【第二巻】第三章 手の出せない土俵(二)
その晩、俺は一人で南区へ出た。
建前は、宿の夕食に飽きたので屋台を漁りに行く、である。ジェスターには「食い比べだ。お前は明日の刃引きの受け取りに備えて寝ろ」と言い置いてきた。半分は本当だ。南区の屋台通りは王都でも有名で、俺は食い比べもちゃんとやった。串を二本と、揚げ菓子を一袋。仕事のついでに食うのではない。食うついでに、仕事をするのである。この順番には、規約第二条に対する言い訳の効力がある。効力があると、俺が決めた。
屋台通りは、夜でも昼の顔をしていた。油の煙と呼び込みの声が通りの上で層になり、祭りを待つ客が串を片手に行き交っている。二本目の串を買った屋台で、俺は焼き手の婆さんに世間話の顔で聞いた。
「南区に、変わった道場があるんですって?」
「……ああ、東通りの裏のね。近頃評判だよ。師範代が急に化けたって」
「へえ。稽古が良いんですかね」
「さあね。うちに来てた門下の子は、近頃買い食いに来なくなったよ。稽古が厳しいんだか、なんだか」
婆さんは串を裏返して、それきり口をつぐんだ。商売人が客の噂を打ち切る時の、あの閉め方だった。買い食いに来なくなった門下生。飯を食わない師範代。この道場の周りでは、食欲から先に消えていくらしい。
目当ての道場は、屋台通りの裏にあった。
噂の照合は簡単だった。塀の外まで、音が漏れていたからである。
素振りの音だ。
ただし、俺の知っている素振りの音ではなかった。剣が空を割る音は、普通、振りごとに揺れる。疲れで遅れ、呼吸で戻り、また遅れる。その揺れが、ない。等間隔。時報のように正確な風切りが、塀の向こうで延々と続いている。数えると、十六拍でひと区切り。区切りの間に呼吸半つ分の静止。また十六拍。
生き物は、等間隔に吠えない。
いつかの誰かの台詞が、頭の奥で埃を払われた。あれは夜霧の帯の偽装狼を見抜いた時の理屈だが、逆向きにも使える。等間隔に振れるものは、生き物の側から何かがひとつ、抜けている。
俺は物売りの休憩を装って、塀の切れ目から中を見た。
中庭に、若い剣士が一人で立っていた。
歳の頃は二十半ば。稽古着の肩に継ぎが当たっている。継ぎの当たった稽古着で三月前まで「並」だった男が、今は王都の噂の主である。夢のような出世の話だ。夢のような話は、俺の経験上、帳簿のどこかに夢のような赤字を隠している。
上背は並。肩幅も並。持っている剣も並の稽古剣で、つまり全部が並なのに、振りだけが並ではなかった。速い、というのとも少し違う。無駄がないのだ。振り上げに迷いがなく、振り下ろしに躊躇がなく、戻しに余韻がない。人間の剣は上手くなるほど無駄が減るが、最後の一滴までは減らない。減らないはずの一滴が、あの剣には残っていなかった。
そして、目。
ドヤールの言ったとおりだった。中庭の隅に篝火が焚かれ、光が剣士の顔を照らしている。目は開いている。開いているのに、篝火の揺れを追っていない。汗が顎を伝って落ちる。落ちた汗を、拭う仕草が一度もない。
絵が本人の代わりに老いていく男の話を、書庫育ちの誰かから聞いたことがある。あの剣士の場合、本人の代わりに何が減っているのか、その絵はまだ誰にも見せてもらえていない。
幕が下りた後の、誰もいない客席の目。
講談師の比喩は、俺の見立て帳の語彙より正確だった。
縁側に、道場主らしい壮年の男が座っていた。酒杯を持ったまま、飲んでいない。弟子の素振りを見る顔ではなかった。あれは、借金の証文を見る顔だ。手に入れた物の対価を、今になって数え直している顔である。
「――見事なものでしょう」
声は、俺の斜め後ろから来た。
振り向くと、灰色の外套の男が立っていた。いつから居たのか、分からなかった。これは俺にとって、めったにないことである。俺の背後の帳簿は、常時つけているのだ。その帳簿に、この男の接近は記帳されていなかった。
外套の襟の奥で、低い声がゆっくり動いた。
「三月前まで、あの音はもっと乱れていた。今は整った。整えれば、ああなるのです」
「……調律師か何かですか」
半分は探りで言った。男は、否定も肯定もしない。代わりに、指揮でもするように指先をひとつ振って、塀の中の音を示した。
「よい楽器は、よい音を出す。ただそれだけのことです。惜しいのは」
男は、少しだけ首を傾げた。
「――あれが、二流の楽器だということです。二流は、音を整えると早く鳴り終わる」
「鳴り終わる」
「ええ。ですが、祭りまでは保つでしょう。それで足りる契約ですので」
「……本人は、それを承知で?」
「問いが不正確だ。承知したのは、所有者です」
縁側の道場主。飲まれない酒杯。借金の証文を見る顔。問いの答えは、聞く前から縁側に座っていたわけである。
「楽器に、承知も不承知もありません。あるのは音色だけです」
男の声には、感情の起伏がなかった。ないのに、丁寧だった。丁寧さだけが器用に残っていて、中身が入っていない。俺は屋台の揚げ菓子の袋を持ったまま、目の前の男と、塀の向こうの剣士と、縁側の道場主とを、頭の中の同じ頁に並べた。並べると、構図はひどく単純だった。売った者、買った者、売られたもの。
「詳しいんですね。音楽に」
「音楽に、ではありません」
男は初めて、笑いに似た形を口元に作った。
「音に、です。人はみな音を持っている。整っていない音を。……あなたは」
外套の奥の目が、初めてまっすぐ俺を見た。
「――失礼。あなたの音は、聞き取りにくい」
沈黙が、二秒。
俺は揚げ菓子を一つ口に放り込み、袋を差し出した。
「食います? 揚げたてです」
「……いえ」
「そうですか。うまいですよ。ではこれで。連れが宿で待ってるので」
俺は会釈して、屋台通りの明かりの方へ歩き出した。
十歩目で振り返ると、男はもういなかった。現れた時と同じ帳簿外の去り方である。塀の向こうでは、まだ十六拍が続いていた。あの拍子の中に、男の消えた気配だけが、音もなく織り込まれていった。背中に視線が刺さっている間、俺の歩幅は買い食い帰りの歩幅を一拍も崩さなかった。角を二つ曲がり、人混みに三度紛れ、遠回りに遠回りを重ねて宿へ向かう。尾行はなかった。尾行の要らない男、という可能性だけが残った。
歩きながら、俺は帳簿を整理した。
調律。楽器。二流は早く鳴り終わる。祭りまでは保つ。それで足りる契約。
道場の中庭で振られ続けるあの剣は、祭りのどこかで、誰かの前に立つ。三十二分の一の確率で、あいつの前に立つ。いや――あの手の仕込みが一人だけだと考える理由は、どこにもない。
そして俺は、あの剣士に何もできなかった。
塀の外から見て、聞いて、帰ってきただけだ。モトリーなら、方法は十通りあった。夜のうちに道場の水瓶に細工をして稽古を三日休ませる。道場主の借金の証文を風で飛ばす。何なら賊の噂を流して興行ごと延期させる。裏方の十八番は、どれも「誰も見ていない場所」で仕込む芸である。
ここは王都だ。誰かが、いつも、どこかを見ている。
しかも相手は人間の剣士だ。魔物なら間引ける。賊なら追い返せる。だが、あれは――壊れかけの音を鳴らしながら、それでも自分の足で立っている、ただの人だ。俺の裏方仕事の目録に、「人を助けながら止める」の頁は、まだ薄い。
どうせ、こうなる予感はあった。
王都に着いた日から、俺の手は半分塞がれていた。残り半分で何ができるかを、これから数えることになる。
それに――あの灰色の男の言い方では、あの剣士は「それで足りる契約」の側だった。足りる、という言葉が引っかかる。足りる相手がいるということは、足りない相手のために、別の何かが用意されているということだ。二流の楽器で足りる用事と、一流の楽器が要る用事。後者の楽譜に何が書いてあるのかを、俺はまだ知らない。知らないままで済むとも、思っていない。
宿に戻ると、帳場に三日月の櫂の主人がまだ起きていた。
「お帰りなさい。おや、揚げ菓子」
「主人どのに。夜更かしの口止め料です」
「何も見ておりませんとも」
主人は袋を受け取って、にやりと笑った。王都の宿の主人は、口止め料の受け取り方が堂に入っている。
部屋に上がると、ジェスターはもう寝ていた。
寝台の脇に、手入れを終えた剣が立てかけてある。研ぎは十日に一度、油は使った日の夜に。整った刃が、窓の月明かりを静かに返していた。
同じ「整った」でも、ここまで違う。
あいつの剣は、あいつの十年が整えた。あの剣士の剣は、三月で整えられた。この差を何と呼ぶべきか、俺はまだ言葉を持っていない。持っていないが――整えられた側の目を、俺はもう見てしまった。
見てしまった帳簿は、閉じても消えない。




