【第二巻】第四章 仮面の作法(一)
麦月十日。夜明けと同時に、王都の鐘が全部鳴った。
大小の鐘が勝手な音程で重なって、揃わないまま一つの音になる。開幕の合図である。どこかの誰かが「揃ってないのがうちの調律」と言っていたのを思い出した。あの理屈でいけば、王都の鐘は今日、街ぐるみで正しかった。
武闘祭、初日。
俺は夜明け前から観客席の列に並び、西の中段に陣地を築いた。列の先頭付近には、案の定、俺と同じ顔つきの従者が数人いて、互いに会釈も敵意もなく、それぞれの主人のための最適地へ散っていった。同業者の朝は静かである。敷物を広げ、婆さんのパンの残りで朝食を済ませ、席の周囲の顔ぶれが三度入れ替わるまで観察する。ジェスターの本戦初戦は二日後で、今日は予選と、開幕の儀式と、それから――夕刻に、俺の初戦がある。
初戦がある、と頭の中で言い直して、我ながら妙な気分になった。俺の帳簿に「自分の試合」という科目が立ったのは、三年ぶりである。しかも前回のそれは、二回戦で消滅した。的と一緒に。
開幕の儀式は、思っていたより厳かだった。
三十二本の旗が舞台を囲み、近衛騎士団が白銀の甲冑で整列し、王が貴賓席から短い言葉を述べた。整列した白銀の列の先頭に、一人だけ、飾緒の違う甲冑があった。あれが例の「どうせ今年も」の団長だろう。遠目にも姿勢が違う。姿勢というより、静けさが違う。六万人のざわめきの中で、あの一角だけ、音の届かない場所みたいに静かに立っていた。遠くて顔は見えない。声だけが、例の音響設計に乗って降ってきた。曰く、剣に誉れを、勝者に冠を、敗者に敬意を。型どおりの文句である。型どおりの文句を、六万人が静かに聞いた。型というものは、六万人を黙らせるためにある。
そして、儀式の最後に、妙なものが出てきた。
まだら服の道化である。
三叉帽の鈴を鳴らしながら舞台に躍り出て、王の言葉を引き取るように一礼し、逆立ちで舞台を一周した。観客がどっと笑う。道化は起き上がり、口上を述べた。
「――皆さま、お集まりの六万のお歴々! 名のある方も、名を上げたい方も、名を隠したい方もようこそ! 祭りの間、この街の身分は三つだけ。戦う者、観る者、そして――賭けに負ける者!」
笑いの渦。貴賓席の方まで、笑いは律儀に届いていた。
あの道化だ、と俺は思った。到着の日、大路ですれ違った、まだら服。俺たちを数えた気がした鈴。
道化は口上を続け、予選の組を紹介し、去り際に、こう言い残した。
「ああ、それから、夕刻からは無名戦もございます。お暇な方はどうぞ。お暇でない方も、どうぞ。名のない戦いってのは、名のある戦いより、たまに正直でございますよ」
鈴の音とともに、道化は消えた。
拍手は、少し遅れて起きた。冗談と本気の境目が分からなかった顔の拍手である。俺も拍手をした。俺の場合は、境目が分かってしまった側の拍手だった。
午前の予選で、ドヤールは勝った。
景気のいい試合である。開幕から口上を打ち、外套を翻し、相手が呆気に取られている間に間合いを詰め、二合で武器を弾き飛ばした。観客は口上の分まで沸いた。講談師の戦いは、戦いまで講談である。
「見たか、クラウン! おい荷物、見たか!」
「見た。二つ名の口上で相手の構えが緩んだ。あれは芸か、戦術か」
「両方に決まってんだろうが」
「次も口上からやるのか」
「当然よ。客が覚えるまでやる。いいかクラウン、名ってのはな、名乗った数だけ重くなるんだ。黙ってて重くなるのは腰だけだぜ」
「深いな!」
「だろうが」
深いのか。深いのかもしれない。名乗った数だけ重くなる名と、隠した数だけ軽くなる顔。この祭りには、両方の見本が揃って歩いている。
得意満面の講談師と昼飯を食い、午後の部を流し見て、俺は夕刻前に席を立った。
「ジェスター、例の用事だ。夜に宿で」
「ああ。……ヨウタ、夕方は無名戦を見ようと思うんだが、一緒に――」
「用事が長引きそうだ。先に見ててくれ」
我ながら見事な足抜けだった。見事すぎて、後味は悪かった。
無名戦の控えは、闘技場の北の地下である。
石の廊下に灯りが等間隔に並び、突き当たりの小部屋で、俺は白木の面をつけた。紐を結ぶ。視界が穴二つ分に狭まり、世界が急に静かになった。面の内側は、自分の呼吸の音がよく聞こえる。
妙な感覚だった。
顔がない、というのは、こんなに軽いのか。
三年間、俺は顔の管理をして生きてきた。驚かれない顔、覚えられない顔、その他大勢の顔。顔というのは着るもので、着こなしには技術が要る。その技術を、この白木の板は、紐二本で肩代わりした。
姿を消せる指輪を拾った羊飼いが、まっさきに何をしたか、という古い問答がある。答えは、王を殺して国を取った、である。俺は今のところ、地下の廊下を歩いているだけだ。羊飼いより、志が低い。
「――初出場だね、無名の七」
声は、廊下の暗がりから来た。
鈴の音。まだら服。三叉帽。開幕の舞台で六万人を笑わせた道化が、地下の灯りの下に立っていた。近くで見ると、化粧の下の年齢はまるで読めない。少年のようにも、老人のようにも見える。
「無名戦の口上役も、あたしの仕事でね。初出場には作法を教える決まりなんだ」
「作法なら、登録の時に聞きました」
「あれは規則。あたしが教えるのは作法。規則は破ると罰があるけど、作法は破ると――もったいない」
「もったいない、というのは」
「もったいないは、もったいないさ。旦那、飯を残すだろ。あれと同じ」
「俺は残しませんが」
「なら話が早い」
早くなった気配はなかったが、道化は満足そうに頷き、俺も、なぜか反論の必要を感じなかった。会話が噛み合っていないのに合意が成立する、というのは、あの鈴の音の効能かもしれない。
道化は、くるりと指を回した。
「作法その一。面をつけたら、名乗らない。名乗りたくなっても名乗らない。名乗りは面の外に置いてきた荷物だ」
「はい」
「作法その二。面の下で、勝手に喋るといい。誰にも聞こえないからね。……面ってのは不思議でね、つけると、言えなかったことがよく喋れるんだ」
登録の男と同じことを言う。この街の仮面の周りには、同じ言い伝えが何重にも巻きついているらしい。
「時に無名の七、なんで面が白木か、知ってるかい」
「……いえ」
「愚者の祭りの名残さ。年に一度、身分をひっくり返す祭りの日。王様は道化の帽子を被り、道化は王冠を被る。で、それ以外の連中はね、白木の面を被ったんだ。彩色なし、意匠なし。なぜかって?」
道化は自分の顔を、手のひらでつるりと撫でた。
「色を塗ると『誰か』になっちまうからだよ。白木ってのは『誰でもない』の色でね。誰でもない顔が街を埋めた日だけ、王様は初めて、街の本音を聞けたって寸法。まあ、これはあたしら道化の商売由来の講釈だ。学者に聞くと、また別のことを言う」
「学者はなんと」
「『染料が高かった』」
「……身も蓋もない」
「歴史ってのは大抵、色気と染料代の間のどこかにある」
覚えておきたい格言だった。覚えてどこで使うのかは分からないが、使い所の分からない知識ほど、よく育つ。
「作法その三。――これが一番大事だ」
道化は一歩近づいて、面の目の穴を、まっすぐ覗き込んだ。
「面は、隠すためにつけるんじゃない。……言うためにつけるものさ」
「――言うため?」
「そ。隠すだけなら、出てこなけりゃいい。家で布団を被ってれば、誰にも見つからない。わざわざ面をつけて、六万人の前に出てくるってのはね――布団の中じゃ言えないことが、あるってことなのさ」
鈴が、ちりんと鳴った。
「あんたの言いたいことが何かは、聞かないよ。それが規則で、作法で、あたしの趣味だ。……ただね、無名の七」
道化の声が、一段だけ低くなった。化粧の下の目が、笑ったまま、笑っていなかった。
「あんた、面の着こなしが最初から様になりすぎだ。……初めてじゃないだろう、顔を消すの」
鐘が鳴った。夕刻の部の、始まりの鐘である。
道化は身を翻し、鈴を鳴らしながら口上の階段を駆け上がっていった。残された俺は、面の内側で、自分の呼吸だけを聞いていた。
着こなしが様になりすぎ。
仮面の口上役に、素顔の技術を見抜かれた。あの道化は、俺の「その他大勢の顔」が着衣であることを、すれ違い二回で読んだのだ。
――言うためにつけるものさ。
では、俺は何を言うために、この面をつけたのだろう。
答えの帳簿は開かないまま、俺は灯りの並ぶ廊下を、舞台の方へ歩き出した。




