見せれば、あいつの中で「偶然」の棚から「型」の棚へ、俺の勝ち方が引っ越してしまう。あいつの目は、俺が思っているより、ずっといい。今朝の試合で証明済みである。

 七本目が、来た。

 俺は予定の半身を捨て、不格好に横へ跳んだ。跳びながら、棒を杖にして体勢を立て直し損ね、立て直し損ねたふりのまま、相手の槍の柄を、偶然を装って踏んだ。

 短槍が石を叩き、無名の九が拾おうと屈む。屈んだ背中がお辞儀に見える角度で、俺の棒が、軽く肩に触れた。有効打。旗が上がる。

 ……勝った。勝ったが、今のは白湯ではない。白湯どころか、味の濃い、こぼれ話向きの勝ち方である。「槍を踏んで勝った仮面」――ほら、もう一行で語れてしまう。

 客席の笑いが、初戦より大きかった。ジェスターは、立ち上がって拍手していた。

 工程表に、赤字が出た。

 控えに戻り、面の内側で息を整える。今日の敗因は明白である。観客の欄に、想定外の名前が一つ載っていた。それだけで、俺の設計は音を立てて軋んだ。六万人の目は計算できるのに、たった一対の目が計算を壊す。あの目は、俺の三年間が一度も慣れることのなかった、唯一の観測装置である。

 面を外す前に、廊下の奥から足音がひとつ通り過ぎた。

 無名の五だった。今日も勝ったらしい。仮面はこちらを一瞥もせず、等速で歩き去った。足音に、祭りがない。無名の三の言った「仕事の足音」が、耳の帳簿にまた一行増える。あの五番と俺の枠が交わるのは――計算では、準決勝である。

 着替えの儀式を逆順にやり、従者ヨウタに戻り、買い出しの干し杏を提げて、俺は北の小扉から人混みへ出た。

 出たところで。

「――あ!」

 声が、した。

 振り向く前に、誰の声かは分かった。分かった上で、俺の足は半歩、逃げる方向へ動きかけた。動きかけたのを、意思の力でねじ伏せて、俺は何食わぬ顔で振り向いた。

 ジェスターが、人混みをかき分けて、こちらへ走ってくる。

 まっすぐに。まっすぐ、俺の方へ。

 嫌な予感が、束になって開花した。あいつは俺の目の前で止まり、息を弾ませて、言った。

「ヨウタ、聞いてくれ! 今、そこで――仮面の人を見なかったか!?」

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