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【第二巻】第四章 仮面の作法(三)

 無名戦の舞台は、本戦と同じ楕円の隅に設けられた小さい円だった。

 夕刻の部の観客は、昼の三分の一ほど。それでも二万人はいる。モトリーの人口の何十倍かを暗算しかけて、やめた。数えると膝にくる数字というものがある。

 出番までの間、俺は控えの口から先行の二試合を見た。

 無名の一は大柄な斧使いで、力比べの末に押し出されて負けた。仮面の下から漏れた悔しがり方が素直で、客席は温かく笑った。ああいうのが「訳あり」と「恒例」の口だろう。気になったのは無名の五である。細身の長剣使い。三合で勝った。勝ち方が、静かだった。強さの誇示がなく、感情の起伏がなく、意外性がない。……つまり、俺がこれからやろうとしている勝ち方と、同じ棚の勝ち方である。同業の匂いに、仮面の内側で少し口元が引きつった。

 やがて、鈴の音が円の縁を回った。

「さあさお立ち会い! 夕刻の四番、西より参るは無名の七! 初出場! 得物は棒! 素性は非公開、願いも非公開、公開されてるのは背丈だけ!」

 トリルの口上が、二万人を笑わせる。相手方の紹介も同じ調子だった。東より参るは無名の三、出場七年目の古株、得物は片手剣、素性は非公開、ただし足癖の悪さは公開済み――どっと笑いが起きて、円の温度が上がる。口上役というのは、素性を明かさずに人柄だけ配達する仕事らしい。大した職能である。

 円の中央で、俺は無名の三と向かい合った。

 中背。革鎧。得物は刃引きの片手剣。仮面の下の素性は知らない。知らないが、構えを見れば履歴書は半分読める。腰の据え方は傭兵稼業、足の開きは対人専門、剣の高さは、揉め事を早く終わらせる係。人間の体は、職歴を隠すのが下手である。

 審判が旗を構えた。

 さて――ここからが、本日の本題である。

 俺は昨夜、負け方について考えた。考えて、すぐに壁に当たった。壁の名前は「初戦から負けると意味がない」である。俺の目的は、調律の剣士を無名戦の側から検分し、あわよくば本戦の毒がジェスターに届く前に、仮面の内で始末をつけることだ。そのためには勝ち上がらねばならない。しかし派手に勝てば目立つ。目立てば詮索が湧く。詮索は御法度に守られているとはいえ、御法度は人の口に鍵をかけない。

 つまり要件はこうだ。勝つ。ただし、語られない勝ち方で。

 講談にならない勝ち方、と言い換えてもいい。ドヤールの逆である。

 俺は昨夜、寝台の上で場合分けをした。勝ち方は大きく四類ある。第一類、圧倒して勝つ。論外である。第二類、接戦の末に勝つ。感動が生まれる。感動は記憶に残る。却下。第三類、運で勝つ。悪くない。ただし運は連続すると運でなくなる。三回続いた幸運を、人は実力と呼び始める。使用は二回まで。第四類、相手が勝手に負ける。これだ。これが本命である。

 人が試合を語るのは、そこに物語があるからだ。物語の材料は三つ。強さの誇示、感情の起伏、そして意外性。この三つを全部抜けば、試合は語られない。強さを見せない。感情を見せない。意外なことを起こさない。誰もが「まあ、そうなるだろう」と思う結果を、思った通りの退屈さで出す。

 題して、白湯の勝ち方である。栄養はあるが、誰も味を覚えていない。

 旗が、振られた。

 無名の三は、速かった。初手から詰めてくる。判断の速い、いい傭兵の踏み込みである。並の相手なら、この初速だけで蓋が閉まる。

 俺は、三歩下がった。

 慌てた風に、少しよろけて。三歩。ここが本日の計量の肝である。よろけは演技だが、歩数は設計だ。円の縁まで、残り七歩。観客の目には「押されている仮面」が映る。

 無名の三が畳みかけてくる。袈裟、返し、突き。俺は受け、受け、半歩躱す。剣戟の音が二万人の耳に配達される。音響設計の良さが、今夜は俺の味方だった。受けの音というのは、押されている音に聞こえるのだ。

 下がって、四歩。残り三歩。

 観客のどよめきが、円の縁の近さを教えてくれる。場外は負けである。無名の三も知っている。だから最後は、大きく踏み込んでくる。傭兵の職歴が、早仕舞いの一撃を選ばせる。

 その踏み込みの、軸足が着く瞬間。

 俺は前に出た。

 初めての前進である。相手の突きの内側に半身を入れ、棒の先で、軸足の膝裏を、押した。

 打ったのではない。押したのである。体重の移動の途中にある膝というのは、押されると持ち主の意思と関係なく折れる。無名の三は、自分の勢いのまま、円の外へ三歩たたらを踏んで、出た。

 場外。旗が上がる。俺の勝ちである。

 所要、旗から旗まで、数えて八十六。長すぎず、短すぎず、居酒屋で再現するには起伏の足りない、狙い通りの八十六だった。

 観客席の反応は、俺の設計通りだった。

 どよめきの後の、笑い。押されていた仮面が、相手の勢い余りで拾った勝ち。強さの誇示はない。感情の起伏はない。意外性は――あるにはあるが、「運のいい奴」の棚に入る種類のそれである。誰も俺の三歩と四歩を数えていない。数えていたら、下がった七歩が全部、相手の最後の踏み込みを円の縁へ誘導する測量だったと分かってしまう。

 分かる者には、分かる。だから分かる者が客席にいないことを、俺は祈るしかない。

 円を降りるとき、拍手はまばらで、温かかった。

 「もってる」仮面への、ご祝儀の拍手である。狙い通りの温度だった。狙い通りなのに、面の下の顔が、一瞬だけ緩んだのは誤算だった。三年ぶりの、自分の勝ちである。田舎の武術大会の二回戦以来、俺の戦績表は空欄だった。空欄に、たった一行、誰のものでもない勝ちが記帳された。

 無名の勝ち。記録にはそれだけ残る。

 それだけで、思ったより、悪くなかった。

 控えの廊下で、無名の三とすれ違った。

 仮面同士である。互いに素性は見えない。見えないはずなのだが、相手は立ち止まり、仮面の目の穴からこちらを見て、低い声で言った。

「……あんた、わざと下がったな」

 傭兵の声だった。職歴は耳にも出る。

「膝を押される瞬間、あんたの足はもう次の場所にあった。逃げ腰の足じゃなかった」

「……買い被りです。夢中でした」

「そうかい。ならいいさ。……ひとつ忠告だ、七番」

 無名の三は、仮面のまま、少しだけ声を落とした。

「今年の無名戦は、妙だ。俺は毎年出てるから分かる。今年は――数合わせみたいな出場が多い。あんたみたいな『訳あり』と、俺みたいな『恒例』の他に、何て言うかな……仕事で来てる連中の匂いがする」

「仕事」

「ああ。祭りを楽しんでない足音ってのが、あるんだよ」

「たとえば、五番とか」

 鎌をかけてみた。仮面の目の穴の奥で、相手の目が少し動いた。

「……あんた、初出場のわりに、見てるね」

「暇だったもので」

「五番には当たらないことを祈るんだな。当たったら――まあ、あんたなら、うまく負けられそうだが」

 うまく負けられそう。傭兵の耳は、俺の白湯の底まで見えているらしい。恐ろしい古株である。

 それだけ言って、無名の三は廊下の向こうへ消えた。

 仕事で来てる連中。祭りを楽しんでいない足音。

 俺は面の下で、今夜の帳簿に一行を足した。手を抜く理由のある強さが二つ、という今日の見積もりは、早くも改定を要するらしい。無名戦の側にも、楽譜を持った足音が混ざっている。

 外に出ると、夜の大路は祭りの一日目を閉じる屋台の煙で霞んでいた。面は懐の奥である。

 宿に戻ると、約束どおり、夜飯になった。

「遅かったな。用事は片づいたか」

「ああ。だいたいは」

「そうか。なあ聞いてくれ、俺は夕方、無名戦を少し見たんだ」

 匙が、一瞬だけ止まりかけた。止めなかった俺を、誰か褒めてほしい。

「ほう。どうだった」

「四番目の試合が面白かった。初出場の七番の人だ。押されて押されて、最後にひょいと勝った」

「へえ。運のいい人だな」

「うん、みんなそう言ってた。……ただなあ」

 あいつは芋の煮付けを口に運びながら、少しだけ首を傾げた。

「最後に前へ出た半歩だけ、素人に見えなかった。あの半歩だけ、別の人みたいだった」

「気のせいだろ。疲れてるんだ、初日で」

「かもな! よし、明後日は俺の初戦だ。講評会を始めよう」

 講評会は半刻続いた。議題は今日の全部、つまり予選の見立てと、ドヤールの口上と、南区の星の腹の減り具合である。俺は聞き役に徹した。喋る方の帳簿は、今日はもう、締めてある。

 寝る前、荷の底へ面をしまいながら、道化の作法その二を思い出した。面の下で、勝手に喋るといい。誰にも聞こえないからね。

 円の中で一度だけ、面の内側の呼吸に混ぜて、声にならない一言を置いてきた。

 内容は、誰にも聞こえていない。聞こえていないから、書かない。

 書かないが――面の下の言葉ほど、よく届く、と言ったのは、あの登録係の男だった。

 届くなら、届いてほしい宛先が、ひとつだけ、ある。

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