【第二巻】第五章 二つの土俵(一)
麦月十一日は予選の最終日で、夕方には本戦三十二人が出揃った。ドヤールは滑り込んだ。滑り込んだ、という表現は本人の前では使えないが、最終予選の相手に二本先取された後の三本連取だったので、帳簿上は滑り込みである。本人の講談では「王都に響く雷鳴、崖っぷちにて真価を発揮」の段になっていた。事実と講談の間には、いつも外套一枚ぶんの距離がある。
そして同じ日の夜、宿の食堂の壁に、組み合わせ表が貼り出された。
俺は写しを一部もらい、部屋の机で検算を始めた。
トーナメントというのは、数学である。三十二人が十六試合をやり、十六人が八試合をやり、以下同様に、三十一試合で優勝者が一人残る。試合の総数は必ず出場者より一つ少ない。敗者の数だけ試合がある、と言い換えてもいい。この計算だけは、どんな作為も歪められない。
歪められるのは、順路の方である。
誰と誰が、何回戦で当たるか。これは表の書き方ひとつで決まる。俺は写しの上に、知っている名前を置いていった。ジェスターは西の山の上段。ドヤールは東の山の下段。二人が当たるとすれば決勝だけで、これは講談師にとって都合のいい配置だろう。近衛騎士団長ソロ・アダマス卿は、推薦枠として東の山の頂点に据えられている。
問題は、西の山だった。
南区の星――例の師範代が、ジェスターの隣の枠にいた。
つまり、二人とも一回戦を勝てば、二回戦で当たる。
偶然だろうか。俺は表を三度読み直した。三十二枠への振り分けは抽選ということになっている。抽選で、教団が測りたい器と、教団が整えた楽器が、三十一分の一を引き当てて隣り合う。ありえない数字ではない。ありえない数字ではないというのが、作為の隠れ蓑としては一番上等なのである。
表の数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、表を作る手だ。
検算の途中で、ジェスターが写しを覗き込んできた。
「お、俺の山はこっちか。……二回戦、南区の星の人と当たるかもしれないのか」
「一回戦を二人とも勝てばな」
「勝つだろう、あの人は。俺も勝つ。つまり当たる」
「論理が乱暴だが、結論には同意する」
「楽しみだな。あの『腹の減ってない剣』と、まともにやり合ったら何が分かるのか」
あいつは写しを返して、素振りをしに階下へ降りていった。楽しみだな、ときた。こっちは三十一分の一の出来すぎた偶然に眉間を消耗しているというのに、当の本人は品書きを眺める顔である。まあ、いい。危険の見積もりは従者の仕事で、楽しみの見積もりは本人の仕事だ。分業は成立している。
俺は写しを畳み、いつものように結論だけを金庫にしまった。二回戦まで、中二日。その間に、できる準備の目録を作る。目録の一行目は「無名戦を勝ち進む」である。無名戦の二回戦は明日の夕。俺の帳簿は今週、二枚立てで回っている。
――麦月十二日。本戦、初日。
開門前の列は、開幕日より長かった。予選は品定め、本戦は本番、というのが王都の観客の相場らしい。俺は夜明け前から並んで西の中段を確保し、隣に教室の常連の麦酒の親父を確保し、親父の向こうにガスとリリを配置した。ドヤールの初戦は明日で、今日は観戦側である。
ジェスターの一回戦は、午前の三試合目だった。
相手は「黒鉄のグオルグ」。貼り紙で名前だけ知っていた大男である。得物は大剣。鎧は黒ずんだ鉄。二つ名と装備が完全に一致した、誠実な外観の男だった。
「解説のガスさん、この一戦は」
「大剣は初見殺しっすね。あの重さを知らないと、初手で持っていかれるっす」
「クラウンの兄ちゃんは大剣とやったことあんのかい」
「あります。モトリーの東の沢で、大剣より重い尻尾と」
「尻尾?」
「大猪の。……いえ、こちらの話です」
リリが薄目を開けて、ぽつりと言った。
「……大丈夫。あの人、重いのに慣れてる」
眠そうな太鼓判が押されたところで、開始の鐘が鳴った。
「西の三十一番、ジェスター・クラウン! モトリーより参上、B級、紋は鈴の輪!」
トリルの口上が響き、あいつが入場してきた。
白い外套。陽色の髪。腰に鈴の短剣と手鐘。そして、掲揚台に、あの旗が上がった。鈴を三つ、輪のかたちに並べた紋。獅子でも鷲でも竜でもない、線の少ない、静かな旗である。六万の観客のうち、あの旗の意味を知る者はまだいない。線が少ないから手間賃が安かった、という経理上の真実を知る者は、俺だけである。
「がんばれよ、兄ちゃんの相棒ー!」
麦酒の親父が声を張り上げた。教室の生徒たちが続く。あいつは客席のこちらへ手を振った。振ってから、真顔に戻って、剣を抜いた。
試合が、始まった。
グオルグの大剣は、見かけ通りの威力と、見かけ以上の速さで振られた。初手の斬り下ろしが空気を割り、二の太刀が横に薙ぐ。ジェスターは、下がらない。下がらずに、拍子で受けた。
拍子、というのが、今日のあいつの試合の数え方である。
大剣の振りは重い。重い分、振りと振りの間に、どうしても半拍の継ぎ目ができる。あいつはその継ぎ目に、自分の一拍を差し込んでいく。一拍、また一拍。グオルグの二拍子の間に、あいつの三拍子が入り込み、気がつけば試合全体が、あいつの拍子で進んでいた。
主導権というものは、奪うところを見せずに奪うのが一番効く。
中盤、グオルグが渾身の一撃を打ち込んだ。回避は間に合わない――ように見えた。あいつは半歩だけ動いて、大剣の腹を自分の剣で滑らせ、力の行き先を地面へ流した。石の舞台に剣先が触れ、火花が散る。その一瞬、二人の姿勢が、妙な均衡で静止した。
大剣を地に着けて前傾する黒鉄の巨人と、その脇で剣を立てて直立する白い剣士。
どこかの神殿の壁画で見たような構図だった。巨人と、巨人を測る者。観客席のどこかで、画家が筆を取っていてくれることを俺は願った。ああいう一瞬は、勝敗より長生きする。
次の拍で、均衡は終わった。
姿勢を崩した巨人の籠手を、あいつの剣が正確に打ち、大剣が石の上で重い音を立てた。旗が上がる。決着である。
歓声が鉢の縁まで駆け上がった。教室の生徒たちは総立ちで、麦酒の親父は俺の背中を叩き、ガスは静かに拍手し、リリは目を開けた。
「強えじゃねえか、あの兄ちゃん! なあ、従者の兄ちゃん!」
「ええ。あれが素です」
「素かよ!」
素なのである。俺の細工は、今日の舞台のどこにもない。ジェスター・クラウンの一回戦は、ジェスター・クラウンの腕だけで終わった。従者の仕事は、朝の席取りと、旗の手配の確認と、こうして胸を張って「素です」と言うことだけだった。いい仕事である。こういう日の帳簿は、つけていて楽しい。
「おい、俺は次も賭けるぞ。倍率いくつだ」
「さっき覗いたら、もう随分下がってました」
「ちっ、出遅れた。……いや待て、下がったってことは、みんなもう気づいてんのか」
「六万人もいれば、目のいい人がそれなりに」
賭け屋の相場は、講評録より正直に動く。ジェスター・クラウンの名は、初戦の半刻で、無名の欄から番付の欄へ引っ越しを済ませていた。
勝ち名乗りを受けるあいつは、観客席に向かって一礼し、それから、負けたグオルグに歩み寄って何か言った。遠くて聞こえない。だがグオルグが、兜を取って笑ったのは見えた。握手。二度目の歓声。ああやって、あいつは敗者の側の観客まで自分の客にしていく。天性である。
昼に合流したあいつに、何を言ったのか聞いてみた。
「『大剣と戦うのは二度目だ』と言った。『一度目は三合しか立っていられなかった。あなたは五合付き合わせてくれた』と」
「事実か」
「事実だ。あ、大猪は数に入れてないぞ」
「入れてやれ。向こうも本望だろう」
負けた相手に「あなたは強かった」を数字で言える男である。グオルグは今頃、五合という数字を土産に麦酒を飲んでいるだろう。敗者の土産まで用意して勝つ勝ち方を、俺は細工でしか作れない。あいつは素手で作る。
――と、隣の親父が、ふいに声を落とした。
「なあ兄ちゃん。次の相手、南区の星だろ。……あれ、大丈夫かねえ」
「何がです」
「いや、強いのは分かってんだけどよ。うちのかみさんが南区の生まれでね。あの道場の近所の連中が、言ってんだと」
親父は麦酒を一口飲んで、妙に真面目な顔になった。
「――あの師範代、夜中に、庭で一人で泣いてるらしいぜ。剣を振りながら」
剣を振りながら、泣いている。
等間隔の十六拍の中に、そんな音は混ざっていなかった。混ざっていなかったことが、今聞いた話を、余計に重くした。




