【第二巻】第四章 仮面の作法(二)
時間を少し巻き戻して、同じ日の昼過ぎの話をする。
俺が夕刻の「用事」までの間、ジェスターと並んで予選を観戦していた時のことである。この数刻の話をしておかないと、後の帳簿が合わない。
予選は四つの舞台で同時に進んでいた。本戦が三十二枠、うち推薦と実績で埋まるのが半分、残り十六枠を、二百人からの腕自慢が二日で奪い合う。舞台が四面あっても回らない計算だが、回してしまうのが祭りの実務というものである。一試合あたりの持ち時間は短く、審判の裁定は速く、負けた者は速やかに客席へ回収されて、今度は観客として二杯目の麦酒を注文する。敗者の切り替えの早さは、この祭りの美徳の一つだと思う。
「ヨウタ、三番舞台の槍の人。あれは勝ち上がるぞ」
「ほう。理由は」
「突きの引きが速い。突く方じゃなくて、引く方だ。あれは外した後を考えてる槍だ。外した後を考えてる奴は、簡単には崩れない」
「外した後、ね」
「槍は外して当たり前の武器だからな。外した数だけ強くなる」
隣のジェスターは、さっきからこの調子だった。
一目見ては、一言で言い当てる。
「四番の斧の人は、振りかぶりで踵が浮く。低い相手に弱いな」
「二番の双剣は」
「左が飾りだ。本命は右の一本だけ」
言われてから見ると、全部そのとおりに見えてくる。そして半刻後には、全部そのとおりの結果が出た。当たる予言を誰にも信じてもらえなかった王女の話があるが、あいつの場合は逆で、信じてもらえた上に、賭けの種にされる。予言者としては、待遇が良すぎる。
気づけば、周囲の客があいつの独り言に耳を傾け始めていた。
最初は隣の麦酒の親父だった。
「兄ちゃん、次はどっちが勝つ」
「盾の人だ」
「剣の方が強そうだがな」
「剣の人は強い。ただ、盾の人の足の運びを見てくれ。あれは相手を壁際へ押していく足だ。この舞台は壁際が滑る。朝の水撒きの跡がまだ乾いてない」
「……ほんとだ、押してやがる。おい、勝った! 兄ちゃんすげえな!」
親父が仲間を呼び、仲間が隣を呼び、いつの間にか西の中段の一角に、小さな予想の教室が開講していた。あいつは頼まれるたび、隠すということを知らない性分のまま、見えたものを見えたとおりに全部話した。
「兄ちゃん、あんたも出るのかい」
「出る。本戦からだ」
「そりゃあ楽しみだ。名前は」
「ジェスター・クラウン。モトリーから来た」
「よし、覚えた。賭けてやるよ」
「ありがたい。……ただ、賭けるなら俺の見立てじゃなく、俺の試合を見てからにしてくれ。金の話は、見てからの方が誠実だ」
教室に、妙に感心した沈黙が流れた。誠実の見本市みたいな男である。賭け屋の若いのが帳面を写す手を止めて、あいつの顔をまじまじと見ていた。相場情報の出所が相場を無視した発言をしたのだから、無理もない。
「――というわけで、次の組は青い帯の剣士が勝つ。ただし三合以上かかったら分からなくなる。あの人は息が浅いから、長引くと腕が落ちる」
「ほおお」
「兄ちゃん、じゃあその次は」
「見てから言う。見ないで言うのは、予想じゃなくて願望だ」
「ちげえねえ!」
教室が感心の声を上げる。少し離れた席で、賭け屋の若いのが、あいつの講義を必死に帳面へ写していた。無料で放出される一級の相場情報である。俺は従者として、講義料を取るべきか三秒検討し、やめた。取った瞬間、あいつの講義は講義でなくなる。あれはあいつが好きで喋っている、ただの「見えたもの」の話だ。
見えたものを見えたとおりに話せる、というのは、実は途方もない才能である。
俺などは、見えたものをまず帳簿に付け、付けたものを仕分けし、仕分けたものの九割を金庫にしまって、残りの一割だけを口に出す。あいつは金庫を持たない。持たないから、あいつの言葉は全部、日向の匂いがする。
俺の金庫の中身が、今日もひとつ増える予定であることは、教室の誰も知らない。
午後の中程には、ドヤールの二回戦もあった。ガスとリリが観戦の列に合流してきて、俺たちの一角は急に賑やかになった。
「解説のガスさん、この試合はどう見ますか」
「相手は槍っすね。ドヤールさんは口上の間合いに入る前に突かれると弱いっす」
「なるほど。おっと、ドヤール選手、開幕から外套を翻した——」
「翻し、早いっすね。焦ってるっす」
「解説のガスさん、あの口上は作戦ですか」
「作戦というか、あれをやらないと調子が出ないっす」
「儀式ですね」
「儀式っす」
俺とガスの実況は途中から本職顔負けの様式になったが、当のドヤールは槍の間合いを講談の間合いで割り、口上の第二節で相手の足を止め、三合目で決めた。勝ち名乗りと同時に外套がもう一度翻る。二度目は完璧だった。
「勝ったっす」
「勝ったな」
「次も口上からっすね」
「だろうな」
リリは最初から最後まで寝ていた。寝ていて、旗が上がる瞬間だけ目を開けた。効率のいい観戦である。
――と、五番目の組が入場してきたところで、俺の観戦の質が変わった。
南区の師範代が、いた。
継ぎの当たった稽古着ではなく、道場の名の入った稽古着。手には規定の刃引き剣。遠目でも分かる。あの等間隔の気配は、変わっていない。
「……あの人は」
「南区の師範代だな。教室のみんなが噂してた。ひと月で化けた人だと」
あいつが気づいたのは気配ではなく、噂の方である。南区の急に化けた師範代、という程度には、あの噂はもう祭り中に回っている。
試合が、始まった。
そして、二十数える間に、終わった。
師範代は三歩で間合いを詰め、相手の初太刀を最小の払いで流し、二の太刀で小手を打つ。相手の剣が落ち、審判の旗が上がる。それだけだった。会場は沸いた。圧勝である。噂どおりの、化けた腕である。
俺だけが、別のものを見ていた。
遅い。
塀の外で聞いた、あの十六拍。あの正確で無駄のない、生き物の一滴が抜けた振り。今のは、あれではなかった。速度で三割、精度で二割、落としてある。それでいて崩れない。落とし方が、また正確なのだ。等間隔のまま、等間隔に遅い。
手を、抜いている。
「強いな。……ん?」
ジェスターが首を傾げた。
「どうした」
「いや。強いんだが……なんだろうな。あの人の剣は、腹が減ってなさそうだ」
「腹」
「うまく言えん。勝ったのに、勝ちたそうに見えなかった。飯を前にして箸を置いてる、みたいな」
片鱗どころではなかった。あいつの目は、俺が三割と二割で数えたものを、腹の減り具合という一語で掴んでいた。あいつの言語は数字を使わない。使わないだけで、届く場所は同じである。俺の言語では、同じものが、もう文章になっていた。
本気を隠している。この祭りのどこかまで、隠す指示が出ている。
誰の指示か。考えるまでもない。楽器に、承知も不承知もない。あるのは音色だけ――そして楽譜を書く手は、別にある。
問題は、なぜ隠すか、である。
予選は衆目の前だ。ここで全力を見せれば、本戦で警戒される。警戒されれば、番狂わせの興は削がれ、賭けの倍率は下がり、そして――測定の条件が汚れる。測るなら、相手が全力の時に限る。つまりあの楽譜の狙いは、本戦のどこかで、誰かの全力とぶつけることだ。
誰の、とまでは、まだ書けない。書けないが、候補の筆頭は、隣で麦酒片手に予想教室を開いている。
「ヨウタ、どうした。眉間に皺が寄ってるぞ」
「賭けの倍率を計算してた」
「賭けるのか?」
「賭けない。計算だけする趣味なんだ」
「変わった趣味だな!」
「お前の予想教室よりは堅実だ」
「俺のは教室じゃない。世間話だ」
外面の俺は、変わった趣味の従者として笑っておいた。内面の俺は、笑っていなかった。内と外の帳簿が別立てなのは毎度のことだが、今日は差額がいつもより大きい。差額が大きい日は、決算で疲れる。
師範代は、二回戦も同じ落とし方で勝った。
会場は「南区の星」と呼び始めた。呼び名がつくと、強さは物語になる。物語になった強さは、もう誰も測り直さない。うまい仕込みだと、敵ながら思う。観客六万人の目があっても、見えるのは「勝った」という結果だけだ。落とされた三割を数える目は、この鉢の中に、たぶん俺と――もう一人いるかどうか。
貴賓席の方を、俺は一度だけ見た。
白銀の甲冑の一角は、午後の光の中で、朝と同じ静けさのまま座っていた。遠すぎて、視線の先までは分からない。分からないが、あの静けさが今の試合をどう帳簿に付けたのか、俺は少しだけ、聞いてみたい気がした。
夕刻の鐘が鳴る。
「ヨウタ、夜は宿で講評会だ」
「何の講評だ」
「今日の全部だ」
豪気な議題である。俺は「用事」のために席を立った。教室を続けるジェスターに手を振り、階段を降りながら、頭の中の金庫にひとつ、新しい札を入れた。
札の表書きは、こうである。
――手を抜く理由のある強さが、この祭りには、少なくとも二つ入っている。
ひとつは南区の星。もうひとつは、これから初戦に出る。




