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【第二巻】第三章 手の出せない土俵(三)

 麦月九日の朝、俺は一人で考える時間を確保した。

 ジェスターは朝から素振りと走り込みで、昼は刃引きの受け取りである。従者の俺には半日の空きがあり、空きは思考のための倉庫になる。俺は宿の机に帳面を広げ、現状を条文の形に整理した。契約書の体裁は、思考の癖を隠すのに向いている。

 第一条。ジェスターは武闘祭で勝ち上がらねばならない。A級審査のためである。

 第二条。武闘祭には、調律された剣士が最低一人、混ざっている。最低一人、と書いたのは、一人だけと考える根拠がないからである。

 第三条。調律の仕込み元は、ジェスターに用がある。先月までの経緯から見て、教団の目当てはあいつだ。闘技場は、あいつを衆目の前で測定する実験台に使える。

 第四条。俺は闘技場の中に手を出せない。公正の目が見ている。

 第五条。俺は闘技場の外でも、人間相手には手を出しにくい。調律された剣士は被害者でもある。

 第六条。以上を放置した場合、あいつは審査の舞台で、正体不明の毒を仕込まれた相手と、素の腕で当たることになる。

 付則。仮に俺が何らかの形で闘技場に立つ場合、俺には勝つ技術しかない。三年間、勝ちを隠す技術は磨いてきたが、それは「勝負の外」でやる芸である。勝負の中で、衆目の前で、不自然でなく勝たない技術――つまり負け方については、俺の目録は白紙に等しい。本件は追って検討する。

 ……ここまで書いて、俺は筆を置いた。

 条文は綺麗に詰んでいた。外からは触れない。中には入れない。入れないのは、俺に資格がないからだ。F級の従者は観客席までしか入れない。

 入れる資格が、一つだけあることを除けば。

 俺は帳面の新しい頁に、その一行を書いた。書いてから、三度読み、二度消しかけ、消さなかった。

 ――無名戦。

 弁明の機会を頂きたい。これは不正ではない。無名戦は正規の出場枠であり、登録は合法、仮面は制度、素性の秘匿は伝統である。俺は何一つ規則を破らない。破らないどころか、規則に守られる側に回る。素性を調べるのは御法度。剥がすのも御法度。あの壁は、まさに俺のような人間のために二百年前から建っている。俺は闘技場の中に、合法的に立てる。立てば、調律された剣士が本戦でジェスターに届く前に、無名戦の側から潰し――いや、この言い方はよくない。試合として、正々堂々、戦って勝てばよい。ついでに言えば無名戦の勝者は本戦の上位進出者と「顔合わせ」の一戦を組まれるのが恒例だという。つまり最後まで勝ち残れば、本戦の脅威を仮面のまま検分できる。

 完璧な理屈である。完璧すぎて、自分で少し引くほどだった。

 人間は、やると決めた後で理屈を組む生き物だ、という説がある。俺のこの半刻の作文が、その説の証拠品にされても、俺は抗弁できない。第二条はどうした、と胸の内の書記官が言う。危険は二人で分ける。無茶をしない。異変は、隠さず言う。改正されたばかりの、俺たちの規約である。

 これは無茶ではない、と俺は書記官に答えた。工程だ。無茶と工程の違いは、見積もりの有無である。

 異変は隠さず言う、の方には、答えなかった。

 答えられない条項を胸に残したまま、俺は宿を出た。

 無名戦の受付は、闘技場の北側、目立たない小さな扉の奥にあった。

 扉の上に看板はない。代わりに、木彫りの面がひとつ掛けてある。目と口だけの穴が開いた、何の意匠もない面である。分かる者だけが来い、という戸口だ。

 中は、狭い石の間だった。卓が一つ。灯りが一つ。卓の向こうに、目の細い中年の男が一人。壁際に、白木の面が何十と掛かり、灯りの揺れに合わせて、全部の目の穴がこちらを向いたり逸れたりした。

 見られている、という感じはしなかった。むしろ逆で、あの壁は「見ないでいてやる」の陳列である。何十人分の預けられた名前が、穴の開いた顔で静かに並んでいる。妙な部屋だった。妙で、少しだけ、居心地がよかった。

「登録かね」

「はい」

「名は聞かない。素性も聞かない。聞くのは三つだけだ」

 男は指を三本立てた。

「一つ。得物は何か」

「棒を。刃物は使いません」

「棒。珍しいな。理由を聞いても作法には反さんが」

「使い慣れてるんです。物干し竿とか、天秤棒とか」

「ますます珍しい」

「二つ。願いは何か」

「願い?」

「仮面をつける理由だ。言いたくなければ『無名』と答える。それも作法のうちだ」

 俺は数拍考えた。考えて、正直に答えることにした。この部屋には、嘘の似合わない灯りが灯っていた。

「――勝たせたい奴がいます。そいつの勝ちを、本物のまま守りたい」

「ふむ」

 男の細い目が、僅かに開いた。

「三つ。その願いは、名を捨てても惜しくないか」

「名は捨てません。預けるだけです。祭りの間だけ」

「面白い答え方をする」

 魔女に声を預けて足を貰った人魚の話を思い出した。あちらは、預けたつもりの声が二度と返ってこなかった。祭りの間だけ、と俺は胸の内で、預かり証の期限をもう一度なぞった。

 男は壁の面をひとつ外し、卓の上に置いた。白木の面。何の飾りもない。目と口の穴だけが、俺を見上げている。

「作法を言う。仮面は闘技場の敷居の内でだけつける。敷居の外で仮面に触れる者は、何人であれ罰される。仮面の下を詮索した者も同じだ。――これは古い祭りの残り火でな。名を捨てた者は、その間、誰でもなくなる。誰でもないものを暴くのは、祭りへの無礼にあたる」

「愚者の祭り、ですか」

 男の手が、止まった。

「……ほう。若いのに、よく知っている」

「聞きかじりです。友人が、本で読んだと」

「なら、その友人はいい本を読んだ。いかにも、無名戦は愚者の祭りの残り火だ。年に一度、名前と身分を脱いで、世界の風通しを良くする日の。……今じゃ、脱ぎ場はこの枠ひとつだけになったがね」

 男は面を俺の方へ押し出した。

「登録名は『無名の七』。今年の七人目だ。開幕は明日。初戦の刻限は面の裏に貼る。――ああ、それと」

 男は、初めて事務でない声を出した。

「願いは、面の下で言え。面の下の言葉は、外に漏れん。漏れんが……不思議なもんでな。面の下で言った言葉ほど、よく届く」

 仮面は、隠すためじゃなく――。

 どこかで聞いたような台詞の断片が、掠めて消えた。俺は白木の面を受け取り、懐にしまう。軽い。軽いのに、懐の中の重さは、預け賃の銅貨と愚者の札を足したより重かった。

 外に出ると、昼の光が目に刺さった。

 闘技場の白い環が、青空の下で静かに待っている。明日、あの環の中で、俺は「無名の七」になる。

 夕方、刃引きを受け取ったジェスターと宿で落ち合った。あいつは刃引きされた剣を窓の光にかざして、上機嫌だった。

「見ろ、いい仕事だ。刃を潰してあるのに、重心が全然狂ってない」

「よかったな。祭り価格でもないし」

「ああ。あの親父さん、別れ際に言ってくれた。『いい試合をしな。刃を潰した剣で勝つのが、本当の腕だ』と」

「含蓄だな」

「だろう。俺は王都が好きになってきた」

 単純な男である。単純さが、こういう時はまぶしい。

「ヨウタ、明日はいよいよ開幕だ! 予選を見に行こう。ドヤール殿の初戦だ」

「ああ。……ジェスター、明日は別行動の時間がある。従者の仕事だ。買い出しと、席の確保と、それから――」

 それから、の先を、俺は舌の上で一度転がした。

 異変は、隠さず言う。規約第二条。胸の内の書記官が、頁を開いてこちらを見ている。

「――それから、ちょっとした用事だ」

 書記官は、黙って頁を閉じた。閉じる音が、思ったより大きく聞こえた。

「分かった。夜は一緒に飯だな」

「ああ。夜は一緒だ」

 嘘は言っていない。言っていないが、懐の白木の面が、着心地の悪い軽さで胸に触れていた。

 夕食の席で、あいつがふと言った。

「そういえば、無名戦も見られるのかな」

「……なんでだ」

「ドヤール殿の話が気になってな。名前を捨てて戦う人は、どんな顔で戦うんだろう」

「仮面で見えないだろ、顔は」

「そうか。そうだな! ……でも、だからこそ気になる」

 見えないから仮面なのである。当たり前の帰結だが、俺の心臓に悪い種類の当たり前だった。あいつの興味は、昔から的の中心へ素直に飛ぶ。

 その夜、寝る前に、面の裏の貼り紙を確かめた。

 初戦、明日の夕刻。相手――「無名の三」。

 明日、祭りが始まる。あいつの土俵と、俺の土俵。二つの土俵の間で、俺は初めて、あいつに言えない工程表を持った。

 工程表の一行目は、まだ白紙である。無名の三が何者か、俺は知らない。知らない相手と、知られてはいけない俺が、六万人の目の前で棒を交える。

 初日の演目としては、上等すぎるくらいだった。


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